おばあちゃんの新しい絵本
その日の朝は新しかった。うまく言えないけどそんな感じがしたのだ。起きてから見回した部屋は、いつのまにか自分にぴったりな感じがしたし、カーテンを開けると今日も天気が良かった。パパはまだ部屋のはしっこで寝ている。昨日と同じだ。なのに、私はパパより早く起きているのがとても大事だと思って、それから決めた。寝る前に考えていたことを、これからやろうって。それは私がずっと悩んでいることが吹き飛んでしまうくらい、大きな決意だった。
私はパパのスケッチブックを切って、鉛筆でアリジゴクと書いた。アリジゴクの本をおばあちゃんにあげる、そしたら図書館にあの人がいない日でも楽しく過ごしてもらえるかもしれない。布団の中にいるパパは寝ていて話しかけてこないから、ちょうどいい。私は午前中、その作業に集中することにした。
「ねえ、パパ、コンテ借りるよ。」
「・・ううん。」
布団の中のパパは寝言のような返事をする。それ以上はパパに構わずに、私はコンテを箱から取り出した。初めてだったがコンテは描きやすかった。私はスケッチブックに何種類かの絵の練習をする。アリジゴクの絵、私はアリジゴクはユカシタにいると教えてもらった。そしてウスバカゲロウだと教えてもらった。
歩いているアリ、アリが砂のくぼみの中に引きずりこまれていく絵、砂をかけるとおばあちゃんが言っていたから、その様子を想像で描く。でも、本物のアリジゴクを私は見てないので、しかたなくアリが砂の中に沈んでいく様子までにした。ウスバカゲロウはさらに絵に描けない。きっと、パパなら全部を描けるんだろう。だけど私は自分の力でこの絵本を完成させたかった。結局、おばあちゃんが『ウスバカゲロウだよ』と言っている絵を最後のページにする。
やっと一通りの絵と文章が出来上がった。私は全部のページを並べてからセロハンテープでまとめて一冊の本にする。名前を忘れていたのに気づいて、最後に、表紙にササトミサヨリとカタカナで書いた。
「ねえ、パパ、今日で帰ろうよ。私、明日は学校に行く。」
「ん・・あぁ。」
「起きた?」
「・・うん。もうこんな時間か。」
パパはようやく目を覚ましたようだ。部屋を見回すと冷蔵庫へ向かう。
「え、学校に行くって。」
冷蔵庫の水を飲み終えてからパパは聞く。
「うん、明日は図書館が休みなの。だからね。今日でおばあちゃんのお使いも最後だから。」
「そうか。」
「うん、これから図書館に行ってくる。」
「ああ。絵はもうほとんど仕上がったから、ハナちゃんが図書館に行っている間に部屋を片付けて、明日からの部屋の契約はキャンセルしておくよ。」
「うん、分かった。」
私はマスクをして出かける。なんだか自分がとっても恰好よく思った。私はおばあちゃんのために、これからこの絵本を渡しに行くんだ。大通りを通って公園へ向かう。
多目的ホールの前で女の人が集まっていた。そのうち一人のバックからは白い花が覗いていて、私にはその人たちのことがすぐに分かった。フラダンスのおねえさん達だ。白い花のバックを持っているおねえさんは私の方を見た。
「あなた、この前、踊っていた子ね。学校じゃないの。」
白い花の髪飾りのおねえさんも私のことを覚えていてくれた。
「・・はい。学校は明日からです。」
ちょっと口ごもったけどマスクのおかげで私はうまく言えた。
「今日は踊るんですか。」
「さっきまでホールの中で練習してて、終わったところよ。来週はコンテストだからね。人目につく所でちゃんと衣装を着て練習した方がいいと思って、今日もまた借りたの。」
「そうなんですか。」
おねえさん達のフラダンスが見られなかったのは残念だけど、私はここでおねえさんとお話が出来たことを嬉しく思った。
「風邪ひいているんなら、あんまり一人で出歩いちゃダメよ。」
「・・はい。」
「うん、じゃあね。」
そう言った時の笑顔はあの、私の好きな笑顔だった。
その日は風のない穏やかな天気だった。大通りを抜けて公園に行くと、おばあちゃんはいつものベンチにちょこんと座っていた。今日は美沙子さんも一緒だ。
「ハナちゃん、こんにちは。」
「こんにちは。」
今日は図書館には行っていないけど、私はもう答えを知っていた。
「今日もご本ないんだって。」
「そうなの。」
「うん、だけど金曜日には借りられるようになるって。」
「あら、そう。」
美沙子さんが返事をしてくれる。その間、おばあちゃんは黙って、ただ笑顔をつくっていた。それはなんていうか、ただ優しい空気だけが伝わってくるような笑顔だった。私がおばあちゃんの笑顔を見続けていると、美沙子さんが言う。
「ハナちゃんのおかげでね。この頃、機嫌がいいのよ。」
「そうなんですか。」
「あなた、それより気づいている? この前、お父さんが来た時ね。ほとんどあなたのために話していたのよ。私には分かったわ。」
「え?」
「お父さんはあなたのために会社をお休みしているの。それも気づかないかしら。それはたぶんお父さんなりのやりかたなのよ。」
「そうですね、そう思います。」
その時、私はあまり考えずに答えていた。
「まあ、分かんないわよね。それよりねえ、無理に相手に合わせなくてもいいのよ。」
美沙子さんはため息みたいに言った。私はふいにパパの言葉を思い出す。確かパパは、誰かに見透かされるだろうって私のことを言っていた。それはきっとこういうことだ。見える人にはそういう風に見えていて、だからごまかそうとしても、きっと意味がないんだと。私はやっと何かをあきらめた。
「ごめんなさい。私、よく分かってないんです。」
「人に合わせてばかりいたら、疲れるからね。」
それから美沙子さんは、おおげさに手を広げてみせて私に言った。
「あのね、毎日のもっと楽しいことを大事にしなさいよ。昼間、どんなに嫌なことがあっても、夕焼けがきれいだったら、その日はいい一日だったって思えるからいいでしょ。そしてね。夜になったら今日あったいいことを思い出して、明日ありそうないいことを考える。それだけでいいのよ。」
きれいな夕焼け、新しい朝、そうだ、そう考えればいいだけなんだ。私は昨日の坂道で見た夕焼けのこと、それに今日がんばって絵を描いたことを思い出す。人に教えてもらうことって、教科書のことと全然違う伝わり方をするんだなって思った。
「私、明日から学校に行きます。」
「それはそうよ。」
美沙子さんが笑うので私も笑う。それから私は、おばあちゃんの方に話しかけた。
「私、おばあちゃんが大声出さなくていいようにと思って。ササトミサヨリさんの本がなかなか借りられないから、自分でつくってみたの。これあげるね。」
おばあちゃんに今日つくった絵本を渡す。そしたら、おばあさんの顔がぱっと明るくなったみたいに私には見えた。
「これは間違いなくササトミサヨリさんの本だわ。本物よ。なんで今まで気づかなかったのかしら。」
おばあちゃんはゆっくりと絵本のページをめくっていった。
「これなら家でずっと見られる。前のは破けちゃったから。ありがとうね。」
おばあちゃんの笑顔がさらに大きくなったみたいに見えた。これでおばあちゃんはしばらく魔法を使わなくなるって、なぜだか私はそう思った。
「よくできてるわね、この本。」
おばあちゃんの手元を見ていた美沙子さんもずいぶんと笑顔になっている。私は今、二つの笑顔をつくった。この笑顔は二倍でも三倍でもない、笑顔はただ気持ちを明るくやわらかくさせる、それだけだった。
「ハナちゃん、本当にありがとう。今日からあなたがササトミサヨリの二代目よ。」
「二代目?」
「そう。」
その時、なぜだか私には小学生の美沙子さんの顔が見えて、その頃のことが伝わってきたような気がした。
「うん。分かった。分かったよ。」
私は大声で返事をした。二倍とか三倍とか、それで考えてたら絶対分からないことがここにはある。
その日の午後遅く、私とパパは部屋を出た。この部屋に長く住んでいたなって、今日になって私はそんな気がしてしまった。
「また、いつかこの街に来て絵でも描きたいな。昼間と夜を描いたから、次は夕方にしようかと思ってさ。あの二人が、また川沿いを歩いていく。夕焼けで土手の上の二人がシルエットになる。いつかまた、こんな休みの時があったらさ。」
パパは昨日の夜遅くに描き上げた絵を右手に抱えている。夜の街を歩く二人連れの絵だ。
「あきないんだね。アリジゴクを見に行くの?」
私が言うとパパは笑った。今、パパを笑顔にしたのは私なんだろうか、ふと思う。
「ねえ。私、すこしは誰かの役に立ったかなあ。」
それは、たぶんパパに聞いたんではなかったと思う。
「たぶんね。それに失敗してたとしても、悲しませようとする人よりずっといいさ。」
「えー、できれば失敗はしたくないよ。」
誰かのためにすることは、自分の嫌なことよりも上なような気がした。それはなんていうか重さが違う。例え学校でつまらない出来事があったとしても、それよりも誰かを喜ばせることを考えた方が、朝が新しい感じになる。だから、誰かのいじめより、他の誰かの役に立つ方がずっといいんだ。それは私がここ数日でなんとなく学んだことだ。
駅に向かう道、初めてこの街へ来た時と逆向きだ。散歩でも歩いた道だけど、昨日までの散歩とはやっぱり違っている気がした。
「あのさあ、ハナちゃん。結局、悩みなんて見えているものの中で考えるから悩むんだ。悩みはなくならないけどさ、しっかり考えたら、悩みが悩みじゃなくなるってパパは分かったよ。まあ、だいたいだけどさ。分かったのは。」
「うん。私もだいたいなら分かったよ。」
こんな使い方なら『だいたい』も悪くないかもしれない。私の悩みは変わってないけど、少しだけ悩みに強くなったような気がしていた。
「ねえ。その絵、どうするの。」
私はパパが持っている絵のことをちょっと気にした。
「家のどこかに飾るさ。」
「それなら最初のやつの方が良かったよ。」
スーツ姿の二人、見たことのあるような川沿いの道、草の間にできた土の道を歩く後ろ姿。私にはあの世界はまだ分からないんだ。
「そうだな。パパも美沙子さんの所へ渡したのが、今のところ一番好きだな。だけど、あの絵はこの街にあると思った方が気分がいい。」
「ふうん。」
そういえばパパは、ここを理想の街だと言っていた。そんなことを思い出して、この街の風の匂いをしっかりと覚えるように駅の手前でまた深呼吸をした。