春の猫
彼に出会うより前「私」は通学時に馴染みの猫がいた。私か猫は猫達になっており、猫の橋渡しで出会った人々に影響され、責任について考えるきっかけを得る。果たしてそれは暁光か?
駅から家への帰り道で白い毛に所々黒と茶のブチのある猫を見かけたことがあった。三毛猫と呼ばれる毛並のその猫は南中を終えて沈むだけの日を浴びていた。そこは住宅街を通る線路脇にある道で車通りは殆ど無い。それをいいことに日向ぼっこをしているようで、ミケと名付け学校帰りに見つけると撫でてやるようになった。向こうは撫でさせてやっているつもりかも知れないが。
梅雨明けにその道を通った時、ミケとその隣にもう一匹猫がいるのを見つけた。子猫のようだ。私が近づくとミケはゆったりとした動きで私に擦り寄ってきたが、子猫は警戒しているのか1メートルほど離れてこちらをみていた。なんとかさわれないものかと左手でミケをあやしつつ残る右手と体で身振り手振り危険で無いことを伝えようと四苦八苦していると向こうからお婆さんが歩いてくるのが見えた。普段、人通りもそんなに多く無い道なので猫を躊躇いなく愛でることが出来ているだけに人が通った時はどうしていいかわからずいつも俯いているのだが、その日は違った。お婆さんがこちらに方向転換してきたためだ。
「こんにちは」
「こんにちは」
おっとりとした口調でそう返すとお婆さんは手に持っていたマイバッグを地面に置き子猫を触り始めた。子猫も当たり前のように体を押し付けるようにしている。
「良く触られるんですか」
「私の家、ソコなの。それで良く相手したりするのよ」
微笑みながら左を指差した先にあった家は目の前にあった。表札には佐々木とあった。順序で言うと家があり、その真ん前で触っていた、と言う方が正しいが。
「すみません、人の家の前で」
「ウチの子ってわけじゃないから大丈夫」
「そうですか」
それきり会話が途絶えたが、少ししてその静寂は破られた。ミケが佐々木さんの方に鳴きながら寄っていったからだ。私は驚いた。ミケはなかなか足が重い。たまに車が通った時も私が慌てて触るのをやめてもこちらを仰ぎ見てさわれと促すくらいのタマなのだ。いつも別れは私からだった。
「ごめんねたまちゃん。ちょっと待ってね」
そう言うと肩下げ鞄からタッパーに入ったキャットフードを二つ取り出し、地面に置いた。
「たまちゃんって呼んでらっしゃるんですか」
ミケと子猫はそれぞれ大きいタッパーと小さなタッパーに向かって顔を突っ込んでいる。
「このお父さんがたまちゃんでこの子猫ちゃんがたまこちゃん。シンプルだけど気に入っててね」
「私もたまちゃんって呼ぼうかな」
「違ったらすみませんね。もしかしてミケって呼んでたのはお姉さんだったり?」
「はい。どうしてわかったんですか」
「それがねぇ。鈴木さんがたまちゃんを触りに来たら先客がいて、ミケって呼んでるのを聞いたって言っててそれでね。それで言うとこの子はみけこちゃんになるね」
そう言うと猫の方に向けていた顔をこちらに向けた。60前だろうか、薄く化粧をしているようだ。笑うとしわが浮き彫りになるが、屈託無い笑みのせいか若く見えた。私も相槌と一緒に釣られて微笑んでしまった。
「そういえば、たまこちゃんのもう一人の親ってどの猫さんかわかりますか」
この辺りにはたまの他にも灰色の毛をした猫や赤毛の猫の二匹を時々目撃することができた。いずれも近づくと逃げてしまうので、名前はつけていないが。
「それがわからなくってね。ただわかることは、たまちゃんはもうおちんちんがないから本当のお父さんじゃないってことぐらいでね」
「いつもべったりだったから親子だと思ってました。それにたまちゃんの性別を考えたこともなかったですよ」
「昔話になるけどね、昔ここ一帯は団地でね。それはもうたくさんの野良猫がいたのね。移転するってなったときに猫たちは置いていかれたのよ。行き場と餌場を亡くした猫たちだけがたくさん残った。餌も足りないのに数は増えるから誰かが保健所に連れて行ってしまったの。気づいた時には遅くって。それでもなんとかこの子たちだけはきちんと去勢をしてあげて私たちで面倒を見てるんだけど、誰かが捨てにきたりすることがあって」
佐々木さんは瞳を潤ませ鼻をすする。無責任に餌を与えられ、生きていただけで命を奪われた猫を不憫に思いつい声が出た。
「ひどい。すべて人間の都合、ですよね」
「心ない人は結構いるのよね。自分ではそうだと思っていないのかもー」
「私も同じかもしれないね」
佐々木さんは物憂げに目を伏せたかと思うと立ち上がり、一言。
「それじゃあね」
自分の失言に当てられて取り繕うこともできぬまま、佐々木さんが家に入るのを眺めていた。何か言おうとするが声帯は機能せず口だけが開閉された。さながら私は餌を待つ鯉であった。錆びた門扉の甲高い悲鳴は嫌に頭に響き、耳に残った。触られ足りないのだろうかたまちゃん親子が私の足元へ寄ってくるが、触る気にはならなかった。足早に立ち去ろうとした時、後ろからにゃあと声がした。後ろ髪を引かれる思いを打ち払おうとしてか、考えた。私はいつも一言多い。喉を突いて出た一言がやたらと地雷を踏んでしまう。だからおじいちゃんも、友達も、今日なんて初対面の人まで傷つけてしまった。私はこの世界に必要なんだろうか。仮に何か必要なピースであったとてそのピースであるために人と接することは含まれないのではあるまいか。何度も浮かんでは否定してきた問いが再び現れる。そこで再びにゃあという鳴き声が私のすぐ後ろから聞こえた。
「うるさいって。なによ」
振り返るとそこにいたのはたまこで、怒気を孕んだ声を真正面から受けても何食わぬ顔で私に擦り寄ってきていた。幼さ故か、それとも好奇心は猫を殺すという言葉の通り猫は皆そうなのか。
「私もそのくらい鈍感だったらなぁ。周りには十分そう疎まれてるんだけどね」
自嘲しながら私は気持ちが楽になるのが感じられた。少なくともその時私の存在は、世界から希釈せしめられそうになっていた私は、子猫一匹に肯定されたのだ。人間というものは単純な物で評価など風見鶏も同然だ。また私は人間の都合で、猫を蔑ろにするところだったと思い直し、親子共々日が暮れるまで撫で回してやった。