現の夢-眼を覚ますと――。
――ねぇ、――――おきてよー!!
いきなり聴こえた音と、
唐突な眩しさに眼を開けると、見えてきたのはいつか見た覚えのある景色だった。
柔らかい色と目の付いた木の天井、その横には光を取り込むために開けられた四角の穴と穴を塞ぐ透明な板のようなもの。
(なんだ?この感覚は――こんな景色オレは初めて観たハズだが――――)
自分の状況も確認せずに考え込んだ男は最初に聴こえた音の正体を気にすることも無く、景色に気をとられていた事で男に近づく小さな怪獣の気配など感じるはずも無かった。
ふむ、この状ッ……ガフッ。
天井を見つめていた男の腹部にいきなり重みと痛みが襲う。
「な……何事だ!! 」
辺りを見回した男は、自らの腹部に顔を近づけている見覚えの無い小さな子どもの姿を発見した。
「なんだ……レクリアか。
どうした? 」
男は自らの腹部に顔をすり付けながらとろんとした眼のまま「おかあさんがごはんだって言ってたよ。 」と返した。
男は寝ている状態のまま、
子どもの顔を眺めながら子どもの頭を優しく撫でた後ゆっくりと立ち上がり伸びをする。「さあ、行こうか。お母さんが待ってるぞ。 」
あくびをしながら子どもを促した男は、うとうととしている子どもを抱えながら、部屋を出ていった。
男が出ていった部屋はいつの間にか真っ暗闇に沈み込む。
部屋を出た後、一階に下る階段を慣れたように降りていく男は、いつもと同じ日常であるハズなのに、どうしようもない違和感を拭えないまま進んでいく。
(起きた時に感じた気持ち悪さはなんなのだ……。)
下りの階段を降りきった男は、リビングに並べられていた料理を少しだけ見た後、その先にあるキッチンでフライパンを使っている後ろ姿に声をかけた。
「おはよう、我が愛しの妻よ」
男の声に反応したエプロン姿の女が笑顔で振り向いて。
「あら、おはよう。その呼び方懐かしいわね。 初めて出会った時みたいね。 」
(初めて出会ったのは……。
確か、オレが権利を剥奪された後、墜ちてきた時だった――)
良く知っている女の言葉を聴きながら、胸の内に浮かぶ景色と共に、記憶を探っていた男は。過去を思い返そうとする度にピリピリと身体が痛くなることに気が付いた。
ピリピリとしていた感覚を払い除けるように記憶の奥へ進もうとすると段々と痛みを帯びてくるような気がした。
(何故、オレが墜ちてきた事より後が思い出せない……。)
もどかしさが、飲み込まれるように不安に変わり胸の内を満たそうとする。
男は込み上げる焦りを隠さないまま、ふと眼に入った料理――ビーフシチューを見て口を開いた。
「なあ、キミは、いつの間にこんなに美味しそうな料理を作れるようになったのか――? 」男が問う。
胸の中も頭の中も砂嵐が鳴っているかのように気持ちが悪い。
「なに言ってるのよ?一番始めに貴方に料理を作った時から貴方は美味しいおいしいって言ってくれてたでしょう? 」
妻の口から出た言葉を聞いた瞬間、砂嵐が止んで気が付いた。
嗚呼、そうか。
「ああ、そうだったな。
キミは、一生懸命だった。 」
ええもちろんよと、愛しの妻が言う。
「けれど――――。 」
男は愛しの妻の眼を真剣に見つめて。
「キミは料理が下手だった。」
「とても料理が下手で」
「いつも手をキズだらけにさせながら笑顔で料理を作っていた。」
男は愛しの妻の、彼女の眼を見るのをやめて下を向いた。
先ほどまで観ていたモノは既に真っ暗闇の中に沈んでいる。
全く――気付かなければよかった。
オレは、我は、もう暗闇の中に居たのだったな。
即ち、これは訪れる事の無い幻。
我を愛してくれていた彼女が息絶える事の無かった、一つの夢。
「嗚呼、負けたよ道化。いや……既に終わっていたのか。」
だが……最期に悪夢ではなく、幸せな時を感じられたのはよかった、なあ。
彼女に、生涯愛した女には、子ども等産まれては居ないし、既に死んでいたのだから。
柔らかい表情のまま眼を閉じる。
男の身体は黄金の砂つぶと化して行く。
やがて砂つぶは一冊の本の頁へと吸い込まれて行った。
シンとした空気の中、
残ったのはパタンと音をたてて閉じた本と、
今まで男を静かに眺めていた銀色の道化だけだった。
「神殺しよ、またいつか――」
心なしか、そう呟いた道化の顔は悲しみに濡れている。