episode 2 暑さ対策は大切(2)
ささらが連れてこられたのは昼時で賑わう和食屋だった。あまり堅苦しくなく値段もリーズナブルな為か親子連れが多く、楽しそうな声が店内に飛び交っている。
「お待たせいたしました。煮魚定食と天ぷら定食になります」
ささらと柊、向かい合う二人の前にそれぞれ一つずつ定食が置かれる。そして店員が二人のテーブルから離れていくと、柊は目の前に置かれた天ぷら定食をそのまま煮魚定食の隣へとずらした。
「美味しそう……いただきます!」
「はいよ」
柊が既に届いていた蕎麦を手元に引き寄せると同時に、ささらが手を合わせて早速箸を手に取る。そして彼女は最初に煮魚をほぐして口に入れたかと思うと、続いて隣の天ぷらへと箸を伸ばした。
煮魚定食も天ぷら定食も、どちらもささらが注文したものである。夏はただでさえ食が細くなる柊は、幸せそうにばくばくと食べるささらを見ているだけで胃が苦しくなる。
「よくそんなに食えるな」
「食い溜め出来る時にしておかないと……」
「人の金だってのにホントにずうずうしいなお前」
普段は初対面の人間に萎縮し、幽霊や柊にはびびっている――幽霊と同じ括りだというのが彼には誠に腹立たしいことである――というのに、案外図太い人間である。
「お前は相変わらず金が絡むと何の遠慮もねえな」
「だってまだ家賃待たせてますし」
「その割に俺の金でばくばく食ってるが」
「う……それはそれっていうか、これは依頼料の範囲というか……すみません」
申し訳なさそうにしながらも箸は止めない辺りぶれないな、と柊は半眼になった。
「まあ実際依頼料に含んでるから別にいいがな」
「すみません……それに家賃だけじゃなくて、その前から柊さんにはいっぱい迷惑掛けましたし、その分のお金もいずれは」
「……ささら、あのなぁ」
柊が少し苛立ったように乱暴に箸を置く。そして隣のテーブルの子供が見たら泣き出しそうな視線で彼女を睨むと「前に言っただろうが」と低い声を出した。
「あの家を正式に書類を交わして貸した以上、お前にはどんなことがあっても家賃を払ってもらう。だがそれよりも前に、契約でもなんでもなく住まわせたのは俺の勝手だ。だからてめえがあの頃の金を払う必要なんてねえんだよ」
「……でも」
「俺が勝手に拾って空き部屋に放り込んだだけだ。家賃ですら滞納してるくせに余計なこと考えてんじゃねえよ。これ以上何か言おうとするならぶっ飛ばすぞ、分かってんのか?」
「……すみません柊さん。それと、ありがとうございます」
ドスの利いた声でまるで脅すように言った柊に、ささらは暗くなっていた表情を少しだけ明るくして礼を言った。
柊はそんな彼女をじとりとした目で眺めた後「分かりゃあいいんだよ」と再び箸を手に取った。
「馬鹿なこと考えてる暇があんならさっさと腹を満たせ。まだ午後も何件か回るんだからな、食べた分きっちり働いてもらう」
「分かりました。……あ、すみません。ちょっとサイドメニューも頼んでいいですか」
「一体何日分食い溜めるつもりだお前」
□ □ □ □ □ □ □
昼食後、お腹が満たされてすっかり元気になったささらは柊の車の助手席に乗りながら窓の外を眺めていた。
「次の物件ってどんなところなんですか?」
「ああ……殺人事件の現場になった一軒家だ。なんでも三人殺されたらしく、夜中になると悲鳴が聞こえたり床に血のような赤い液体が広がっていたりすることもあるらしい」
「うわあ……」
「調べたところ一度取り壊そうという話になったらしいが、その度に解体業者に不幸が起こって取り壊すこともできないとか」
「めちゃくちゃヤバそうなやつじゃないですか……」
「これでも俺はお前の腕を買ってるんだ。しっかり頼むぞ」
「頑張ります、けど……」
「エアコン」
「頑張ります!」
背に腹は代えられない。本当にささらの手に負えない場合はどうしようもないが、基本的に今まで関わった幽霊でささらが殴って消えなかった幽霊はいないのでどうにかなると思うしかない。……サンプル数が少なすぎると言われればそれまでなのだが。
「……車の中って快適ですね」
「そりゃあお前の家よりはな」
「茶々も暑すぎて普通の姿に戻れないし、頑張って絶対にエアコンゲットしないと――」
「……ささら?」
エアコンの為、と意気込んでいたささらが突然言葉を途切れさせた。ぴたりと動きを止めた彼女に柊が訝しげに声を掛けると、ささらはすぐにハッとしたように肩を揺らして勢いよく運転席を振り返った。
「柊さん! Uターンして下さい!」
「はあ?」
「早く!」
いつになく切羽詰まった強い口調で訴えるささらに、柊は「一体何なんだよ」と思いながらもブレーキを踏み、あっという間に車の進行方向を切り替えた。
ささらは窓を開けて外を凝視しており、そして少し走ったところで「停めて!」と再び声を上げる。
「何なんだホントに……って、おいささら!」
柊がぶつぶつと文句を言っている間に助手席の扉を開けたささらはすぐに車を降りて駆け出し、とある一軒家の門を躊躇いなく開けて庭へ飛び込んだ。
「すみません!」
そこそこの広さのある綺麗に整えられた庭を横切って玄関まで辿り着いたささらはインターホンも鳴らさずに玄関の扉を叩く。何度も何度も、手が痛くなるのも構わずに叩き続けていると、ささらは不意に扉が動く気配を感じて一歩後ろに下がった。
「あら、どちら様?」
音も立てずに開かれた扉の先にはささらよりも少し年上に見える女性がにこにこと微笑みながら立っていた。その腹は膨らんでおり、一目見ただけで妊婦だということが分かる。
「……すみません。この家に子供、居ますよね」
「? ええ。ほら、ここにいるわ」
女性は幸せそうに微笑みながら愛おしそうに自身の腹を撫でる。しかしささらはそんな彼女を静かに一瞥した後「違います」と首を横に振った。
「その子じゃない……二歳か三歳か、そのくらいの男の子です」
「何を言ってるのか分からないけど、うちにいるのはこの子だけよ?」
「違います! 居るんでしょ、この家のどこかに!」
「え? ちょっと何するの!」
驚く女性に構わずにささらは強引に家の中に入ろうとする。女性が彼女の腕を掴んで止めようとするが構わず玄関へ一歩足を踏み入れようとしたその時、「何をしているんだ!」と男性の大きな怒鳴り声が響いた。
「何だお前は! 勝手に家に入ろうとするなんて警察呼ぶぞ!」
「邪魔しないで下さい!」
「俺達の生活の邪魔をしているのはお前の方だ! とっとと出て行け!」
「っうわ、」
家の中から現れたのは恐らく女性の夫らしき人物。彼は無理矢理家に入ろうとしたささらの肩を乱暴に掴むとそのまま力強く庭へと突き飛ばした。
思い切り体を地面に打ち付けたささらはそれでも彼らを半ば睨むようにして立ち上がると再び家の中へ入ろうと足を踏み出す。が、それよりも後からやって来た柊が彼女の体を押さえる方が早かった。
「ささらお前何やってんだ!」
「柊さん……」
「あんたこの女の知り合いか。さっさとどこかへ連れて行け! でないと本当に警察呼ぶぞ!」
「すみません、失礼なことをしたようで……すぐに出て行くので」
「柊さん離して!」
「お前は黙ってろ!」
抵抗するささらをものともせず、柊は彼女をあっという間に引きずって門の外に出ると、そのまま車の後部座席に放り込んだ。
柊が運転席に戻る間にささらは再度外へ出ようとするが、閉じられた扉はまったく開かなかった。
「チャイルドロックを使う日が来るとは思わなかった」
「っ柊さん! 開けて下さい!」
「うるせえ」
口論している間にも車は走り出す。どんどん流れていく景色に、ささらの視界からあの家も消えていってしまう。
「あ……あ……」
「ささら、てめえが何を思って何をしようとしたかは知らねえ。だが今お前がやろうとしたのはただの身勝手な住居侵入、犯罪だ」
「でも」
「何があった? ……何か見えたか、聞こえたか」
「……聞こえ、たんです。――助けて、ここから出して、って」
あの家の側を通り過ぎた時、ささらの耳に入ってきたのは強烈なほどの幼い悲痛な叫び声だった。
「小さな男の子の声で、何度も何度も、助けてって、出してって……ずっと聞こえてたんです」
「……そいつは、手遅れなのか」
「生霊とか、無意識の叫びって可能性も無くはないですが……多分、もう」
「そうか」
柊は静かに相槌を打ちながらも、速度を緩めることなくあの家からどんどん距離を取っていく。そして赤信号で停止したところで、厳しい表情でささらを振り返った。
「仮にあの家で子供が死んでいたとする。……だが実際に直接目にした訳でもなく、人には聞こえない声が聞こえたからと言って誰が信じるんだよ」
「けど、あのまま放っておくなんて」
「お前は今俺の依頼を受けて働いてんだ。依頼の途中で余計ないざこざを起こされたらこっちが困る」
酷く冷えた声でそう言った柊は、それ以上相手にしないとばかりに前を向き信号の色が変わったのを見てアクセルを踏んだ。
「……ささら、お前少し頭冷やせ」
□ □ □ □ □ □ □
「よし、今回見てもらいたかった物件はこれで全部だ」
「……はい」
夕方、ようやく最後の一件に辿り着き除霊を行ったささらは、肩を落としながら嫌な気配の無くなったアパートから外に出た。
「報酬は後日……エアコン自体はもう目星を付けてあるから取り付け工事の日付は追って連絡する……おい、聞いてんのか」
「……はい」
「ったく」
あれからずっと気も漫ろのまま仕事をしていたささらに柊が舌を打つ。いくら一撃で決まると言っても下手をしたら命に関わることもあるというのに。
「仕事はこれで終わりだ。……後は家に帰るでも、それこそ犯罪を犯すでも勝手にしろ。俺の知ったことじゃない」
「……え?」
「だがそれで刑務所に入ろうが罰金を払おうが滞納した金はきっちり払ってもらうから覚悟しとけ。どこに居ても絶対に取り立てに行ってやる」
「……」
俯いていたささらが顔を上げる。そんな彼女を、柊はただ鋭い目付きで見下ろしていた。
暫し睨み合うように見つめ合う。そしてややあってささらは再び小さく俯いた。その肩は、小刻みに震えて――笑っていた。
「……勝手に犯罪でもしろとか、取り立てとか……そういうこと言うからヤクザにしか見えないんですよ」
「ああ? そもそもヤクザとか言ってんのはお前しかいねえよ」
「それは柊さんが他の人に本性見せないからでしょ。さっき鳴宮さんに話しかけてる時この人誰だって思いましたよ?」
「仕事でいい顔すんのは当たり前だろうが」
柊は軽くささらの頭を小突くと、「暑いから車乗れ」と彼女を促して車の鍵を開けた。
「帰るついでに好きな所送ってってやるよ」
「勿論……あの家までお願いします」
「別に構わんが……お前またさっきみたいに無謀無計画のまま突撃するつもりか」
「それは……そのつもりでしたけど……」
「はあ、猪かてめえは。あの家に住む人間の情報、実際に件の子供がいるかいないのか、近所の評判……何の情報もねえのに突っ込んでもさっきの二の舞、しかも今度は確実に通報されるぞ。そんなんで今までよくどうにかなってんな」
「いつもそういうのは茶々が……」
鳴宮の時もそうだが、茶々は基本的に札を作ったり独自の情報網――簡単に言うと妖怪達の井戸端会議で得た情報などでささらをサポートしてくれている。ささらがやっているのは殆ど肉体労働、幽霊を見つけてぶん殴るだけである。これではどっちがヤクザだと言わんばかりである。
「ったく、しょうがねえやつだな。……この辺の土地の所有者や物件の仲介業者に何人か知り合いがいる。ある程度情報洗ってやるから少し待ってろ」
「え、いいんですか?」
「あのタヌキの嬢ちゃんに警察まで迎えに行かせる訳にいかねえだろうが」
ささらが驚きながらもぱっと表情を明るくする。そんな彼女を横目に本当に手がかかるやつだとため息を吐きながら、柊はタブレットとスマホを取り出して片手でタブレットを操作しながらスマホで電話を掛け始めた。
「ああもしもし、柊ですが――はい、いつもお世話になっています。実はお尋ねしたいことがありまして――ええ、少し気になることが」
柊は先ほどの家の住所やさりげなく確認していた表札に記されていた名字を口にして電話の向こうに頼み込む。個人情報に煩い昨今だ、そう簡単に情報が集まるだろうかと隣でそわそわしながらささらが待っていると、電話越しに愛想笑いを浮かべていた柊の表情がふと抜け落ちる瞬間を見た。
「え? ――ああ、そう……そう、ですか……分かりました。ありがとうございます」
「柊さん?」
「……ささら、早速だが分かったことがある」
柊が続けた言葉に、ささらは「え」と小さく声を上げて固まった。
「あの家は――」