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理想の街 三日目(二)

 部屋に戻るとパパの絵はきれいに色づいていた。夏の緑、もわっとした空気の感じがある。川沿いの土手を歩くスーツの二人はやっぱり暑そうだし、しょげかえっているみたいだ。それにしても出来上がりが早いのに私はびっくりした。

「ちょうど描き上がったところだ。お昼を食べに行こう。」

 パパはちょっと気分が良くなっているみたいだ。

「それにしてもずいぶん早いね。」

「小さい頃から絵を仕上げるのは早かったんだ。ハナちゃんだって半日あったら簡単な絵本くらい描ける。大事なのは本番を描き始める前、どんなものにするか、しっかり自分の頭の中で作り上げておくこと。」

「ふうん。」

 そういうものなのかと、私はちょっと感心した。でもそれより、私はおばあちゃんとの約束の方が気になっている。

「ねえ、お昼を食べたらさ。おばあちゃんのおうちへ行こうよ。山の方にあるって言ってたところ。」

 私がそう言うと、なぜかパパはとても嬉しそうだった。

「よし、そうしよう。」


 それからすぐに私とパパは部屋を出て、大通りへ向かって歩き出した。珍しくパパが黙り込んでいるので、真面目に魔女退治の方法でも考えているのかと思ったら、そのあと言い出したのは全然違うことだった。

「手ぶらで行くわけにもいかないだろう。商店街で何か買っておこうか。」

「何を買うの。」

「気を使わせ過ぎない程度の値段で、悪くはないと思ってもらえればいいものさ。こっちの誠意の問題だから。まあ、大人の気づかいってやつだ。」

「なんか行くのに料金を払うみたい。」

「じゃあ、ただみたいに安いおみやげならいいの?」

「それならいいんじゃない。」

「ほら、料金って考えるからおかしなことになる。値段より何か持っていこうと思ったってのが大事なのに、それがなくなっている。」

「気持ちって言ってもよく分かんないよ。」

「ものごとにはいろいろな見方がある。例えばさ、この街に来てもう三日目だって思うか。まだ三日だって思うのかで全然意味が違うだろ。それを数字では単位を揃える。振り返りと未来をマイナスとプラスに分けてしまう。マイナスって小学校でやったっけ? つまりは計算しやすくなるけど、数字から想像力を働かすのはかえって難しくなる。」

「私は分かりやすい方がいいけど。」

「一旦数字にしてしまったら、それ以外の想像がうまく出来ないんだ。特にそれを体験していなかったらさ。逆に想像も出来てないくせに、数字上は分かったことになる。」

 私は何か大事なことを知らないのかと思ったんだけど、ふと思いとどまった。そうだ、パパの言葉に騙されてはいけない。

「なんだかよく分かんないなあ。」

「分かった気分になるのもいいさ。だけど大人になると、それだけじゃ済まないんだ。つまりはしっかり向き合うのさ。」

 パパがよく分からない話をしているうちに大通りに着く。私とパパはまずお昼ごはんを食べてから、それからおみやげを探し始めた。


 お年寄りだから和菓子を持っていこうとパパが決めて、良さそうなお店に私たちは入る。木とガラスで出来たお店、私とパパは、ガラス戸に並んでいる器の中から、ピンク色の和菓子を買うことにした。前にお客さんがいたので、その後ろにパパと私は並んでお会計を待つ。

「すいませんねえ、お待たせしました。こちら、おつけしますので、よろしかったらどうぞ。」

 前のお客さんが買ったものに、お店の人が小さな菓子袋を足している。

「いいのよ。あんまり気にしないで。」

 紙袋を持ったお客さんが店を出て、次は私たちの番だ。お店の人は同じように小さな菓子袋を足そうとする。

「先ほどはすいませんでした。こちらよろしかったらどうぞ。」

「え? 今来たところなんですけど。」

 パパは前のお客さんとの会話を聞いていなかったようだ。

「あ、先ほどからお店にいらしてたかと思って、失礼しました。」

「いえ。何かあったんですか?」

「ちょっと別のお客さんが大声を出したもんですから。よくいらっしゃるお客さんなんですけど。でも、よろしかったら持っていらして下さい。」

 大声を出す人と聞いて、私はあのおばあちゃんのことを思い出して、思わず質問した。

「なんで怒ってたんですか?」

「包みのサイズを切らしていまして、いつもより一つ大きいのをお渡ししたら、それが気に障ったらしくて。ちょっと気難しくて有名なおばあちゃんなの。」

 やっぱりアリジゴクのおばあちゃんだと私は思った。おばあちゃんが起こるのは、予定していたことがうまくいかない時、それは図書館でも、この和菓子屋さんでも同じだった。



 おばあちゃんが教えてくれた山の方へ向かう。だけどその途中で、パパと私は道に迷ってしまった。何度か同じ道を行ったり来たりする。

「道に迷っていると思うのか、面倒な通り道だと思うのかの違いさ。」

 お店を出てから私はずっと別のことを考えていたので、パパのおしゃべりを聞いていなかった。おばあちゃんがすぐに怒る理由、ずっとそればかりを考えていた。

「ハナちゃん、どうしたの。」

 私がほとんどしゃべらなかったせいか、パパは不思議そうに聞いてきた。

「・・なんでおばあちゃんは怒るんだろうって。理解できないの。」

「おばあちゃんて、これから行くおうちの?」

「うん。」

「ふうん。さっきお店の人が言っていたおばあちゃんて、同じ人?」

「うん、たぶん。」

「それが悩み?」

「うん、なんかとっても。」

 道は大通りから離れて、だんだんと建物が少なくなっていく。しばらく黙っていたパパはまた私に話しかけてきた。

「パパな、悩んだらどうしたらいいのか考えたんだ。ちょうどいいからハナちゃんにも教えてあげるよ。」

「え、別にいいよ。」

「いいかい、すこし押されたらすこし返せばいいし、強く押されたら強く返せばいい。それが出来るようになったら、どう返すのがいいか、ちゃんと考えればいい。弱くか強くか、順番を間違えなければ出来ることばっかりなんだよ。」

 『人生における大事な小ワザ』というのとちょっと違う話みたいだ。それにしてもおばあちゃんの話と押し方の話は一体、どう関係しているんだろう。



 山へ登っていく道をやっと見つけた。上り坂になる。すこし歩くと、白い壁のおうちが見えた。二階建てだけど、上の部分はちょっと小さくて、その屋上の部分には柵が並んでいる。私はここがおばあちゃんの家だって思った。だって他に家らしい家はなかったし、なんだか不思議な感じがしたからだ。玄関の扉は木製で、その前に車がとめてあった。車のボンネットには木の影が風に揺れている。緑と太陽の感じがなんだか気持ち良さそうだ。

「こんにちは。」

 扉が開くと女の人が出てきた。ママくらいの年の人だ。風に揺れる影が玄関の床の方まで入っていった。

「おばあさまの言葉に甘えてアリジゴクを見せてもらいにきました。」

「おかあさん。お客様よ。」

 奥からは返事がない。

「ごめんなさい、ちょっと寝込んでいるので、すぐに呼んできますわ。どうぞ、上がってお待ち下さいね。」

 私とパパはリビングに通された。この家の中は木の匂いがするなと私が思っていたら、すぐにおばあちゃんが出てきた。おばあちゃんは疲れている感じだったけど、私たちを見るとちょっと背すじをのばして言った。

「いらっしゃい。いよいよアリジゴクを見に来たのね。」

「すいません。突然お邪魔しまして。」

「いいのよ。それよりどうぞ、こっちよ。ここのユカシタ。」

 奥には畳の部屋、その先には木の板でできた廊下があって、お庭につながっていた。おばあちゃんは奥まで歩いていって、廊下の板を外す。私とパパはその下を覗き込んだ。


 ユカシタというのはどうも床と地面の間のことらしい。今まで考えたことのなかった空間だ。ユカシタには、コンパスで切り出したようなきれいな丸があった。少しずつ大きさの違う砂のくぼみが全部で六つだ。

「このスリバチの下にいるわ。なかなか見えないけど、このまんなかにアリジゴクがいるのよ。」

「アリジゴクが隠れてるの?」

「そう。アリが来るまでじっと待っているの。アリが来たらね、どうやってスリバチの中へ引きずりこむか見てみるといいわ。」

 その大きさは私の手より小さかった。よく分からないけど、アリが支配する地獄でなく、アリにとっての地獄ということのようだ。

「アリジゴクはウスバカゲロウね。」

「ウスバカゲロウ?」

「カゲロウはとても壊れやすいの。」

 おばあちゃんはユカシタをじっと見つめていた。私も真似してユカシタを見てみる。アリジゴクの丸の中心に隠れている虫はなかなか姿を見せない。細かい砂をならしたようなまん丸はなんだか可愛いらしく、私は怖く感じなかった。

「アリが来ると砂をかけるの。そしてまんなかにアリは引きこまれる。」

「ふうん。」

 それからしばらく砂に描かれた丸を見ていた。アリは現れず、だからアリジゴクも出てこない。いくら待っていても何も起こらないので、私はアリジゴクを見ることに興味がなくなってきた。


 向こうの部屋からふいに笑い声が聞こえた。最初は一緒にアリジゴクを見ていたパパは、今はソファでおうちの人と話をしている。ずいぶんと盛り上がっているみたいだ。私は、パパたちのいる部屋へ行ってみる。

「ああ、ハナちゃん。アリジゴクはもういいの?」

「全然出てこないの。」

「そうか。ところでさ。パパと美沙子さんは昔の知り合いだったんだ。たぶんそうじゃないかと思っていたんだが。」

「私もすっかり忘れていたわ。」

「小さい頃、この家に来たことがあるんだ。なんとなく、おばあちゃんの顔が懐かしい気がしてたんだけど、今日やっと完全に思い出した。小学校の頃にここに来て、アリジゴクを何度も見せてもらったことがあるってね。」

「さっき思い出したの。アリジゴクを見に来る子は本当に久しぶりだから。おかあさん、覚えている? 小学校五、六年の時に同じクラスだった佐々木さん、ササちゃんよ。アリジゴクの写生をしていた子。」

「ああ、アリジゴクの絵が上手だった男の子ねえ。あの本がなかなか見つからなくて。この子にも見せてあげたいんだけど図書館にちっともない。」

「それはおばあちゃんがいつも探している本?」

 私がおばあちゃんに聞いた。

「そうよ。あの本が一番良いの。」

 おばあちゃんは昔のことを覚えているんだろうけど、すこし記憶がぼけているみたいだった。

「この家は眺めがいいんだ。ベランダからの景色を見せてもらおう。」

「ええ、どうぞ。」

「ハナちゃん、一緒に行こうよ。」

「うん、いいよ。」

 美沙子さんに案内されてパパと私はベランダに上がる。木製の階段はギシッと音を出したけど、それほど怖くはなかった。なんだか青空に向かっているような階段。その先がベランダで、心地良い風が私とパパを出迎えてくれた。

「ここは山にさらに近いからな。そうだ、しっかりと深呼吸をしておこう。」

 パパがそう言うので一応、私も付き合いで深呼吸してみた。空気をお腹いっぱいに入れる。その空気をゆっくりと吐き出す。そしたら、空がもっと青くなって近づいてきたみたいに思えた。私は深呼吸を何度か繰り返す。美沙子さんはお茶の片付けに戻ったので、ベランダはパパと二人きりだ。私はあらためて辺りを見回す。鳥のさえずりとわずかに虫の声が聞こえた。

「生まれ変われるかな。」

 ふいにパパが言った。

「生まれ変わるの?」

 パパの様子がちょっと変だ。さっきまでは妙にはしゃいでいる感じだったのに、今度は私の声にあまり反応しない。いつもなら、パパのことはだいたい分かる。嫌がっているなとか、ずいぶんと眠そうだなとか、そういうのを短い時間になんとなく感じるのだ。なのに、今のパパはその信号を出していない。ぼんやりと空を見上げていて、何かを考えているみたいだ。そっとしておいた方がいいんじゃないかと思って、私はその場からゆっくり離れて階段を下りる。一階では美沙子さんがテーブルを片付けていた。

「あら、もういいの。」

「うん。」

 私は自分の中にある不安をうまく表現できずに曖昧に言う。

「アリジゴクをもう一度見る。もういい?」

「うん、もういい。私なんだかいろんなことが分からないんだ。」

 私は小さい声で言ってみる。美沙子さんは手を動かすのを止めずに私のひとり言に答えてくれた。

「あなた、よく分からないから、わくわくしたりするんじゃないの。何かが起こるかもしれないって。それを悪くばかり考えたら気持ち悪くなるのよ。だけどね、何かいいことが起こる前ぶれだと思っていたら、毎日が楽しいわよ。」

 美沙子さんの言葉は分かりやすいな、と私は思った。パパはこんなに素直な言い方じゃないし、毎日が楽しいとかでなく、人生が楽しいかって大げさに言うだろう。

「母は今日ちょっと疲れたみたいで、また寝てしまったわ。アリジゴクを久しぶりに見せたから、嬉しかったのかしら。」

 きっとおばあちゃんは和菓子屋さんで大声を出したから、昨日みたいに疲れているんだって思った。美沙子さんに聞いてみる。

「誰かのせいで自分の思うにならなかったり、予定が変わったら、急におばあちゃんは怒ったりするんでしょうか。」

「そうね、年をとると我慢がきかないってのはあるわ。でも、それで怒るのは本当の姿じゃないの。でもねえ、あなたみたいな子供がそんなにいろいろ心配するもんじゃないわよ。」

 美沙子さんは、私に向かってしゃべりながら立ち上がった。

「夜更かしばっかりしているんじゃないの。夜にしっかり寝なさい。そしたら、朝はすっきりとするから。毎日、朝は新しい感じがしないとダメよ。」

 それは何かの予言なのだろうか。私には分からなない。言うだけ言って美沙子さんは奥のキッチンへ入っていく。そんなに夜更かしはしてないと思うけど、新しい朝の気分なんて、たぶん私は感じたことはないんだろう。

 しばらくするとパパがベランダから降りてきた。

「ハナちゃん、ずっとお邪魔してても迷惑だから、そろそろ帰ろうか。」

 パパは、さっきまでのリビングにいた時と同じパパに戻ったみたいだった。その頃になって私はようやく気づく。今日はパパだけが魔法にかけられていたんだ、きっとそうに違いない。

 パパと私が玄関まで来たところで、おばあちゃんはもう一度出てきて、私に言った。

「ねえ、明日もお願いしていいかしら。」

「うん、いいよ。」

 私が答えると、パパは不思議そうに私に尋ねる。

「何を頼まれているの。」

「図書館で本の予約を確認するだけだよ。」

 アリジゴクの絵本が戻ったかを聞いてくる、それが私の明日することだ。自分の役割が決まったことに私はなぜだか安心していた。



 おばあちゃんの家からの帰り道、ゆるい坂道を下っていく途中で、パパはよろけた。その時のパパの顔を見て、完全に魔法が解けているのが私には分かった。

「ねえ、なんでいつも平らな所でつまずくの?」

「なんでかな。でも人生につまずくことは必要だと思う。」

  やっぱりいつものパパに戻っている。

「ハナちゃん、さっきの約束、明日の話だよな。」

「うん。」

「もう少し、ここにいようか。」

「うん。」

 連休は今日が最終日だ。明日から学校が始まる。でも、明日も、おばあちゃんのお手伝いをする方がいいと私は思ったし、だから、もう少しだけこの街に残ることにした。

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