理想の街 二日目(一)
二日目の朝、パパが朝から散歩に誘ってきたけど、私はそんな気分にならない。眠かったし、パパと散歩しても面白いことが何もないのは、昨日だけで十分に分かったからだ。
「・・散歩、いいよ。もうすこし寝るから。」
布団の中から私はこたえる。
「朝ごはんも食べてないだろう。ついでさ。今日も天気がいい。」
「あとで食べるからいい。それに、ただ歩くだけの一日の過ごし方は、なんだかいけないことのような気がする。」
「それが分かっただけでたいしたもんだ。昨日歩いた意味はあった。」
「とにかく、いいの。もう。」
「あ、はいはい。食べるなら、パンがコンロのところに置いてあるからね。」
結局、パパとはお昼に大通りで待ち合わせにして、午前中は別行動となる。私は十分に寝坊をしてから、またタブレットをいじったり、テレビを見たりしたけど、すぐに時間が余ってしまった。
本当はこういう時は勉強でもした方がいい。社会や理科は覚えることが多いし、さんすう病だからと言って算数が得意なわけではない。勉強をしなきゃいけないっていうのも、私のいくつかある悩みの一つだけど、この悩みはまあたいしたことない。
部屋にいても、やっぱり勉強する気になれなかったので、私は早めに外へ出た。とりあえず川沿いを歩いてみる。水の音がなんだか近くに聞こえた。これも理想の街の効果なのかもしれない。気持ちは良いがそれだけだ。昨日もたっぷり歩いていたので、すぐに足が疲れてきた。でも、この疲れはなんだろうって思う。いつも感じているのとはずいぶんと違っていた。
学校でさようならの挨拶をする時には、自分がとても疲れているのが分かった。早く学校から出たいと思う自分がいた。私は学校が嫌いなのかなとも思ったけど、得意じゃないって言葉の方がぴったりくる。うまくやれないわけじゃないけど、とても疲れる。さらに面倒なのは、さんすう病だ。学校で起こる理解できないことは、結局はルールが分からないから気味が悪いのだ。世界中の人の感情や行動みたいなものが計算できたらいいのに。そうしたら私が無理する必要はなくなるのかもしれない。
とにかくも学校は面倒くさいのだ。私は別にいじめられているわけではないし、どっちかといえば、いじめられっこに頼られている。だからって、隠れていじわるするような人の相手は私だって嫌だ。細かい仕返しなんかはよくあるし、そんな人がいると思うだけで、学校がどうにも面倒になってしまう。こうしなくてはいけないというルールはクラス全員がそれぞれに違っているのに、先生にはそれが分からないみたいだ。クラスの目標なんて、みんなが合わせてくれないと、うまくいくはずがないのに。ああ、面倒くさい。考えるだけバカみたいだ。
どうにも疲れて座りたくなったタイミングで、私は案内版を見つけた。すこし戻れば長細くのびた公園があって、そこを抜ければ昨日行った図書館だ。休憩するにはちょうどいい。私は昨日と逆に公園を歩くことにした。
図書館に裏側から入るとすぐに休める所は見つかった。カウンターの近くの長椅子に座るとようやく足が楽になる。それから並んでいる絵本の表紙をぼんやり眺めていたら、私は再びあの人を見つけた。魔法でも出来そうなおばあちゃん、その人は図書館のカウンターの前にいた。
昨日の『アリジゴク』のイメージを思い出す。大きな蟻は、固い殻のような顔から突き出た牙で、捕まえた人の肩に噛みつき、せわしなく口を動かしている。私は顔の向きを変えながら、アリジゴクのおばあちゃんの様子をこっそり見た。
女の人と話していたおばあちゃんは、突然、声を大きくする。図書館に響く声は私にもはっきり聞こえた。
「どうしてないの。前の人が返してくれればいいだけでしょ。」
カウンターの人は困っているようだ。図書館の人の声は小さく響く。
「ごめんなさい。でも、ないからお貸しできないんです。」
「もうずっと待っているのよ。本は二週間で返さなくていけないはずでしょ。」
「ルールではそうなんですが・・」
「二週間で戻ってくる絵本が、なんでまだ借りられないの。」
「その本自体がないんです。戻ってないというか・・」
「どうして二週間でしょ。」
「本を借りていい期間は決まりでは確かにそうなんですが。」
「じゃあ、なんでなの。二週間も。」
二人の会話は同じことを繰り返していて、私は体育でやった徒競走の練習を思い出した。本が借りられないのはおかしい。理由は本が返ってきてないから。ルール通りなら戻ってくる。だけど借りられない。繰り返しだ。似たようなやりとりが、こんなに長く続くのを見るのは初めてで、それだけアリジゴクのおばあちゃんは怒っているんだろう。
情緒が安定しているのはとてもいいことなんだよ、ふいにパパの言葉を思い出す。情緒不安定な人には、まわりの協力が必要になることが多いらしい。学校でもそういう友達はけっこう多かった。だけど、このおばあちゃんの怒り方はそういうのじゃない。私が好きとか嫌いとかって思うのとは全然違っていて、なんだか分からないけど怖かったのだ。怖い、なんだか怖い。私は逃げ出すように図書館を出た。
外に飛び出し、図書館の出入り口からすこし離れた所で、やっと私は振り返った。誰も追ってくる人はいない。でも心臓のドキドキ音がずっと聞こえていた。私は気分を落ち着かせようと、今の出来事のことをすこし考えてみる。人が怒鳴っているのを見るのは好きじゃない、だけどそれだけなんだろうか。私は何を怖いと思ったんだろうか。それは、自分に何か悪いことをされるとか、そういうのではなくて、その人の心の中について、たぶん私が感じたことだ。
あのおばあちゃんは、自分が思ったこと以外で起こるものは許さないのだ。じゃあ、あの人は、前に借りていた人が急に病気になったとかいう事情を知ったら、それで許してくれるんだろうか。その時は本を借りた人にターゲットを変えて、準備が悪いとやはり怒るんだろうか。思い返してみても、その怖さは変わらない。
自分と考えが違うから友達を嫌に思う時があるけれど、アリジゴクのおばあちゃんの場合はそうじゃなかった。違い過ぎて、嫌いとか面倒だとか思うよりより、怖いのだ。私は相手が何を考えているのか想像するのがクセだけど、あの人には全く通じない。なんにも分からない怖さ、こんなのは初めてだった。
私はもう一度振り返って図書館の建物を見る。おばあちゃんの怒鳴り声が続いているか、ここからでは分からなかった。あらためて見ると、この街の図書館はずいぶんと立派な建物だ。それにまわりは木に囲まれていて、まるで森の中にあるみたいだ。昨日もこの景色を見たことを思い出すと、やっと心臓のドキドキ音がおさまってきた。この図書館の見た目は心を落ち着かせる効果があるのかもしれない。それから私はすこし早足で大通りの方へ向かう。