理想の街 二日目(二)
大きなガラスの建物、多目的ホールの中は薄暗かった。さっきあんなことがあったので、私は楽しそうに踊るおねえさん達を見たかったんだけど、フラダンスはお休みみたいだ。
パパとの約束の時間よりまだすこし早い。それまでの間、私は大通りにいることにした。もし怖い人に出会ったとしても、ここなら隠れる所がいっぱいあると思ったからだ。
パパはほぼ時間どおりにやってきた。手を振るパパに私は駆け寄って、すぐに話し出す。
「今日ね、また、あのおばあちゃんに会ったんだ。」
「なんだい。もう全然寝ぼけてないんだね。」
いきなりしゃべりだした私と話のリズムが合っていない。
「図書館の本が戻ってこないってすごく怒ってた。」
「昨日、図書館の前で会ったおばあちゃん?」
「うん、そう。」
「借りた人が期限内で返さない場合もあるだろうに。」
「うん、たぶんそれが信じられなかったみたい。」
「文句を言って何か得をしようとする人も多いけど、そういうのじゃないのかな。」
「ううん、そんなんじゃなかった。」
「じゃあ、嫌だったんだろうな。真面目に嫌だったのさ。」
「真面目?」
「正しいことを言って嫌われる。でも、自分の嘘やいいかげんさで嫌になられるよりはいいだろうし。」
私の脳みその中で、さんすう病が働いた。真面目だから嫌になる。いいかげんだから嫌になる。嫌になる理由はどっちもあるみたいだ。だけど、真面目な嫌だとあんな風に人を怒鳴るんだろうか。反対に、いいかげんに嫌になったら怒鳴ったりせずに、人の靴を隠したりするんだろうか。私は無意識のうちに学校のことに当てはめてしまい、一人で疲れてしまった。さっきから何度も学校のことを思い出すのが嫌だった。
「ところでさ、今日、気づいたことがあるんだ。」
「なあに?」
「サイダーって英語で書くとC、Iなんだね。Sから始まると思ってたよ。さっきそこのお店にあった段ボールを見たんだ。」
「気にするのそこなの。」
パパは話をそらしているのか、図書館のことに興味がないのだけなのか、どっちなのかよく分からない。でも、パパの様子で、私は魔法にかかっているのかもって気づいた。昨日はたぶんパパも私も魔法にかかっていたんだろう。今はたぶん私だけだ。おばあちゃんを見たのは今日は私だけだから。そう思った私はしばらく黙って街路樹を見て、あまりしゃべらないようにした。パパはそんな私の様子には気づかないようで、通りのお店のメニューを眺めている。しばらく大通りを歩いた後、お昼ごはんを食べにパパと私はお寿司屋さんに入った。
お寿司を食べ終わる頃になって、ようやく私の気分はいつも通りになってきた。午後はどうしようかと私が言うと、やけにパパはきっぱりとした口調になる。
「これから画材を買う。絵でも描いてみようと思うんだ。」
そういえば、この通りに大きな文房具屋があったのを思い出す。食事を終えると、私はパパに付き合わされて、そのまま文房具屋に入った。パパは午前中もここで絵や道具を見ていて、それで思いついたらしい。
「これはコンテというクレヨンみたいなものだ。ささっと下絵を描いたらこれで塗るのでも良い。どうだ、見たことないだろう。」
「絵なんか描いたことあったの。」
「小さい頃は得意だったな。それに道具のことは店員さんに聞いたから、だいたい分かっている。」
「だいだい、ねえ。」
「そうだ鉛筆も良いのがあったな。」
「鉛筆も買うの?」
「いや、それだけじゃないぞ。構図を決めるのにスケッチブックを使うし、イラストボードもいいやつを二、三枚買う。絵を描きやすいように処理がしてあるやつだ。」
パパは午前中にいろいろ決めていたみたいだ。それならわきに飾ってある額縁つきの絵でも一枚買って終わればいいのにと思ったけど、それはパパには言わずにおいた。
部屋に戻ると、パパはすぐに買ってきた画材を机の上に広げた。壁際の机のまわりにも紙袋が置かれて、あっという間に部屋は狭くなる。
「うん、決めた。鉛筆もスケッチブックもコンテもみんな大事に使うぞ。ハナちゃんも使う時はちゃんとパパに一声かけるように。」
「使う予定はないけど分かったよ。」
「うん、そうか。ものを大事にすることは大切だ。心が通じ合わなくても、無償の愛情にはなる。」
パパもさんすう病っぽい所があるけれど、ちょっと私のとは種類が違う気がする。その例えも私には理解できなかった。
それからパパは机にスケッチブックを広げると、絵を描く作業に集中し始めた。パパは無言になるし、画材でフローリングの部屋は狭くなっている。つまりは私の居場所が減っているのだ。何か片付けられるものがないか探したけど、部屋を広げる方法は特に見つからずに、しかたなく私は一人でまた散歩に出かけた。
午後になっても、やっぱり多目的ホールは明かりがついていなかった。大通りをそのまま歩いて角を曲がると、ふいに優しい風が吹き始めた。昨日と同じ感じだ。それで私は図書館が近いことに気づく。あのおばあちゃんがベンチに座っていた。
「あら、また会えたわね。」
「あ、こんにちは。」
午前中に怒鳴っていた人とは思えない、昨日と同じで優しいしゃべり方だ。
「頭がずっと痛かったの。それがようやく治ったわ。大きい声を出しちゃったから。」
私が図書館の中で見かけたのは、だいぶ前だ。あれから何時間もここに座っていたんだろうか。私は頭の中で教室にある時計を思い浮かべて計算した。
「本が返ってこないんですか。」
言ったすぐ後に、私がこっそり見ていたのを知ったら怒るかもと、背中がきゅんとなる。
「そうなの。明日ももし本が返ってなかったら、また同じことになるんじゃないかと心配なの。」
私の言葉を聞いても、おばあちゃんの顔は穏やかなままだった。たぶん、この人は今は怒っていない、そう確認しながら私は聞く。
「大声出したくないんですか。」
「そうなの。誰か聞きに行ってくれないかしら。」
おばあちゃんの近くにいるせいなのか、その時、私はなんだか頭がぼんやりしていた。
「良かったら私、明日聞いてきてあげる。」
なんでそんな約束したのか、自分でもよく分からない。たぶん私は、誰かのためっていうのを分かってないのに、ただそれをしようとしていた。
「ありがとう。あなたはいい子ね。」
そんな風に褒められるのはずいぶんと久しぶりだ。おばあちゃんはそれから大事そうに絵本のことを私に言った。
「『ササトミ サヨリ』さんの絵本よ。アリジゴクの絵本は一冊しかないから、それで分かるはずだから。」
「はい。」
「じゃあ、明日ここで待っているわ。」
「うん、わかった。」
「それに良かったら家に遊びに来てね。来てほしいのよ。」
アリジゴクのイメージがまた私の頭に浮かぶ。私はただ曖昧に笑ってみせた。これもたしか『人生における大事な小ワザ』の一つだ。
図書館で時間をつぶしているうちに夕方になった。部屋に戻ると鉛筆だけの絵がスケッチブックの中で完成していて、パパはそれを見ながら、大きなイラストボートに下絵を描き始めていた。川沿いの土手、緑の中に一本道があって、それを二人の男の人が歩いている。二人ともスーツ姿なので、パパと同じ会社員みたいだ。
「人の会話って背中から読めるかもしれないよな。」
パパは私の方を振り返らずに言う。私はその言葉の意味が分からずに聞き返した。
「なにが読めるの?」
「話していることさ。想像することで明確になる。ハナちゃん、想像するって大事だよ。人間ってのはだいたい、自分が理解できないものに出会うと理由をつけたがる。それで安心なのさ。例えば夜中の火が妖怪のしわざと思えば気が楽だし、その方が面白いじゃないか。」
「その例え、よく分からない。」
私は描きかけの絵をあらためて見た。全体の雰囲気はそんなに悪くない。パパは手先が器用だからそれなりの絵には見える。まだ色がついていないけど気持ち良い緑なんだろう。でも二人ともスーツ姿なのが、のどかな景色に合ってない。そんなことを考える私に構わずに、パパは自慢げに説明を続けた。
「暑い日の午後の風景さ。昔どこかで見て、その記憶がずっと残っている。この二人が話している内容をいろいろ想像して描いてみようと思ったんだ。
一人は新人じゃないかって思う。相手の都合で場違いな所で商談をさせられた。それがあまりうまくいかず、その帰り道でさ。どんなことを語っているのかなって考えているんだ。もしかしたら、こういう場所で若さを感じた先輩はちょっと新鮮な気分になっているのかもしれない。」
その絵の背中をすこし眺め続けてみたけど、やっぱり私には何も聞こえない。汗がたくさん出ているだろうなとか、そんな感じのことを思うくらいだ。パパは家にこもりっきりで絵を描いていたから、きっと思い込みが強くなっているんだろう。
「今日はここまでにするか。やっぱり若い頃より集中が途切れるのが早いもんだな。さっきからどういう風に色をつけるかずっと考えていたんだけど、いまいち方針が決まらない。」
そう言うとパパはスケッチブックを閉じて、まわりの画材を机の上にまとめ始める。その片付けられた分が私のくつろぐスペースになるかなと、ちょっと計算してみた。
それから私とパパは、買ってきたお弁当を一緒に食べた。特に話題もなかったので、パパになんで理解できない行動をする人がいるのかと、とても素朴な質問をしてみる。
「苦手な人と付き合うことも大事だ。それこそが社会性という。」
パパはなんだかエラそうに言うけど、私が聞きたいのは、なぜそんな行動をするかということだ。
「普通に考えたら、嘘ついたってしようがないでしょ。」
「たんに憂さを晴らしたいとか、その場しのぎしか考えられない人は結構いるさ。」
「それって、絶対いいことないし、自分勝手じゃない。」
「残念ながら、論理より感情で動くことの方が人は多いんだよ。」
「でも、それっておかしいと思う。」
「おかしいと思うことと、それをやることは別の話。それも算数みたいに考えたら分かることなのにな。」
パパの言う社会性の話と学校の話は同じだとしても、やっぱりおばあちゃんが怒ることとは違う気がした。だけど、私はうまく言葉に出来なくて、パパとの話はそれで終わった。その夜もパパはやっぱり先に寝てしまった。