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召喚された時もそうだった。
ステータスに示されていた[転移転化体]と言うのは、あの時の激痛がソレだったんじゃないかと思う。
転化ってのは、ある状態から別の状態に変化することだ。職場がその手の変化を商品化するための研究室だったから、身近で馴染みのある用語だった。
私はあの激痛の中、誰かの思惑でこの世界の魔女に転化されたんだ。
誰が何の目的で本人に断りもなく転化なんてしたのか知らないけれど、あのショック死してもおかしくなかった苦痛を乗り越えて召喚者の魔の手から逃げ出した現在、魔女に転化してくれた誰かに半分ぐらいは感謝している。
本当に巻き込まれたタダの人じゃ、今頃どんな扱いをされているか考えただけでゾッとする。
前の世界へ還れる手立てがなさそうなフィール王子の反応に気づいた時点で、魔女にしてくれた存在――否! 魔女になりえた自分を褒めてあげたい。やるな、私! 頑張ったね私! そして、若返りバンザイ!
だがしかし、だ。
では、もう一度あの激痛を経験してもいいかとなると話は別だ。平身低頭ご免こうむりたい。
女は痛みに強いと言われてるけれど、耐性が高いってだけで痛みが好きなわけじゃないんだよ。
記憶のインプットは、しなくっちゃならない作業だと解ってはいる。でも、さすがにあの重苦はもうお腹いっぱいだ! 少女時代の大怪我だって、リハビリですら死にたくなるくらい辛かったんだよ。
なのに現在、早く即死か気絶させて! と願うくらいの激痛が、またもや私の頭を責め苛んでいた。
爆発のような衝撃が頭の中で起こった直後、有象無象が脳内を猛スピードで駆け巡りだした。文字・映像・匂いに味に感触――五感の全てを使った他者の記憶そのものが刻み込まれていく。
何十年何百年分の魔女たちの記憶や知識が、ハイスピード再生で強引に詰め込まれていくんだ。
頭が。脳が。火花を散らして発火したように熱く痛い。
きっと、のた打ち回って泣き叫んでいただろう。
きっと、悶絶し、女の声とは思えないような絶叫を上げていただろう。
ふと痛みが去って、目が覚めた。
あたりは陽の光がさしこんで明るくて、カーテンを引き忘れていたことをぼんやりと思い出した。あれだけ大騒ぎしたのに誰も部屋へ入って来た形跡がなく、宿の従業員や泊り客に迷惑をかけていないらしいことにほっとした。
そして、溜息をつきながら視線を流したそこが宿の部屋ではなく、見覚えはあるけれどまったく違う部屋なことにようやく気づいた。
上体を起こして、今度こそはっきりとした意識で室内や自分自身を見まわした。
寝るまでは確かになかった薄衣を幾重にも下げた天蓋が頭上を覆い、その先に見える窓の外は暖かそうな陽光が差し込んでいるにも関わらず一面の真っ白な靄だった。
室内には寝台以外になにもなく、暗い色の壁紙だと思ったら煤けて埃にまみれたただの土壁で――。
「ここは…」
見覚えがあった。こんなにうす汚れて何もない部屋じゃなかったけれど、確かに覚えがある。
宿の部屋や前の世界の私の部屋ではなく、とても美しい誰かが住んでいた部屋。その誰かがいた時に、私は何度かここを訪れた。和やかな雰囲気の中で美しい手指が入れたお茶をゆったりと楽しみ、私が持参した森の恵みいっぱいの菓子を摘まんで談笑した。
「ああ……これは」
これは私の記憶じゃない。
美しい誰かと時間を忘れて楽しんだのは、『神無月 英』でも『魔女アズ』でもない。
私の中にインプットされた、魔女たちの記憶。
「女神様……」
自覚のない涙が、私の頬をいくつもいくつも流れ落ちた。
この部屋に、主はいない。
それどころか、この世界のどこにも存在しない。
この世界は何百年か前に女神様が消え、神にも見放され放置された世界だ。
世界を創造した神から司る役目を与えられた美しい女神様は、この世界の人々に間接的に殺され消滅した。
生まれ育み死を迎える魂を包み込み、全ての命に癒しを注ぎながらときおり現れる魔を払い、生きとし生ける者たちを愛でていた女神さまを、人々は。
「なんてことを!」
地上に直接的に手を差し伸べられない女神様は、己の力を少し削ぎ取って現身を地上へ降ろした。
平時は神域に隠れ住んでいた現身は、人の手に余る異常が起きたら女神様の指示に従って解決して回った。
何度も何度も。
その度に人々は頭を垂れて感謝した。
だけれど。
痛い! 痛い!! いたいーーーー!!
急激に戻ってきた痛みに、私は寝台の上に蹲って悲鳴を上げた。
魔女の記憶を辿っていたのに、いきなり先が真っ黒に塗りつぶされた。
黒で消されたぶつ切りの記憶がまた押し込められ、刃物で削られるような激痛にもんどりうって寝台から転げ落ちた。
私は床の上で、ようやく本当に目覚めた。
今度こそ、宿の素敵な寝室だった。
激痛も消えて戻って来れたのに、私はそこで声を殺して泣き続けた。泣いても泣いても涙は止まらず、身体がだるくて仕方ないのにベッドへ上がることも忘れて、朝日が昇るまで床の上にしゃがみ込んでいた。
柔らかな朝日がよろい戸の上にあるアーチのガラス窓から差し込み、ゆっくりと室内が暖まって行く。小鳥たちのせわしない囀りと大手通りを行きかう人々の声や馬車の走る音が、私の意識を現実へ引き戻した。
涙でかぴかぴになった頬を擦り、重い体を起こしてバスルームへ向かった。
暖かいお湯を浴びてひりつく顔と脂汗に湿った体を洗い、泣きすぎて痛む眼を温めた。溜まった湯に浸かって、そこでようやく深い深ーい溜息を吐き出した。
二日続けて号泣することになるなんて。まぁ、それと死にたくなるほどの激痛がセットではあるけどね。
あんなに熱く痛んだ頭は今はシンと冷えて静かで――凍りついたような暗い諦念にひたっている。
次元の漆黒の闇の中を凍った諦念に心をまかせ、止まった時流の中をただ漂うしかなかった女神様の欠片たち。
召喚時のあの肉体に潜り込んで来ていたナニカは、彼女たちだった。だから、私は魔女に転化させられた。
聖女とは別に選ばれて連れてこられたのか、巻き込まれた時に丁度いいからと使われたのか。
とにかく私は闇の中に散らばっていた魔女だった残骸の器に選ばれ、それを収めるために肉体を作り変えられた。私だからなのか誰でも良かったのかわからないけれど、私は運よく適合したらしい。
でも、なんのために私を魔女にしたのかが思い当たらない。
私を魔女に変えた何者かからのメッセージはなく、魔女の記憶にもそれらしい物はない。
目的も指示も与えられていない私は、いったいこの世界で何をすればいいのか。
あなたたちは、私に何をさせたいの?
巻き込まれた私を助けるため?
それとも復讐? 破壊?
この世界の自滅を、ただ眺めたいだけ?
女神様の欠片たちは、必死に護って来た人間たちになぜだかある時を境にして裏切られ殺され続けた。
天災や人災から助け護ってあげているのに、この世界の人々はその災い自体を魔女のせいにして糾弾した。
怯えて逃げ、憎んで責めた。
なのに、魔女たちは女神様の意向に従って人間を護った。
罵声を浴びせながら石を投げられても、武器や攻撃魔法で攻められても。
そして、最後には女神様さえ消え去った。
削る神力を失ったから。
そんな世界を、女神様を遣わした神すら見放した。
天上には誰もいない。残されたのは、漆黒の闇だけ。