episode 6 酒の威力
「そこのあなた、人生に疲れた顔してますね? 幸せになりたくありませんか? 今近くで自己啓発のセミナーをやっているんですが一緒に行ってみませんか?」
「い、いえ結構です……」
「そんなセミナーなんかより! お嬢さん、こちらの数珠はいかがですか? 持っているだけで幸せになれると大評判なんですよ! 今ならたったの十万円ですよ!」
「お金無いので……」
「お金がない? だったらちょっといいバイトがあるんですよー。楽に稼げて一日でお金もたんまり、君くらいの女の子は皆やってるよ?」
「……その話詳しく聞かせて頂いても」
「ささら、てめえ何カモられてやがる」
三人の男女に群がられ戸惑いながらも興味を引かれつつあったささらは、不意に聞こえて来た聞き慣れたドスの利いた声に我に返った。
ささらは今日、先日無事に退院した柊と飲みに行く約束をしていた。成人したばかりでお酒など初めて飲むささらは数日前からそわそわしており、それを微笑ましそうに見ていた茶々に見送られて待ち合わせ場所にやって来た。
柊と出かける時はいつも車で事務所まで来てもらうことが多いので、こうして外で待ち合わせをすることは珍しい。早めに待ち合わせ場所に着いたささらは人通りの多い駅の出入り口付近で柊を待っていたのだが……数分もしないうちに勧誘に捕まってしまっていた。
「あんたら俺の連れに何か用なのか? あぁ?」
「ひい……」
しつこくささらに詰め寄っていた男女は、柊が睨みを利かせるとそそくさと逃げていった。その目付きと柄の悪さに「ヤクザ顔……」とささらが呟いていると、酷く呆れた顔をした柊がおもむろにささらに近寄って彼女の頭に手を置いた。
嫌な予感がすると思った直後、ささらの頭部は柊の手によって思い切り締め付けられた。
「痛い痛い痛い、柊さん痛いです!」
「ささら……お前な、あんな馬鹿な勧誘に乗ろうとするやつがあるか」
「だ、だっていいバイトがあるって言うから……」
「楽に稼げるなんて謳い文句は全部裏があるに決まってんだろうが! あいつの身なりや口振りから考えても十中八九仕事は風俗だ、分かってんのか」
「そ、そうだったんですか……」
「ったく、やべー店に連れ込まれたくなかったらああいう輩はさっさと無視しろ。おら、さっさと飲み行くぞ」
「……はーい」
すたすた歩き出した柊の背中を小走りで追いかける。今日は二人とも飲むつもりなので車ではなかったのだが、店は近くにあるらしくさほど歩かずに目的地に到着した。
「いらっしゃいませ、二名様ですか? 喫煙席と禁煙席ありますが」
「禁煙で」
暖かいオレンジ色の照明に照らされた店内に入ると、ささらはついきょろきょろと店の中を見回してしまう。居酒屋に入るのなんて初めてなのだ。木目調の店内はカウンターと座敷になっており、座敷の方に案内されたささらは靴を脱いでわくわくしながら畳の上に上がった。
「そういえば柊さんってタバコ吸わないんですか」
「あんなもん百害あって一利なしだ」
「意外……何かイメージ的に吸ってそうでしたけど」
「タバコは壁が黄ばんだり匂いが付いたりするだろうが。おまけに一度うちのアパートで寝タバコで火事になりかけたからな。……あれだけは絶対に許せん」
その時のことを思い出しているのか、柊の表情がどんどん険しくなり殺気まで飛んでいる。とばっちりを受けたささらは震え上がりながら、思わず机に置かれたメニューを立てて正面をガードした。
「……で、何飲むんだ」
「えーと、何から飲むべきですかね……?」
「ビールでいいんじゃねえの?」
「ビールは何かお酒臭いし苦そう……」
「お前なんで酒飲みたいって言ったんだ」
お子様舌は甘いカクテルでも飲んでろ、とどうでもよさそうに言った柊の言葉に、ささらはメニューを捲ってカクテルのページを覗き込んだ。
「……柊さん」
「今度は何だよ」
「名前が複雑で何が何やら……」
カクテルの名前が列挙されているページを眺めてささらは途方にくれていた。聞いたことの無いカタカナが羅列されており、もはやこれは呪文か何かなのか、これで人を呪えるんじゃないのかと考えてしまった。
おまけに写真も無いため見た目で判断することもできない。ささらがぼけっとメニューを眺めているうちに柊はさっさと店員を呼んで日本酒や料理を頼みはじめてしまっている。
「さっさと決めろ。あまりに度数が高いのはチェックされてるだろうし、お前普段好き嫌いないだろ」
「……じゃあこの、一番上のやつで」
「カシスオレンジですね。少々お待ち下さい」
オレンジと書いてあるのならオレンジが使われているのだろうと判断したささらが恐る恐る注文すると、店員の女性は「カクテル初めてですか? 女性に人気ですし、飲みやすいと思いますよ」とささらを安心させるようににこっと笑った。
無事に酒が飲めそうでほっとしていると、さほど時間も掛からずに日本酒とカクテルがテーブルへと運ばれる。柊の日本酒は想像通りのものだったが、自分の前に置かれたグラスを見て彼女はなんとも言えない表情で首を傾げた。
「何か、思ってたよりも赤い……オレンジっぽくないですね」
「つべこべ言わずにさっさと飲め」
妙に赤く見えるカクテルを少々びびりながらゆっくりと口に運ぶ。……と、味の方は殆どオレンジジュースに近いものだった。
「普通のジュースみたいですね。これ、本当にお酒なんだ……」
「ジュースだと思って飲み過ぎるなよ。お前がどれくらい酒に強いか分からねえからな」
「うーん……でも、全然酔ってる感じしないですよ?」
「一口で酔うやつもそうそう居ない」
「柊さん、そっちの日本酒もちょっともらってもいいんですか?」
「あ? 飲めんのか? そっちみたいにジュースなんかじゃないぞ」
「仕事柄、時々御神酒を飲まされそうになることがあるんですよ。今までは未成年だったんで拒否できたんですけど、もう成人したので……」
それに、きちんと奉納された御神酒には霊力が込められている。だからこそささらとしては飲んで損はないのだが……日本酒は見るからにハードルが高そうなのだ。
「ほら、ちょっとやるから飲んでみろ」
「頂きます……」
「どうだ?」
「……ううう」
一口飲んで即座に顔を歪めたささらを柊が鼻で笑う。
「ガキには早いってこったな」
「もう成人してますから!」
「俺にとっちゃまだまだガキだよ」
ささらは口の中に残る味に顔をしかめてカクテルを飲む。柊とてまだ三十だ。周りにいる日本酒を嗜むおじさんから見れば十分若造の域に入るだろう。
「お待たせしました」
「あ!」
日本酒の味を消すべくカクテルを一気に半分ほど飲んだ所で料理が運ばれてくる。だし巻き卵に唐揚げ、漬け物の盛り合わせなどが目の前にやってくると、ささらは酒のことを忘れてきらきらした目で箸を手に取った。
「いただきます! 美味しい……こっちも美味しい……!」
「……ま、やっぱりお前は酒よりもそっちだろうな」
ばくばく箸を口に運んで嬉しそうに口元を緩める姿はまさしく子供である。無理に大人ぶって酒を飲もうとしているよりもずっと自然だった。
「そういやこの前のやばい刀、あれ結局どうしたんだ」
「ああ羽斬ですか。それが聞いて下さいよ柊さん! あの後知り合いの骨董屋さんが買い取ってくれたんですけど……」
「何か問題でもあったのか」
「実は……」
柊が退院する少し前に月見から「まとまった金ができたからこの前の刀を買い取りたいんだけど」と連絡が入った。
あの刀は確かに切れ味は素晴らしいものであったが、ささらはあれを抜いた瞬間から自分の体が誰かに乗っ取られたような感覚に陥った。茶々や柊の声も遠く、下手をすれば二人もあの蛇のように斬ってしまっていたかもしれないのだ。正直持て余していたものだったので、月見の言葉にささらは当然のように頷いた。彼ならば危険性も分かった上でしっかり保管してくれるだろうという信頼もあった。
ちなみに買い取ってもらう際、ささらは今までの人生で手にしたことなどない分厚い札束を前に茶々と共に恐れおののいた。
こうして短刀も手元から無くなり、目を回すほどのお金も手にして良いこと尽くめのささらだったが……ここで問題が起きたのだ。
「次の日、朝起きたら……枕元に刀があったんです」
ささらはげんなりしながらあの時のことを思い出した。何故かは分からないが翌日刀が自宅へ戻っていた。慌てて月見に連絡をして再度骨董屋へと持って行ったのだが……次の日の朝、再び同じ現象が起きてしまっていた。
それはいたちごっこのように何度も繰り返された。そして何度も骨董屋へ持って行くうちに、最終的にはまるでだだっ子のようにささらの手から短刀が離れなくなってしまったのである。月見も月見で「これは相当気に入られたようだね。僕が持つには相応しくないようだ」と笑って言われ、結局羽斬はささらの元へと戻された。……無論、お金も元の持ち主へと返された。
ささらは思わずダン、と強くテーブルを叩いた。
「何なんですか一体! せっかく貧乏生活からおさらばできると思ったのに! 茶々と一緒に何買おうかなって色々相談してたんですよ! それなのに!」
「ささら、落ち着け」
「いつも頑張ってもらってる茶々に新しい着物を買って上げようと思ったのに! よく奢ってくれるめぐ兄さんに奢って上げようと思ったのに! 柊さんに『家賃三ヶ月分前払いしておきますね』ってどや顔で言いたかったのに! うう……」
「おい泣くな……ささらお前さては酔ってるな? 今まで平然としてたが実は一杯で酔ってやがったな!?」
残っていたカクテルを煽るように飲んで泣き始めたささらに、柊はどうしたものかと疲れたように肩を落とした。
その時、空いていた隣の座敷にぞろぞろとサラリーマンの集団がやって来た。泣いているささらと柊を交互にちらちらと見た彼らに「別れ話か」と口々にぼそぼそ呟かれた柊が思わず睨み付けようと振り返る。
「あれ……確か、オーナーの」
「ん?」
しかし聞こえてきたオーナーという言葉に、苛立っていた柊の表情が一気に仕事モードへと変化する。よく見てみれば、集団の最後にやって来た男は柊にも見覚えがあった。
「確か……鳴宮さんでしたね」
「ええ、どうも」
「うわあああ……私のお金が……あれ?」
「……げ、お前」
目を擦りながら顔を上げたささらは、そこに居た男――鳴宮と目を合わせて声を上げた。が、同じく目があった鳴宮はというと、疲れた顔を引き攣らせて思わず、と一歩後ろに下がった。
「妹……」
「だーかーら、ささらですってば!」
「何か妙にテンション高いな……」
以前見た時のおどおどした態度はどこへ行ったのか、と鳴宮は内心首を傾げる。まあどちらにしても、鳴宮はささらがどうにも苦手だった。命を救われたのは事実だが、できるだけ関わりたくないとも思っている。ささらの仕事柄仕方が無いが、彼の中はささらと怪異がイコールで結びついているのだ。
「何だ鳴宮、知り合いか?」
「え、ええまあ……」
「鳴宮さんも聞いて下さいよー、せっかくの大金が……」
その時、大声を出していたささらの声がぴたりと止んだ。かと思えば、彼女はふらつきながら立ち上がると飛びつくように鳴宮の左腕を抱きかかえたのだ。
「いっ……お、おい何する」
「へー、先輩略奪愛ですかあ?」
「馬鹿なこと言うな! おい酔っ払い! いいから離せ――」
「へへー、鳴宮さんに呪詛見つけちゃいました」
「……は?」
「左腕、怪我してますよねー。これ呪詛の影響ですよ?」
先ほどまで泣いていたささらはすっかり泣き止み、逆に笑顔でそう言った。確かにスーツに隠されているものの鳴宮の左腕には包帯が巻かれており、無理矢理袖を捲ったささらは「これはかなり恨まれてますねー」と酷く暢気な感想を漏らした。
「相手が悪霊じゃなくて呪詛だから鳴宮さん家の幽霊さんは対処できなかったんですかねー」
「おいちょっと待て、俺の家の幽霊ってどういう」
「呪詛を辿るとー、えーっとこっちですね」
聞き捨てならない言葉に思わず鳴宮が突っ込むが、ささらは全く反応せずに彼の腕を離してふらふらと今度は立ったままだった他のサラリーマンの元へと行く。そして断りも無くある男の鞄を開けて中を探り始めたのだった。
「おいお前! 勝手に人の鞄を――」
「じゃじゃーん! 藁人形ー!」
持ち主が止める前にささらが鞄の中から取り出し掲げた物体に、周囲のサラリーマンはおろか他の席の客までぽかんと口を開けて沈黙した。
左腕に穴が空いている、見るからに藁人形のそれ。店内が異様な静寂に包まれる中、ささらはそんな空気など全く意に介さずにとことこと鳴宮の元へ戻り藁人形を差し出した。
「はいどうぞ」
「……どうぞじゃねえよ渡されても困る……っていうか、は? マジで藁人形……」
「この手のモノは知られた時点で呪詛が解けますからもう大丈夫ですよー。よかったですね」
「……ささら、もう帰るぞ」
「えー、まだ全然食べてないのに……」
「いいからこっち来やがれ。……その、お騒がせしてすみませんでした」
言うだけ言って、柊は不満げなささらを引き摺り急いで会計を済ませて店を出た。
残された店内の客達は、呆然としながらも……藁人形が出てきた鞄の持ち主を見てこそこそ話したり、はたまた藁人形を写真に納めてSNSに上げていたりしていた。
□ □ □ □ □ □ □
「柊さん柊さん、私良いことしましたよね!」
「あー……まあ、そうなんじゃねえの」
帰り道、全く酔いの覚める気配のないささらを放置できず、柊は途中でこけて足を捻ったささらを背負って事務所まで歩いていた。
ささらは柊の背中で終始ご機嫌だ。まあ藁人形を見つけて呪詛を防いだということだけを切り取ってみればささらは確実に良いことをしただろう。酔いの所為でまるで空気の読めない言動をしていたのは間違いないが。
「柊さん、あっち見てー」
「何だよ……って、は?」
「右手に見えますのは守護霊のライオンでございますー」
ささらに促されて何気なく示された方を見ると、とある男の後ろにライオンが見えた。のんびりと目を瞑って尻尾を揺らしているそれを二度見した柊はライオンに守護されている男とは一体何者だと気になってその男を凝視してしまった。
「というか、何故か俺にも普通に見えるんだが」
「んー? この前死にかけたんで弾みで霊感強くなったかもしれないですね」
「軽い」
あまりにもあっさり言われた言葉に柊が思わず突っ込む。
「ひーらぎさんひーらぎさん」
「今度は何だ」
「ひーらぎさんが生きてて、本当によかったです」
「……」
「生きててくれて、ありがとう、ございま……」
背中から聞こえていた言葉が不自然に途切れたかと思うと、直後に気持ちよさそうな寝息が聞こえてきた。
「あと一文字ぐらい頑張れよ」と呟いた柊は、重くなった荷物を抱え直して大きく息を吐いた。
「……お前のお陰だっつってんだろうが」
「柊様、ささら様を送って下さってありがとうございます」
柊が事務所に着くと、すぐに待ち構えていたように茶々が迎えてくれた。彼の背中でぐっすり眠るささらを見た茶々は「あらあら」と微笑ましげに目を細めて柊をささらの私室へ案内した。
「すっかり寝入ってしまわれてますね」
「ああ、一杯飲んだだけなんだがな」
「ささら様お酒弱いんですか……気を付けないと」
ささらを用意されていた布団の上に下ろすと、茶々はささらに布団を掛けてぽんぽんと何度か軽く布団を叩く。見た目は子供だというのに、その仕草はまるで彼女の母親のようにも見えた。
「それじゃあ俺は帰……あ、そうだ。嬢ちゃん、これこいつに返しておいてくれるか」
「あ、これは……」
「あの時借りたお守りだ。返しそびれててな」
柊が鞄から朱色のお守りを取り出すと、茶々はそれを酷く大事そうに両手で受け取った。
「はい。きちんとささら様にお返しいたします」
「ああ。それじゃ」
柊がささらの部屋を出て行く。その後ろ姿を見送った茶々は、手に持っていたお守りを眠っているささらの首に掛けた。
「……ちゃちゃ」
「はい……って、寝言ですか」
「めぐにいさん……ひーらぎさん……おかねが……」
「ふふ、まだあの夢見てるんですか」
「……ねえ、さん」
くすくす笑っていた茶々が、不意に笑うのを止めた。
「ねえさんにも、買って……」
「ささら様……」
茶々はささらの首に掛けたお守りにそっと触れる。そしてささらの寝顔を眺めた後に、消え入りそうな声でぽつりと呟いた。
「わたくしは、あなたの思う通りにささら様をお守りできているでしょうか……かがり様」
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「もしもしささら? お前鳴宮に何かしたのか? あいつから急に電話掛かってきたかと思ったら『藁人形を見つけてくれたのはありがたいが、あの凍り付いた空気を作るだけ作って放置するな! あの後色々大変だったんだからな!』とか怒ってたが」
「え……何の話?」