黒く揺らぐ瞳
「……ディルケンス・ノヴァ 、殿下」
呆然としてエルピスはその言葉を繰り返す。
「ああ、そうだ」
そうやって意地悪く微笑むディルケンスを前に、何度も頭の中でエルピスは繰り返した。
ディルケンス・ノヴァ。
この国ノヴァ王国の第一皇子、ディルケンス。だが──「ディルケンス・ノヴァ」は100回目のエルピスが初めて聞いた名前だった。
99回の生死の中で、ディルケンス・ノヴァなる人物はどこを探してもいなかった。
エルピスの反応がイマイチだったのがお気に召さなかったのだろう。ディルケンスは眉根を寄せ不快そうな顔をした。
「……お前まさかこの俺を知らないのか?」
「いえ……すみません。【今】ようやく知りました。そうですか……貴方が第一皇子のディルケンス・ノヴァ様……」
「何故知らない。ストリートチルドレンでも流石に知っているだろう?」
「そういう意味ではなく……色々あって、ディルケンス殿下を知ったのが【初めて】だったんです」
「色々あってか……」
神殿内にも関わらずディルケンスは煙草を取り出し火をつける。
「だがパートナーである俺には聞く権利がある。悪いが答えてもらう」
「すみません……でも」
「謝罪の安売りをするな。答えろと言うからには言うことを聞け」
鋭く刺すような視線にエルピスはびくりとする。だがそれでもディルケンスの不機嫌は収まらないらしい。
「俺は寛容だ。問いに答えることで先の不敬は許す」
「寛容……? 兎に角、ありがとうございます?」
ディルケンスは値踏みするように問う。
「まず第一に、何故奴隷商人から逃げようとしなかった? お前のエレメンツの力なら容易いだろう」
「……言えません。正しく言うなら言ったところで意味がないからです」
「意味がないかどうかは俺が決める」
金色の瞳が語る。エルピスは惑ったあと答えた。
「99回」
ぽつりと口にした言葉でディルケンスは察したようだった。
「……99回死んでいるという話か」
「ええ。私は火刑で99回死んでいるんです。……あの商人に連れられ、犯されそうになった所、初めてエレメンツで人を殺すんです。それが、ある意味での99回の始まりでした」
傀儡時代のことを思い出すと吐き気がしたがエルピスはそれを笑顔で隠す。ディルケンスは満月の瞳でエルピスを見る。
「何故その運命に逆らわなかった」
「……逆らおうとしても、私の行動も、心も、意思も、全て固定されていたからです」
「成る程、だから【傀儡】か……だが、今回の100回目の何故か均衡が崩れた。運命の輪からお前は弾き出された。それでいいな?」
「はい」
エルピスは頷く。話してから急に、後悔した。馬鹿げた話をしていると笑い飛ばされる。その時はエルピスもまた笑って冗談でしたと誤魔化そう。不安だった。傷つくのが怖かった。特に──なぜだか、ディルケンスにそう思われるのは、嫌だった。エルピスがそんなことを考えていると、ついと指先で顔をとられ、ディルケンスの方へに向けられる。
ディルケンスの美しい瞳が真っ直ぐにエルピスを見る。ディルケンスの目が怖い。目を閉じたくなる。けれどディルケンスの目から、瞳を逸らすことができなかった。
その目が、細められる。
「信じよう」
「──え?」
「二度も言わせるな。99回、炎で殺されたお前を信じる」
手が離れていく。エルピスは信じられなかった。けれどディルケンスの目を見たら、ディルケンスが本気なのだと悟った。涙を流せばいいのか分からなかった。喜べばいいのか分からなかった。その全部かもしれない。ただひとつ言えることは「信じている」なんて言葉を聞いたのは、100回目のこの生で初めてだった。ただ、心臓の奧と声が切なく震えた。
「……ありがとう、ございます」
「情けない顔をするな。他にも問いがある」
「なんでしょう」
「バカラと裏帳簿のことだ。バカラはどうやって勝った? なぜイカサマだと思った? なにより何故手出しをした?」
ディルケンスは穏やかだが、射貫くような瞳でエルピスを見ていた。試されているのだとエルピスは思った。そのまま従順に答えた。
「バカラは黒のエレメンツを使いました。『私の手に渡る9に近い数字以外の札は【無】』いのだと。イカサマだと思ったのは侯爵……いえ、ディルケンス殿下が言っていたように目を見たからです。直感です。そして手出ししたのは、そのイカサマを暴露して赤っ恥をかかせてやりたいと思ったからです」
そう答えればディルケンスは少し意外そうに目を見開いたあと、笑みをつくった。
「赤っ恥か。案外とお前とは嗜好が合うな」
「爽快でした」
「なかなか良い性格をしている」
くつくつとディルケンスはご機嫌そうに笑う。だが大きな問いが残っていた。ディルケンスは笑みを浮かべたまま問う。
「それでは裏帳簿もエレメンツを使ったのか?」
「いえ。半分正解で半分不正解です」
「ならば実際、どうやった?」」
ディルケンスの眉が寄る。くすりとエルピスは笑う。
「まず黒のエレメンツで本物の黒帳簿以外【無】いことにしました。そうして火災報知器を鳴らしました。時刻は閉店後の締め作業のまっただ中。一番最初に避難することは予測できました。そこで背後から酒瓶でバキン、と」
そう告げれば愉快そうにディルケンスは声を上げた。
「なかなかリスキーだが、成る程、想像以上だな。矢張りパートナーにはぴったりだ」
「ありがとうございます。……しかし殿下。何故殿下とあろう方が奴隷商人の場所に?」
「執務は面倒だ。そんなものシグナル公爵か第二皇子のクレイトーレに任せれればいい。俺は諜報の方が向いている」
そう言ってディルケンスは立ち上がって煙草をもみ消すと、座り込んだエルピスに「立て」と命じる。エルピスが立つと黒ですっかり汚れた衣服を見て、溜息を吐き出したあと、エルピスに手を翳した。
「──汝、清らかに」
そう詠唱したした瞬間、あっという間に黒が失せて元のドレスに戻る。
「殿下は、優しいエレメンツをお持ちなんですね。意外です」
「そうか。お前も意外だと思うか。城に戻り次第、断頭台に乗せようか」
「そうしたら101回目になりますね。歓迎です」
聖堂を歩きながらそんなことを言えば、頬を思い切りつねられる。
「馬鹿か。パートナーと言っただろう。俺はお前の命を預かっているんだ」
「そうでした。すみません」
「だから謝罪の安売りをするな」
「すみません」
「死にたいのか?」
ディルケンスは呆れたというように溜息を吐く。
車に乗ると、すぐにディルケンスは城に向かうよう告げた。この車も王室が持つものだろうとエルピスは思った。
「王室ならもっと凄い車に乗れるんじゃないんですか?」
「変装には不向きだ」
「成る程」
「それよりお前。期待は全くしていないが社交界でのマナーは?」
ディルケンスの問いにエルピスは苦笑する。
「どうでしょう。やってみないと分かりませんね」
「そうか……なら2週間でマスターしろ」
「2週間」
「ああ。ダンスも社交術も全てだ。その社交界にいるのはお前じゃない。偽りのお前だ」
「へぇ……偽りの私。何だか楽しそうですね」
エルピスはそれが、如何に厳しいことか分かっていないのだろう。ディルケンスはタチの悪い笑顔を浮かべていた。2週間の間、あわてふためくエルピスはきっと幼子のようなのだろう。※姿形とは顔立ちと体つき。姿や顔かたちの様子です。
車が裏門から入ると、車を停め、エルピスと共に外へ出る。城の中にいるエルピスは予想外に落ち着いていた。てっきり公爵邸で見せた時のように、物珍しそうにするかと思ったが、エルピスの視線は光差す窓やそここから見える雄大な城下町しか見ていなかった。まるで「城」というものを知っているかのような落ち着きだった。
大広間に出ると、しんとした静寂ばかりで誰もいなかった。おそらく第二皇子のクレイトーレは執務室、第三皇子のキョウは実験室にでもこもっているのだろう。面倒だ。ディルケンスは指を鳴らして詠唱する。
「ここにクレイトーレとキョウが【有】る」
途端に音もなく二人の兄弟が現れ、明らかに怒りの色を浮かべる。エルピスはぽかんとしていた。第二皇子のクレイトーレは眼鏡を押し上げ溜息をする。
「兄上……今大事な執務中だったのですが」
「そーだよぉ。オレも超絶大事な実験の途中だったのに~……ってあれ、ソノ子だれ?」
「まさか兄上……またですか?」
苦虫をかみつぶしたようにクレイトーレは顔を歪める。
「いい加減、娼婦をつれてきて婚約者だの何だの言うのはやめてください」
「え~でもクレイ兄~~~、この子、全然美人じゃないよ」
キョウの一言でダメージを負ったようだったが、エルピスは苦笑して肯定した。
「婚約者でもなければ娼婦でもありません……美人じゃないのは分かってます……」
そんな兄弟とエルピスのやり取りが可笑しくて、ディルケンスはくすりと笑う。クレイトーレが鋭く問う。
「そうでなければ兄上。その女性は一体どなたなんですか?」
「俺の仕事のパートナーだ」
聞いた途端クレイトーレは長い溜息を吐いて、キョウは「こんな地味な子が!?」と驚いていた。ディルケンスはエルピスの腰を抱き寄せて言う。
「この女は世界で一つしか持たないエレメンツの持ち主だ。それに……とてもじゃないが過酷な人生を歩んできた。聞いたら驚くぞ」
「殿下。それは……」
焦るエルピスにディルケンスは微笑む。
「ああ。言わない。秘密の共有。それがパートナーの絆を深めるからな」
「私はまだ殿下の秘密を聞いていませんが」
「この俺の素顔そのものが秘密だ」
「……成る程?」
大きくクレイトーレが咳払いをする。その眼鏡の奥にある瞳は鋭い。
「兄上。お戯れも止めてください。そんなか弱い女性が殿下のパートナーになるなどあまりに気の毒です。子どものお遊びではないのですから」
「そうだぜ兄上~~~。そんな踏んだらポキッといくような女じゃ、無理だって!」
完全に二人はエルピスに対して否定的だった。ディルケンスは人の悪い笑みを浮かべてエルピスを見た。
「……だそうだが、エルピス。どうする? 秘密の一つくらい開示してもいいよな?」
エルピスは溜息を吐き出した。その翠の目にはもう、強い意志が宿っていた。エルピスは確かに地味だ。だが貶められて寛容でいられる訳ではない。なによりエルピスばディルケンスの「パートナー」として選ばれたのだ。その兄弟にも、パートナーとして認められなければならない。
「──いいでしょう」
そこでようやく見せた、「素朴な少女」からの「魔女」への変貌。透明な水に漆黒を一滴垂らしたような、静かな豹変に、クレイトーレもキョウもたじろぐ。くく、とディルケンスは小さく笑う。エルピスは二人の目を見て言った。
「私の秘密、ひとつだけお見せします。ただし、戦うことはしません」
エルピスはぐるりと大広間を見ると、念の為屋外に出ましょう、と提案した。
「オイオイ、ほんと~に見せるだけで分かるわけ? 力が強いってさ」
「……いえ、良いでしょう。ここで我々が判断すべきなのです」
「それなら決まりだ。屋外に出るぞ」
ディルケンスは詠唱する。
「ここに広々とした地、【有】り」
バチン、と空間が蒼い稲妻を立てて変質する。そこは大広間ではなく、広々とした大地に変わっていた。エルピスは一歩、前に出る。
「少しだけ試してみてください。簡単なエレメンツの術式でお願いします。それだけで私の力は分かりますので。それ位で良いですよね?」
「好きにしろ」
ディルケンスは腕組みをして爽やかに笑う。くすりとエルピスも笑い返す。
だがクレイトーレとキョウは困惑していた。
何かおかしい。何故、兄はそれに気付かないのか。
何が、この少女を「豹変」させたのか。
エルピスがこちらを向いて、その唇が弧を描く。まるでそれは──全てを漆黒に塗り替えるような「魔女」のようで、深淵を覗き込んでいるようだった。そんな邪悪な、得体の知れない恐怖を覚えたのだろう。突き動かされるまま、キョウが先に出る。
「水のエレメンツ! 我が敵に雨のような矢を放て!」
その手が青色に輝き、矢のような形をとったあと幾つも凄まじい勢いで放たれる。
エルピスは目を見開く。簡単な術式ではない。それは明らかな殺意をもっていた。けれどエルピスは動かなかった。
ただ迫り来る水の矢に手を翳すと、
「──【無】にせよ」
矢は何もなかったかのように、忽然と消えた。
キョウは目を見開く。ディルケンスは叫ぶ。
「キョウ! 簡単な術式でいいと言っただろう! なのに何故──」
「兄上、この女は危険です。ここで排除しなければ」
それに次いでクレイトーレがエルピスを炎の魔方陣で囲む。クレイトールの瞳が赤く燃え、詠唱する。
「火のエレメンツ。六法、余すことなく汝を炎で包み上げろ!」
轟、と音がしたと共にエルピスの身体は炎に包まれる。
「クレイ! お前まで!」
兄弟たちの容赦ない攻撃にディルケンスは困惑する。だが、クレイトーレが放ったあれは、駄目だ。己の無能さに舌打ちし、すぐにディルケンスは水のエレメンツを発動させようとした。だが、それより早くエルピスの身体は炎に包まれ火柱になる。最悪だ、と。ディルケンスは苦々しく思う。
炎の柱──その中から、エルピスの冷たい詠唱が響く。
「【無】よ」
一瞬にして炎が消える。
気付けばエルピスの瞳は翠から漆黒へと滲み、その顔つきは威厳と邪悪に満ちた「魔女の王」そのものだった。ふらり、とエルピスの身体が揺れる。倒れる、と思ったが、それは杞憂だった。
「──黒のエレメンツ。空間を【無】くす」
あんなに距離があったのに聞こえた声は、クレイトーレの耳元だった。クレイトーレぞくりと怖気を覚える。人間ではない。そういったものを相手にしている、という本能。恐怖で腰が立たないキョウの隣で、黒く揺らめかせた目で、エルピスは言う。
「……汝の重さを【無】くす」
言うなりクレイトーレの首を高く掴んでエルピスは見上げる。瞳は漆黒に染まっていた。その艶めいた唇が言う。
「……また……また、私を火刑に処すつもりか」
「なにを、言って……ッ」
「幾度も、浴びてきた炎。ああ、なんと愚かな……それをまた私を、あの子らをお前たちは────」
「待てエルピス!」
ディルケンスの言葉でエルピスの動きは止まり、クレイトーレから手を離す。黒く濁っていた目が、ディルケンスの満月色の瞳と交わると、じわじわと漆黒が退いていく、やがて我に返ったエルピスはぺたんとその場に座り込み、ディルケンスは抱きしめる。
「……白のエレメンツ。ここは大広間で【有】れ」
世界がバチバチと音を立てて、元来た大広間へと戻っていく。
腕の中にいるエルピスはガタガタと震え、ディルケンスを掴む手は縋るよう強かった。
まさか、兄弟があんなふうに攻撃するなど予期していなかった。クレイトーレのエレメンツが「火」であっても、軽度な術式であればこんなことにはならなかった筈だ。だが──その全ての可能性をディルケンスは想定すべきだった。己の力に怯えるエルピスを腕に抱きながらディルケンスは舌打ちする。
「……すまなかった。エルピス」
火刑。クレイトーレの炎が99回の記憶と結びついてしまったのだろう。ディルケンスが痛々しく言う。
元の世界に戻ってきたクレイトーレとキョウは身を起こし、信じられないものを見るような目でエルピスを見ていた。先程とは違う「普通の少女」の姿。威厳も邪悪さなど、そこにはまるでない。
クレイトーレが喉元をさすりながら見下ろす。
「……兄上、どういうことですか? 黒のエレメンツなんて聞いたことがありません」
「俺もだ。だがエルピスはこうして黒のエレメンツ──【無】の力を持っている。だが他の四大元素はもっていない。だから神子ではない」
異質な黒、とクレイトーレは呟く。
「それと兄上……気になったんですが、また火刑に、とは……?」
ディルケンスは未だに怯えるエルピスの髪を撫でながら言った。
「それは……言えない。俺が知られたくない素顔があるように……エルピスもそうなんだ」
「……分かりました。とりあえず無礼をお許し下さい。貴女は、兄上のこれ以上ないくらいのパートナーだ」
クレイトーレがそう言えば、びくっと震えたあとエルピスもまたクレイトーレを見た。その震える声で紡ぐ。
「いえ……そんな私こそ、すみませんでした……皇子様に向かって、こんな、ことを。ただ私の力を知って欲しくて……」
「こちらが勝手に貴女を脅威と捉え攻撃したのです。悪いのは私達で貴女は悪くはありません。そもそも貴女を侮った私達に非があるのです。ほら、キョウ……キョウ!?」
忽然と消えた第三皇子のキョウにディルケンスは舌打ちする。
「……逃げ出したな」
「キョウはまだ16才ですからね。怖いのと謝らないのとで、いっぱいいっぱいなんでしょう」
「……あの」
ようやく平静を取り戻してきたのか、エルピスの翠の目がクレイトーレを見る。
「すみません……あとでキョウ様にも謝罪したいので何処にいらっしゃるか教えて頂きたいのですが……」
急に「普通の少女」へと戻ったエルピスに、クレイトーレは目をぱちくりさせた後微笑んだ。
「ええ。それではディナーをとってからご案内しましょう。それと、私のことはクレイとお呼び下さい」
「クレイ様……ありがとうございます。それではキョウ様への謝罪が終わり次第、ここから立ち去りますね」
「お前は馬鹿か」
最早常套句になったディルケンスの言葉にエルピスは眉根を寄せる。ディルケンスはそんなエルピスを鼻で笑う。
「お前は俺のパートナーだと言っただろう。今日からここがお前の家だ」
ここと言うのが城だと気づき、エルピスは慌てる
「そんな! 城なんて!」
「黙れ五月蠅い。それと俺の事もディルと呼べ。クレイと違ってパートナーだから敬称はいらない」
「ディ……ル、さ」
「敬称は言わない。二度俺に同じ事を言わせたら頭蓋を叩き割る」
にっこりと端正な顔でディルケンスは笑う。エルピスはぎこちなく名前を呼んだ。
「……ディル」
小さな声で言うとエルピスの頬は赤林檎のように赤くなる。ディルの機嫌も上がる。
「なんだお前。ただ男の名前を呼ぶだけで恥ずかしがるような初心なのか?」
「いえ、そんな」
「いいかエルピス。これからお前は多くの男達を相手にする。そんな調子では先が思いやられる。クレイで練習するか?」
ちらりと視線をディルはクレイへと視線を寄越すがまるで無視だ。エルピスは視線を惑わせながら答える。
「お断りします。クレイ様が魅力的な方なのは理解しますが、ディルさ……ディルを呼んでどきどきしたのは別の理由です」
「別の理由?」
怪訝そうに眉根を寄せるディルに、エルピスは答えた。
「生まれて初めて『ともだち』が出来たような気がして……」
ともだち。
その一言でクレイが噴き出して笑う。相反してディルは殺意たっぷりの視線でエルピスを見た。
「……なら今夜お前を『ともだち』とは違う関係にするか……? 生憎俺はクレイほど優しく出来ないが──」
「それは駄目です」
「お前に発言権があるとでも?」
「あります。なにより私たちは『パートナー』ですから。セックスはできません」
にっこりとエルピスは言う。愕然としたのはディルとクレイだった。
女の口から「セックス」などという単語がきっぱりと出てこないと思ったのだろう。クレイとディルは硬直した。濁して誘う女などディルはこれまで何人も見てきたが、事務的に「セックス」なんて言葉を用いる女などいなかった。
すっかり興醒めしたディルは「女がそんな言葉を使うな」と言う。エルピスは不思議そうに首を傾げた。仕方なくディルは言う。
「女なのに『セックス」なんて直情的に言うものじゃない」
「それなら何て表現したら良いんですか? 後学のために教えてくださいディル」
真面目ぶったエルピスにディルは苛立ちを覚える。ただ純粋に聞くのだったらまだ許せる。だが今こうして聞いてくるエルピスは明らかにディルを弄ぼうとしていた。それが──殺意で煮えくりそうなほどに苛立つ。
「お前……わざとだな?」
「わざとです。すみませんディル」
苛立ちが頂点までに上った瞬間、ディルはエルピスをソファに押し倒した。翠の瞳が瞬く。
ディルは優しい目でエルピスを見下ろし、耳元で囁く。
「……私と、今夜はずっと共にいてくれませんか? ……エルピス」
低く艶めいた声で告げる。エルピスは普段とは全く違うディルの姿に赤面する。ディルは明るいエルピスの茶色い髪にキスをした。
そしてその手が太股にふれようとした、そこで。
「…………兄上」
地獄から這えずるような声音でクレイがストップをかける。ディルは「いい所だったのに」と天使のように笑っていたが、エルピスの心臓はどきどきしていた。だがそれを見たディルは一変して、悪魔のような微笑みを浮かべる。
「これでどうだ?」
「…………」
「なんだ、驚きで声も出ないのか?」
ディルが楽しげに伺い見ると、エルピスは興奮気味に声を上げた。
「こんなこと、初めて男の人にされました……!」
「……は?」
ディルとクレイの声が重なる。エルピスは初めて恋をしった乙女のように言う。
「こういう感じなんですね……ディルはとても綺麗で、素敵な声なので、とてもドキドキしました。ありがとうございます、ディル。とても参考になりました」
「…………そうか」
頭痛をしたように頭を抑えるディルにクレイは苦笑いを零した。
そこでディルは思い出したように言う。
「そうだ。エルピス。お前はもっと太れ。あまりにも華奢過ぎる。この2週間で可能な限り肉をつけろ」
「……兄上、まさかと思うのんですが、2週間後の社交界で彼女をデビューさせると?」
「ああ。ユン伯爵と子爵の動きが怪しいからな。エスコートする女が必要だ」
「兄上……流石に2週間は無理ですよ……」
目頭をおさえるクレイに、ディルはきっぱりと言ってやった。
「安心しろ。彼女は俺の優秀な『パートナー』だからな」
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