さんすう病の悩み
いろんなことに行きづまっていた。生意気な小学生だと大人は思うかもしれないけど、本当にそういう気分なのだ。何かのついでみたいに、誰かを蹴ったり、嘘をついたりする人たち。放課後に見る夕焼けが楽しみで、毎日、それで学校がつまらなかったって気づいてしまう。つまりはそういうことなのだ。
理由はきっともう一つある。それは、さんすう病だ。さんすう病というのは私がこっそりつけた名前で、頭の中で勝手に算数が始まってしまうことだ。昔から理屈っぽいとよくママに言われていたけど、それが最近かなり悪化してきた。
算数で考える時はよく記号にする。『わたしは』の『は』は横ぼう二つで『イコール』と呼ぶものと同じだし、算数でいう『足す』は『合わせる』という意味だ。言葉を数字と同じにして、算数で足したり引いたりすると、意味をちゃんと理解できることに私は気づいた。
例えば、甘いものが食べたいと私が思ったのと、チョコは甘いって私が知っていること。それはつまり、私がチョコを食べたいと思っている、ということだ。チョコを食べ過ぎたら夕ごはんが食べられなくなる、ママは私が夕ごはんを残すのを嫌がる、というのだってそう。つまりはチョコをママの前では食べ過ぎない方がいい。いろいろな公式を当てはめていけば、すっきりと物事が分かるんだけれど、そのおかげで世の中はけっこう複雑だって分かってきた。パパはずるい、パパは悪い人じゃない、だからといって、ずるい人は悪い人ではない、なんて言えない、っていうのは式が難しくなる。
きっとこの世界には、まだ私の知らない隠れた約束ごとがあるはず。じゃんけんみたいに悪い人はずるい人より強いけど、悪い人はパパより弱いだとか。カードゲームのように、パパとずるいの組み合わせは普通だけど、パパと悪い人の組み合わせは特別にポイントアップするとか。とにかく、早く全部の約束ごとを見つけ出さないことには、どうにも落ち着かないのだ。
こういう話をママにすると呆れられるだけなので、しかたなくパパに言ってみた。
「人生は複雑じゃない。だけど簡単に答えを決められないものなんだよ。」
パパはよく中途半端に深いことを言おうとしては失敗する。たぶんそのせいなんだけど、私は自分が理解できないものを信用していない。パパはきちんと答えを出していないのに本人は言った気になっている。だから結局ずるいのだ。
「まあまあ。ハナちゃんの言いたいことはだいたい分かったよ。だいたい正しいんじゃないの。」
パパの返事は気まぐれだ。
「『だいたい』って言葉、ぼんやりさせるだけ。合っているかダメなのかを分からなくさせるもん。それに、そのだいたいってつけるのは、口グセだよ。」
「だいたいとかつけたら、とりあえずはそれらしいだろう。」
「ちゃんと説明して。」
「だいたいしたさ。もう。」
パパはわざと『だいたい』を連呼しているので、私もむきになる。
「だいたい説明したつもり?」
「ハナちゃんって言葉が多過ぎるんじゃないのか。それより、ちょっと違う話をしようか。」
パパは負けそうになったので話題をすりかえてきた。こうした定番のやりかたをパパはいくつか持っている。返事をしたくなくても相手を攻撃したりせずに話題を変える。返事をする時には、視線を合わせて笑顔をつくる。それらをパパは『人生における大事な小ワザ』と呼んでいた。
「パパな、しばらく会社を休もうと思うんだ。付き合ってくれ。」
その話題は私にはかなり突然だった。
「え?」
「だいたいがさ、悩むのにいい所に行こうよ。」
パパのその一言で私の予定は変わる。子供はいつだってそうだ、大人の事情に振り回される。悩むのにいい所ってどこかと私が質問する前に、パパは先回りして、パパの思う答えを言う。
「見えているものと自分の中身が同じになっていく。そういう心の入れ替えができる所さ。」
「ふうん。」
こういう言葉をどうも私は疑ってしまう。
「ようは自分を取り戻しに行くんだ。自分を取り戻したい時、いい空の下で深呼吸する。風船みたいに自分の中が膨らむ。そうすると皮がとれていくみたいに自分が分かる。」
「学校とか会社って、そんな簡単に休めないものでしょ。」
「まあ、固く考えればそうだけど、そうでもないさ。第一、心の問題がいつだって最優先であるべきだ。」
『だいたい』と同じで『第一』も騙されやすい言葉だ。少なくとも私の脳みそには、言い逃げする時に使うものとインプットされている。
「心の問題があると学校を休んでいいの?」
「順番的にはそうなるなあ。」
「それはダメだと思う。」
「それだけパパの悩みが深いということだ。」
「悩みは私の方が深刻なのよ。」
身体の大きさが違うから、子供の悩みの方が深刻なはずだ。それは分母が違うから。学校で習った分数のように、上にある分子に騙されてはいけないということ。パパは気づいてないんだろうか。とにかくも算数は知っておかないと危なくてしようがない。