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99回目の終わり


 また、名も無き魔女は火刑で殺される。

 十字架の形に手足を打ち付けられ、決して逃げることのないよう魔女は殺される。

 火が放たれる。炎は魔女を足元から包み込んでいき、やがて火柱となった。

 人質にされた孤児が泣く声が聞こえた。

 いいのよ、と心の中で思う。炎が勢いを増すのに、命は消えていく。

 大丈夫。

 大丈夫だから。


 こんなのはもう、99回目の出来事だから。

 名も無き魔女は笑う。


 願わくば、永久に、誰か殺してくれ。

 この連鎖を終わらせてくれ。




***



 

 結局運命は変わらないようだった。

 100回目の■■■■も矢張り世界樹から流れ出る水脈から引っかかって、老夫婦に育てられた。所謂、捨て子だ。ひとときの時間だが老夫婦との生活は楽しかった。老夫婦が痴呆であったため、■■■■の名はないまままだったが■■■■は幸せと感じた。

 だが運命は変わらなかった。強盗により老夫妻は死んだ。家には一銭残らず、家は荒れ放題だった。想い出はいうも粉々になる。■■■■は8才でストリートチルドレンになり、路上生活を続けた。ゴミ箱から食べ物を漁ったり、暑い夜は世界樹から流れ出る水の中で身体を冷やした。男との関係を迫られることは幾度もあった。だが女同士ストリートチルドレンはタッグを組んで、お互いにお互いを守る術を身につけた。孤児になっても身体は売りたくなかった。■■■■は地獄のような日々を耐えた。いつ終わるのか分からない日々に不安を覚えた。


 だがいつからだろう。その時の感情も、その出来事も、全部が「剥奪」された。


 誰かに思考をねじ曲げられるように■■■■は思考も行動も奪われた。

 例えばある事件が起きる。

 そうしたら絶対に■■■■はこう考える──というように。

 全てが全て、決まり始めていた。

 1回目に「あんな罪」を犯したからだろうと考えた。だからこれからは善行を積もうと思ったが──悪あがきだった。石化されていくように、■■■■の思考も行動も同じ道を辿っていた。

 運命は決まっている。


 ■■■■は産まれた頃から何者かに心も意思も行動も決定され、「魔女」として火刑にされる。

 決して変わらない運命。

 正気を保てたことが不思議なくらいだった。だが、この「正気を保ち続ける」ということ自体も、運命に組み込まれているのかもしれない。




 そして100回目の今日、運命の日を■■■■は迎えていた。




 奴隷商人。偶然捕まってしまった。99回目と同じだ。

 そして奴隷商人が■■■■を犯そうとしたところで、■■■■は初めて人を殺してしまう。最初の殺人。物陰に座らされながら■■■■は奴隷商人が来るのを待つ。あとどのくらいだろうか。■■■■は目を瞑る。運命はそのままだ。

 その時。


「おい」



 突然、隣から声をかけられた。

 青年の声だった。■■■■は目を見開く。口元まで隠しているため、顔は分からない。


 ただ──満月色の双眸。


 その瞳の美しさに■■■■は目を見張る。

 青年は満月色の瞳で■■■■へと尋ねた。



「お前、何歳だ?」

「……18」


 隣にいた青年が舌打ちをする。■■■■は焦った。こんな会話は99回のうちに、無かった。どういうことだ? 何が起こっている? そんな混乱に陥っている内に、奴隷商人が戻ってくる。犯される。けれど突然、隣にいた青年が立ち上がり奴隷商人に向けて手を翳した。


「──轟きのように吹き荒べ! 風よ!」


 詠唱のあと青年の甲が翠色に光った。途端、強い音を立てて風が轟とうなりる。凄まじい刃のような風を受けた奴隷商人の二人が激しく壁に激突し、意識を失う。思わず呆然と、■■■■は立ち上がる。青年はすぐさま潜んでいた人々──軍服を着た人々へと指示を飛ばす。


「確保しろ。両方だ」


 いつの間にか現れてた大型の車両に孤児たちが無理矢理詰め込まれていく。奴隷商人は違う車に引き込まれ、雑に投げ入れられる。■■■■は何が起こっているのか分からなかった。

 ただ、違う、と思った。

 99回目までとは全く違う。

 何よりこうして「自分で自由に思考し、行動できている」。■■■■は自分の手を見る。握って、開いて。初めて糸が切れたようだった。

 歓喜した。そんなことを思っていた瞬間、青年に壁に押しつけられ、喉元にナイフを突きつけられる。

 満月色の、美しい青年は問う。


「お前、最初からこうなることを知っていたようだが奴隷商人の仲間か?」

「いいえ」

「なら何故お前は今も落ち着きを払っていられる」


 確かにそうだ。他の人から見たらもっと怯えたり恐怖したりするものだろう。

 けれど99回火刑に処された「魔女」からしてみれば、これは好機のようなものだった。

 ■■■■は笑って言った。


「嬉しいんです」

「嬉しい……?」

「はい」


 ■■■■は清々しいまでの笑顔で言った。


「だって99回も火刑で殺されてるんですもの。嬉しいに決まっています」


 青年の瞳が大きく見開かれた。■■■■は押し当てられたナイフの、ひやりとした感触さえ心地よかった。


「もう100回目も火刑に遭うのは嫌です。けれどここで貴方が私を殺してくれれば、運命が変わるかもしれない。今度は生き抜くことができるかもしれない。だから今、私の命を、あなたに託します。あなたがここで殺しても殺さなくても、私は今度こそ絶対に、次は生き抜いてみせるから」


 長い間閉じ込められていた■■■■は、切実とした思いを吐露する。本当の感情を心から言葉にして発せられる。■■■■にとってそれさえ喜びだった。その自由が■■■■にとって幸福だった。


 静寂が落ちた。

 かと思えば、満月色の瞳の青年は、ナイフを退き、くつくつと笑い出した。

 笑う青年に■■■■が戸惑っていると、青年は顔を覆っていたフードをとった。青年は冷たそうだが端正な顔をしており、ダークウッドのさらりとした髪の毛と黄金色の瞳がよく似合っていた。とてもきれいな人だ、と■■■■は思った。

 未だにその人は笑いながら口を開いた。


「気に入った。死を前にしたとは思えない覚悟した目。愉快な女だな、お前、名前は何という?」


 ■■■■は困った。名前など自分にはない。99回のなかで一度もなかった。

 黙り込んでいると青年が察し取ってくれた。


「名前がないのか。それなら良い。俺が名前をつけてやる。有り難く思え」

「名前……」


 青年は頷くと、自信満々に答えた。


「ああ、今日からお前は【エルピス】だ。忘れたら首を切り落とすから忘れるなよ」

「エルピス……」



 ──エルピス。



 ■■■■は──エルピスは、口の中で繰り返す。何度も、何度も、果実の液を噛み締めるように。ほろりと微かに涙が出た。エルピス。100回目で与えられた初めての名前。その名前が宝物のように輝いて、エルピスは何度も心の中で呟いた。

 ここにいる自分は「エルピス」なんだ、と。


「おい、置いていくぞ。エルピス」


 青年が呼ぶ。エルピスと呼ぶ。どう返事していいか分からないけれど、青年に従った。

 そこには丸みを帯びた茶色の車があった。車は富裕層しか持っていないものだ。けれど青年はそれにエルピスと共に乗り込むと、青年はすぐに運転手に「ウィンヘル通りのナビル総合百貨店へ行け」と指示する。


 ウィンヘル通りというと富裕層が利用する店が建ち並ぶ通りだ。とても今のエルピスや、たとえ顔立ちが整っていても青年のボロボロな格好では入店拒否されるだろう。ビクビクと怯えるエルピスをよそに、青年は高級百貨店に下りるとスタスタと中へ入っていった。

 勿論、周囲はぎょっとしたが、害虫から離れるように人が避けていく。そこでエルピスは「あれ?」と思う。いつの間にか青年の美しい黄金色の瞳が、平凡なブラウンに変わっていたからだ。自分の見間違いだっただろうか。思っている内に、辿り着いたのはアロマソープ&スパの店だった。確か、貴族が夏場、街中で汗をかいた時、お手軽に汗を流せる場所だと聞いたことがあった。


 青年が足を踏み入れた途端、若い女性従業員が「すみませんお客様のような方のご入店は……」と言ってくる。それを人を殺しそうな瞳で青年は睨み付ける。一瞬にして凍てついた店内で、何が起こったのか奧から店主が出てくると、急に猫なで声で青年へと声をかけてきた。


「ルディナ侯爵様ではないですか! また何かお遊びに興じられたのですか?」

「御託は言い。早く使わせろ。ついでにそこにいる女も洗濯しておけ」


 そう言ってエルピスを指さす。


「せ、洗濯でございますか……ええっと、どのコースを……」


 人を殺す視線でまた青年は──ルディナ侯爵は店主を見る。


「俺を誰だと思っている。言わなくても分かるな?」

「は、はい! フルコースでもてなさせて頂きますッ」


 ルディナ侯爵はエルピスの手を取ると中に入ろうとしたところで、振り向いて冷たい瞳で店主を見た。


「あと俺を知らずに入店拒否しようとした女。首にしろ」

「は、はい……承知しました……」


 数分でやつれたように見える店主を尻目に、レディースとメンズに分かれる。


 エルピスはそこで感動する。猫足バスタブに、磨き抜かれたタイル。石けんの種類、なにより温かい「風呂」。全てが別世界のように映った。

 やってきた職員がエルピスを見るとひくりと顔を歪ませたが、「ほら……ルディナ侯爵様の……」と耳打ちするとにっこりと笑顔を浮かべた。シャワーで汗や垢といった汚れを擦って流してもらい、それから花弁の浮いたバスタブの中に入る。尋ねられて気に入ったオイルの匂いを選べばば、オイルで明るいブラウンの髪を梳かれる。気持ちが良い。エルピスがとろりと眠りそうになったところで、作業は終わったらしい。


 エルピスは身体を拭かれバスローブに身体を包むと、今度はヘアメイクと同時にメイクを施された。これもエルピスにとっては初めての経験だった。フェンデーション、赤いルージュ、アイライナーとアイシャドウで陰影をつける。ハイライト、シャドウ、それからチークをいれて鏡を見ると、エルピスは「嘘」と思わ呟いてしまう。まるで自分ではない艶やかな顔立ちに驚愕していると、職員が「こちら旦那様よりお召し物ですよ」と差し出される。

 

 鮮烈な赤。赤く質の良いであろうドレスが手の中にあった。スリットが入った大人びたドレスだ。

 エルピスは震える。これ一つで何年暮らせるのだろう。

 しかし何故「旦那様」なのだろうと思いながらエルピスは着替えると幸いなことにサイズはぴったりだった。


 レディースルームから出ると、とうに終わっていたのだろう。店の商品を物色していたルディナ侯爵がこちらを見る。侯爵は暗めのシャツの上にジャケットを纏い、カジュアルだが上品な姿をしていた。こうして見るとまるで別人だ。端正な顔立ちもあいまって、色男とはまさにこのことだろうと思う。


「エルピス」


 そんな青年に呼ばれ何だか気恥ずかしいような気がして俯いていると、侯爵が「俯くな」と言って顎に手をやる。それからじっと──観察するようにエルピスを上から下まで眺め、ある程度満足がいったのか「可だな」と答えた。これで「可」といルディナ侯爵の価値観が全く理解できなかったが、侯爵がが立ち去ると最後まで店員たち全員が頭を下げて青年を見送った。


 店を出ると陽が傾いていた。青年は懐中時計で時刻を調べ、パチンと閉じると「丁度良い時間だ」と言った。ずっと待っていたのだろう。先程乗ってきた茶色の車に乗り込む。エルピスは青年の横顔を眺めながら尋ねる。


「ルディナ侯爵って言うんですか?」

「ああ。そうだ。ノブレス・デ・ルディナ。それが俺の名だ」

「侯爵……ということは貴族ですよね? 侯爵……というと……身分が高い……?」

「爵位で言えば公爵の次だな。だが、さっき寄ったナビル総合百貨店をが作った位には財力はある」

「えっ、つ、つくった……?」


 驚きのあまり声も出ないエルピスを放っておいて苦虫をかみつぶしたように侯爵は言う。


「しかし先程寄った店は不快な事だらけだったな。商品の品質も落ちていれば、この俺を知らぬなどという間抜けもいる。捨て時かもしれんな」

「捨て時」

「そうだ。あの店を追い出して違う店舗を入れる。俺の所に入りたい店は他にもあるからな」


 平然と切り捨ての話をする侯爵が最早悪魔的に見えてエルピスは何故、自分が今この男と一緒にいるのかと疑いたくなる。


「お前、何を考えている」


 ルディナ侯爵が訊いてくる。


「何故、侯爵は奴隷商人のところにいたのかと思って」


 するとにやりと人の悪い笑みを浮かべてルディナ侯爵は答えた。


「俺は他人が慌てたり急にひれ伏す姿が好きなのだ。特に調子が乗った奴のな」


 性格が悪いと言う言葉が喉元まで出かけて飲み込んだ。


「他にもあるんじゃないか?」

「こんなに良くしてもらったのは……娼館に売られると考えていました」

「お前を売ったところで小銭ほどの価値もない」

「ならば何故ですか?」


 侯爵は楽しげに笑った。非常にタチの悪い笑顔で。


「お前には今日から俺のパートナーになってもらう。だが対等じゃない。あくまで俺が上だ。そして本当にパートナーになるに相応しいか、今日に見極める。テストのようなものだ」

「……はい?」

「その間抜け面。愉快だな。だが、この俺とて適当に選んだ訳ではない」

「適当じゃないなら、どういった理由ですか?」

「覚悟ができている」


 心臓がどくりと鼓動する。握った拳から人知れず汗が出る。覚悟。それは確かにいつだってできていた。99回も殺されればいつだって終わりにむけての覚悟はできている。だが、とエルピスは思う。今ある覚悟は今までとは違う。死の覚悟ではない。それは──


「──生き抜く覚悟がある」


 思わずエルピスは侯爵を見た。全く同じと事を考えていた。侯爵は続ける。

 

「それと俺に命を預けると言ったのも、あれも本気で言っていた。俺は形だけの主従などゴミだと思っている。俺はお前の命を預かる。だが預かるからには俺にも覚悟が必要だ。お前を生かすという覚悟を負わなければならない。そして何よりお前の目が気に入った」

「目、ですか」

「ああ。目は嘘を語らない。俺は目を信じる。人を見る目、何かを見る目、見られる目。そういったものだ」


 目、と思ったところでふとエルピスは思い出して言う。


「出会った時は満月色の瞳だったのに、どうして今はブラウンなんですか?」


 尋ねた瞬間舌打ちされ、鋭い視線が飛んでくる。

 侯爵は失敗したというように顔を歪める。


「……俺としたことが油断していたな」

「油断?」

「ああ……まあいい、エルピス。これからカジノに行く。お前は高級娼婦役だ」

「高級娼婦役? 私の容姿と釣り合ってないと思うのですが」

「さっき見ただろう。化粧をしたお前の顔。派手でいかにも男好きそうだ」


 ニヤリと笑う侯爵に、顔を真っ赤にしてエルピスは震える。


「もしかしてこの化粧の指示をしたのは……」

「俺だ」

「…………」

「何だ不満か」

「不満とかじゃなく!」


 初めて大声を上げたエルピスはそのまま続ける。


「男好きとか! そういうのは……違う、違いますから!」

「馬鹿か。お前自身のことじゃない」

「そうなんですけど……モヤモヤします」

「だが演じるのは必須だ。俺をがっかりさせないよう演じろよ。……着いたか」


 エスコートするように侯爵の手を借りて車から降りると、きらびやかなカジノの光がエルピスを出迎えた。円形の建物には南国の木々が植わっていた。その光の美しさに見とれていると、ふと、侯爵が時計に向かって何か喋っていた。

 何だろうと思っていると目が合う。相変わらず鋭い人を殺すような目をしている。


「何を見ている」

「何で時計と喋っているのか気になって」

「余計なことを考えるな。入るぞ」


 そう言うと侯爵は舞踏会用のフォーマルな黒いカラス面をつけた。


「何で仮面を付けているんですか?」

「黙れ」


 予想していた言葉だ。

 扉の寮際にひかえていた白い制服を纏ったフットマンが扉を開く。エルピスは早速、侯爵の腕に腕を絡ませ、身体をできるだけ密着させる。侯爵がご機嫌そうにしているのは明らかに分かった。慣れないエルピスの行動を愉しんでいるのだ。性格が悪い。


「もっと笑顔を浮かべろ。そんな石みたいな顔面じゃ高級娼婦じゃない」


 指摘されて精一杯エルピスが笑ってみせれば、侯爵は艶っぽく笑いながらエルピスの髪を撫で、耳元で囁く。


「──ド下手くぞ」


 これにはエルピスもカチンと来て、ヒールで侯爵の足を踏んでやる。痛みに顔を歪めこちらを殺す勢いで侯爵が見てきたが、エルピスはふふと笑って「侯爵様のお陰で心から笑えましたわ」と言う。侯爵も腹が立ったのだろう。エルピスの腰に回していた手を滑らせてスリットに触れる。カッと赤くなるエルピスを馬鹿にするように侯爵は言う。


「高級娼婦役なら笑顔で俺の手を退けてみろ」

「からかうのは止めてください。……本気でカジノに遊びに来たんですか?」

「お前は馬鹿か。俺はカジノなど好かん」

「じゃあ何でですか?」


 ただ遊びに来たんじゃないのかとエルピスは思っていたが違っていたらしい。


「ここの裏帳簿を手に入れる為だ。それとさっき言ったようにテストの為だ」

「へぇ……裏帳簿への地図とかあるんですか?」


 尋ねてみると案外すんなりと渡してくる。エルピスはそれをじっと見てから返す。


「ありがとうございました。暗記しました」

「……今の数秒でか?」


 侯爵が目を見開く。エルピスは苦笑する。


「長いことストリートチルドレンやってましたからね。下水の道はもっと入り組んでいるんですよ。でも侯爵様、どうやって──」


 言って歩いていたところで女性ディーラーが声をかけてくる。


「美しい旦那様お嬢様。バカラに参加致しませんか? 「PLAYER」はいても「BANKER」がいなくて困っていたところなのです。よろしければそこの旦那様。BANKERをやって下さらないかしら?」


 明らかに一瞬で侯爵の機嫌が下がったが、エルピスは逆だった。エルピスはちらりと背後を見る。バカラで負けた老人だろう。背は丸まっていて、泣いている。それに対し勝った富豪の男は下卑た声で「負け犬だ!」と笑っていた。

 一瞬、その時ディーラーとPLAYERのの男性の目が交わった。

 エルピスは侯爵へと言う。


「侯爵様。私、BANKERをやっても良いですか?」

「……お前バカラのゲーム分かっているのか?」


 苛立つ侯爵を前にエルピスは頷く。


「ディーラーが配った数が、より9に近いほうが勝利。二分の一の単純なゲームですよね?」

「……何故お前そんなことを知っている?」

「それは秘密です。それで? やっても良いですか?」


 侯爵は盛大に溜息を吐いて「好きにしろ」と頷く。それを見て初めてエルピスは艶やかに微笑んだ。赤いルージュを引いた唇が、睦言でも交わすように「ありがとうございます」と侯爵へと言う。エルピスが初めて見せた類いの笑みに、侯爵の表情が初めてたじろぐ。


「侯爵様。侯爵様は全て私に賭けて下さい。今日持っている全てのお金です。侯爵様とあろう者がこんな些末なことで逃げたりはしませんよね?」


 エルピスの挑発に侯爵はこめかみに青筋を立てて答えた。


「お前は余程の自殺希望者に見える。良いだろう。全額賭けてやる。負けた場合は分かるな?」

「ありがとうございます。……ではディーラーの方、私がBANKERをやりましょう」


 その言葉に周囲がざわつく。女性がカジノでバカラ? という声が飛び交っている。BANKERの相手であるPLAYERの男性は良い身なりをして、大金をちらつかせていた。「女相手に賭けをされるなんて舐められたものだ」と悪態をついている。けれどエルピスは顔色一つ変えなかった。

 

 そこで始まったゲーム。

 ディーラーが「ベッドは?」と聞いてくる。完全にあちらはエルピスが女であることに余裕を持っているのだろう。当然、大金がベッドされる。

 だが、侯爵は平然とそれを十倍は上回る額をベッドした。周囲が一気にざわわめく。ディーラーが慌てる。


「失礼ですが、そのような額をベッドすることが……」

「できる。さっさとやれ」


 その瞳が負けたら殺すぞとエルピスを見下ろしてくる。エルピスは黙って笑い返す。

 PLAYER、BANKERの二人の間に、二枚ずつカードが配られる。さっきまで余裕綽々だった相手に今は余裕は全くない。なにせ侯爵がベッドした額は古城を余裕で買える値段なのだ。必死になるのも分からなくもない。

 だがそれはエルピスも同じだ。侯爵は決して容赦しない。負けたら処分される可能性はある。けれどエルピスには絶対の自信があった。


 表向きに向かれたカードのPLAYERの男性の一枚目と二枚目が捲られる。

 PLAYERの男の合計数は「7」。

 ガハハと男は声を上げて喜び、エルピスへと向かって言う。


「女が賭け事なんてやるもんじゃねぇんだよ! さっさと負けを認めて彼氏の金を置いていきな」

「シーッ……」


 指を口元へ当てて艶美に笑ってエルピスはカードが裏返るのを待つ。

 そして現れたのは「4」という1枚目。そして「4」という2枚目。つまり合わさったのは。


 ──【8】


 わぁっと一斉に興奮したような声が上がった。エルピスはにっこりと笑う。


「BANKERは確か賭け金の1,95倍でしたよね? 楽しみにしております」


 そうエルピスが言えば益々人だかりができていく。

 男が納得いかないのだろう。憤慨してエルピスに抗議する。


「もう一度だ! もう一度やれば俺は勝てる!」

「かもしれませんね。またその女性ディーラーとイカサマをすれば。目が合ったt時、わかりましたよ?」


 エルピスの言葉にラディナ侯爵は目を見開く。他の顧客たちが、女性ディーラーと男に一気に非難の目を向ける。エルピスは女性ディーラーから手札を奪って、並べていく。それはどうやっても男性が勝ち筋の札の並びだった。エルピスは女性ディーラーの耳元で囁く。


「このイカサマはルディナ侯爵への侮辱へと捉えても?」

「──ひっ」


 女性ディーラハーは怯えて壁に背をぶつける。ラディナ侯爵という言葉を出した途端、周囲がざわめき始める。


……──「ルディナ卿ってあのウィンヘル通りのナビル総合百貨店をつくった……」「そりゃあんな数をベッドできる筈だ」「しかし凄いな。侯爵といた女性は何者だ?」「ただの高級娼婦にしか見えないのに……」……


 ざわざわと周囲の視線を浴びて、今にも侯爵はブチ切れそうだった。

 エルピスは一旦侯爵の手を引いて、ひそひそと尋ねた。


「あの……裏帳簿、どうしましょうかね……?」


 頭痛をおさえるように侯爵は答えた。


「本来は俺が奪うつもりだったが……お前の所為でこんなに注目を浴びてしまった。日を改めるしかない」


 溜息を吐く侯爵に黙考のあと、エルピスが口を開いた。


「……いえ。私が取ってきます。それがテストで良いですか?」


 本来なら使いたくはなかったが、この程度の規模なら「今」のエルピスならきっとコントロールできる。

 それに考えている別の手もある。なによりこれがパートナーのテストには丁度良いのではないか。

 けれど侯爵の反応は良くなかった。


「無理だ。捕まったら始末されるぞ」


 真剣な眼差しはそれが怒りではなく心配だと知って、エルピスは笑う。なんて自分は今幸せなのだろう。エルピスという名前があって、呼んでくれる人がいる。もう名も無き「魔女」ではない。死んでも名も無き「魔女」ではなく「エルピス」が死ぬのだ。

 エルピスは侯爵と同じくらい真剣な眼差しで言った。


「侯爵様、安心して下さい。私は侯爵様が選んだパートナー。そしてあなたに預けたこの命。必ず守り抜きますから」


 テストの結果、お待ち下さい。

 そう告げれば侯爵は溜息をついた。


「……出会った時よりお前、変わったな。出会った時からその目に変わりはないが、意思が宿ったように見える」


 意思。その言葉はエルピスを何よりも力付けた。輝く言葉だった。


「そうですね……今まで私は、傀儡、でしたから」


 エルピスは思う。もう殆ど自我なく繰り返された「魔女」としての死を。

 操り人形のように口にする言葉も、行動も、感情さえも同じ人生。歩む道も操り人形で思考も剥奪されていた。


「……それはどういう意味だ?」

「いえ、気にしないで下さい。それと、安心してください。99回も死んでるんです。怖いものなど何も今はありません。侯爵様は午前1時まで何でもいいです。ナビル総合百貨店の話でもしてください。きっと次々と人が食いつきますよ。それと帳簿の形は革張りの黒でかまいませんね?」

「ああ……フェイクもあるぞ。気を付けろ」

「ありがとうございます」



 それでは日付が変わった一時頃に、と言ってエルピスは裏帳簿があるスタッフ専用の入り口から颯爽と入っていった。

 残った侯爵は騒がしい周囲とは裏腹に、きっと明日にはエルピスの死骸が見つかるだろうと思った。←侯爵がかぶってます。

 思うと暗澹とした気持ちになった。

 そう思うのは、エルピスが何か違うと感じたからだ。あの目が語っている。生き抜くという強い意志。

 初めて会ったのは確かなのだが、長い長い年月を経てようやく出会えたような奇妙な感覚があった。


 ──惜しい女だったな。


 零時に近づき、纏わり付く人間を引き離して侯爵は外に出る。夜風が、冷たい。

 使い捨ててきた人間など数え切れない。間違いなく自分は悪人だ。悪人だからこそ、あの女に「エルピス」なんて名前をつけたかのかもしれない。深夜一時まで、あともう少し。賑わっていたカジノが閉まっていき、星明かりだけが残っていく。

 車に背を預けて、侯爵は煙草を吸う。


 果たして2度目に会う時にはエルピスは死骸か、それとも。


 ──『あなたに預けたこの命。必ず守り生き抜きますから』


 あの、覚悟を貫く翠の瞳。

 そうだ、あの目が、らしくもなく祈ってしまうのだ。

 伯爵の中に秘めた悪人の心がざわめく。春の嵐のように。


 本当に、愚かなことだ。






ここまでお読み下さってありがとうございました。

新作です!目が死んでるので誤字とか、更新頻度は遅い……かも……

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Twitter→@matsuri_jiji

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