76――幕
遅くなりました。持病が小康状態に落ち着いたので、再開します。
気づいたら、地球に帰還していた。
うはは。
こう言うと、まるで宇宙飛行士みたいだわ。
異世界を行き来した者の場合、どう呼んだらいいんだろう。
時間は召喚時と同じく日暮れ時で、場所は住宅地の生活路を入ってすぐ。ここから二十メートルくらい先に、私が黒い穴に落ちた地点がある。そこを大げさに迂回して、足早に家に向かった。
見知った家並みの向こうに屋根のてっぺんが覗き、外壁が見え、金木犀と木蓮が植えられた小さな門扉の前に立った時、鼓動はせわしなく打って背筋が汗でびっしょりと濡れていた。
また……連れ戻されるんじゃないかという怖れと、実はまだ向こうの世界で見てる夢なんじゃないかという疑いで。
周辺を見渡して、僅かでも差異が、異変が、違いがあるかと目を凝らす。頬を叩く冷たい風が庭木を揺らすのを見て、また安堵と不安を繰り返す。
悴む指先を叱咤しながらエコバッグから鍵を出して――そこで、ぎょっとした。
「なんでエコバッグが亜空間倉庫仕様のままなのよ……」
突っ込んだ手が暗黒空間を掻きながら鍵を握る。その事実に驚きつつも、とにかく家に駆け込んだ。
やっぱり夢なの?
じわじわと滲み出てくる不安が、玄関先で香るポプリに誘われて萎んだ。
ああ、ここは私の家だ。祖母と時代を過ごした私に、唯一残された形見。誰の家でも、まぼろしでもないその家が持つ懐かしい匂い。
強張った肩から力を抜いて、思い切り深呼吸をしながら居間に向かった。
全体的にくたびれた感のあるカーキ色のジャケットを脱ぎ捨て、エコバッグを放り、バスルームに向かう。着ている物すべてを洗濯機に投げ入れ、浴室に入る。買い物に出かける前に掃除をして湯を張った、そのままの浴室があった。
湯船にゆっくりとつかり、フローラルな香りのボディソープで全身を洗って……お腹空いたなぁと独り言ちた。
向こうじゃ味わえなかったメニューをあれこれと脳裏に浮かべて、保温されているはずのご飯と合うおかずを一二品考える。出汁のきいたお味噌汁に、もみじおろしをつけた焼きサンマが食べたいっ。ラーメンもいいけど、喜来軒のチャーシュー麺を身辺が落ち着いたら食べに行こう。
じゅるりと唾が湧き出るのを堪えてお風呂から上がり、だらりとしたニットの部屋着を着込んでからドライヤーを手に姿見に向かった。
鏡の向こうに映ったのは、間違いなく以前の私だ。黒い髪に黒い目の疲れの浮いた顔の女。
無意識に伸ばした手が鏡の表面を撫で――たつもりが、突き抜けた。
「あれ?……まぼろし?」
焦りより先に、そんな諦めの思いに胸が塞がれる。
異世界の神は、私を代行に据えるつもりでいる。ということは、私はこの世界と異世界を行き来するってことだ。となると、ここが異世界と繋がった点ってことなのかな?
ドライヤーをベッドに放り投げ、ずぶずぶとめり込んでゆくにまかせて、鏡の向こうに身をねじ込んだ。
「あまり――こちらで異界の力を使ってくれるな」
「自覚していないんですが……」
「理に反した物入れを使用したであろう?」
頭の隅に、玄関先で驚いたことを思い出す。
「すみません。いきなり戻されたもので、必要な物を取り出すために使いました」
鏡の向こうには、果てしない純白の世界が広がっていた。
そして、中央に発光する靄に包まれた存在。人に似た形ではなく、眩しいほどの光を放つ力の集合体。
この世の神か。
目を細めながらも発光体に向き合い、頭の中に響く問いかけに答えた。
人の世の宗教の、なんと曖昧なことよ。性別どころかカタチすら持たない凝縮された高次の力。
「……調整はしておいた。が、けっして持ち込みだけはしないでもらいたい。そなたはこちらで生まれ育ってはいるが、すでに過去は分断された。『人』としての生は終わり、それ以外の者となった。心して務めることだ」
「私自身が行き来しても影響はないのですか?」
「それが、調整だ」
異世界の神とは違う落ち着きのある声。ハスキーな女性声のような成熟した男性の柔らかい低音のような……。間違っても心震わすなんて俗っぽさはない。
「たぶん……そう遠くない内にこちらを去ることになるかと思いますが、それまでは何卒よしなに」
「それは無理なこと。そなたは、この世と縁を切れんよ。腹を括るがいい」
あ、跳ばされる! と思ったと同時に、全身を真横から怖ろしいほどの力で押し跳ばされた。ドンッと音でもしそうな勢いで飛んだ先は、なんとなく覚えのある光景の中で……。
「痛っーい!」
横から加わった力じゃなく、着地した時によろけて転んだ弾みに打ったお尻の痛さに涙目になる自分。さすりながらギクシャクと立ち上がり、そこでハッと気づいて泣きたくなる。
あんな衝撃を受けながら、どこにも支障はない。転んで地面に打ち付けたお尻だけが痛いなんて。
「短時間だったようだが、帰郷できた気分はどうだ?」
「ちゃんとした実感が湧かない内に戻されたんで……」
「それはそれは……。どうだ? ここも懐かしく感じないか?」
涙目の顔を上げれば、またもやタイプの違う貴公子が蕩けるような微笑を振りまきながら両腕を広げて立っていた。
確かに見覚えのある光景だ。ただし、私が経験した場所じゃない。
どこかの豪華な離宮のゲストルームらしい。露骨なほどに優雅な仕草でティーカップを手にし、神は微笑んで見せている。
「もう、込み上げるような懐かしさは消えましたね。落ち着いたというか……誰か別の人の記憶だって感じが強くなりました」
痛むお尻を撫でながら立ち上がり、身に着けている服は室内着なのに掴んだはずのないエコバッグが傍らに落ちていた。
そっと溜息を吐いてバッグを持つ。所有者から離れると自動で戻ってくるんだった。
「そうか……あの傀儡の欠片は最適化されてしまったようだな」
「あのー、早く帰ってご飯が食べたいんで、ご用があるなら」
「帰還させたい者がいるのだろう? ならば、急いだほうがいい。召喚陣を破壊したせいで、供給されていた神力が薄れていっている。ただの異界人に戻れば、何をされるかわからないぞ?」
ええ!?
それって、聖女様なアンナちゃんのこと!?
「……急がなきゃ」
「連れ帰るのは聖女だけではない。故郷を恋う魂を忘れないでくれ」
「はいっ!」




