説明×保健室
細い指先から滲み出た炎がケトルの底に灯される。
木製のテーブルに、直に置かれたそれ。
それなのに、炎は木材を焼くことなく、ゆらゆらとケトルの下で揺らめいている。
言葉が出ない。
そのうちに、しゅんしゅんと音を立て始めた湯を、サーシャはうやうやしく陶器のティーポットへと注いだ。
ふわりと、茶葉が浮き上がるのを確認して、彼女はポットの蓋を閉じる。
こん、と砂時計をひっくり返してから、サーシャはフドウの向かいに並べられた椅子に腰掛けた。
そして覚悟を決めたように、き、とフドウを見据え。
「どうぞ」
どうぞと言われても、どうだろうと言うのがフドウの本心である。
「質問OK」の意味での「どうぞ」であるとは分かっても、事態が理解の範囲を超え過ぎていて脳の容量が足りないと言うのが正直な所だった。
何せとっかかりの、『寄生型の魔物』すら、古い文献からの聞きかじっただけの知識で相対したのだ。
言葉につかえて、フドウは周囲に目を泳がせる。
整えられたベッドに、何処か自信に満ち満ちた風に見える人体模型、それに、金と黒の二人の男が目についた。
特科棟の屋上から所変わって、此処は幾つかの本校舎棟の中心に位置する保健室である。
この事も、フドウの頭の容量不足に拍車を掛ける要因だ。
ーーあの後、動きの止まったあの場にいち早く乱入して来たのは、フドウのよく見知った顔だった。
保健医の、ヨルム・オルム。
一年ほど前、丁度フドウの入学と同時にこの学校に赴任して来た男である。
清潔感のある短い黒髪に丸眼鏡を掛け、白衣を身につけたいかにも平々凡々な『保健医』然としたこの教員は、空間を裂くようにして皆の前に姿を現した。
その時ようやっと、フドウは『戦闘科』の性質上、しょっちゅうこしらえる怪我の治療をしてくれていたこの男が人外である事を悟った訳だが。
「……じゃあ、最初っからお願いします。せんせー」
人外だと分かった所で、それがどうした、と言うのがフドウの出した結論だった。
引き出しの中に隠してあったヒヨコ型のサブレを盗み食いしても、悲しみこそすれ怒りはしなかった『せんせー』だ。
「おや」
そう声を上げ、ヨルムはちらとサーシャに目配せした。
「お嬢が意気込んでるように見受けられますが」
「せんせーなら俺の頭と知識の程度に合わせてくれるだろうから、そっちのが早いです」
「ん、道理ですね」
そして彼は、組んでいた腕を解き、自身が立つ横に置かれた椅子に腰掛けた『おとうさま』に目をやった。
「何処まで話したものでしょうか、兄さん」
その問いに、腹側に置いた背もたれにもたれかかったまま、『おとうさま』はふうと氷混じりの息を吐いた。
「変に誤魔化さずに全部言っちゃえば?」
「この子にですか? 人間社会では、特定の上層部しか知らせて無い情報でしょう?」
「言いふらす素振りを見せたらちょっと脳みそをかき混ぜてあげればいいだけだし。治安維持の為って言えば『機関』も黙るさ」
何か怖いこと言われてる。
そう、フドウは思いはしたが、今更後には引けなかった。
ややあって、ヨルムが机の前の壁に掛けられていた小さなホワイトボードを外す。
カチ、とノック式の油性ペンの芯を出し、ヨルムはそこに一つの円を先ず描きつけた。
「この世界には元々、あらゆるものを司りそれを掌握しうる力を持った存在がありました。特に人間世界への影響は強く、『一般的な』魔法はコレの意に沿った運用しか不可能でした。この存在を、とりあえず便宜的にクソ野郎とします」
ホワイトボードに棒人間と、円からの影響を表すのであろう波打った矢印が書き足されていく。
……達者な字で『最低』『雑』と注釈が入れられた円はまあ、所謂『神』の事であろう。
変に仰々しい褒め言葉の羅列よりは耳に入りやすいかなとフドウが思っているうちに、ヨルムはその『神』を表す円に力強くバツ印を書き付けた。
「コレが、17年前死んだわけですよ。ここまでいいですか?」
「……『神』がいたこと自体から都市伝説かと思ってました」
「事実です。でなきゃ、魔法科学には説明がつきませんよ、で」
ここで新たに、ヨルムは円に向かって矢印を放つ六芒星を書き加えた。
「この、クソ野郎を始末してくださったのが、我らが『魔王』なわけです」
ようやく出た、無性に気になっている単語に、フドウはオウム返しに言葉を返した。
「魔王」
「魔王です。端的に言うと、クソ野郎が飽きて捨てたものを全て拾って懐に入れて下さる、大変慈悲深いお方です。人間社会では、俗に言う黒魔術系統の魔王があの方の管轄下にありましたね。使用制限がもともと無しだったので実感は無いでしょうが」
六芒星の周囲にきらきらしくいくつも星を描くヨルム。
しかしその手が、不意に止まった。
「……しかし、魔王さまもその17年前の折に多大に力をお使いになり、大変弱られた時期がありました。それこそ、存在を保つだけで精一杯だったという話です」
が、と。
そこで『おとうさま』が居心地悪そうに床を蹴る。
その音に一瞬語り口を止め、やや思案の間をおいてからヨルムは言葉を続けた。
「……しかしそこで終わりでは無いのが魔王さまの流石なところです。そこにいるお嬢は、弱った魔王さまを元に再構成された、所謂生まれ変わりなんですよ」
そこで思わず、が、と派手に椅子の音を立ててフドウはサーシャに向き直った。
いつの間にか立って蒸らし終わった紅茶を淹れていたサーシャが、慌てて視線に向かってぶんぶんと手を振る。
「あ、えっと。前の事で覚えてることは何も無いのよ? この身体の成長は人間のそれと全く同じで、長い間みんなのお世話になったくらいだし」
「……」
無言で、フドウはヨルムに向き直った。
言葉が出ない。
マジかよ。
嘘だろ?
そんな、軽い言葉も憚られた。
顔色でその思考を悟ったのか、ヨルムは話を進めた。
「まあ、別人ですよ。言いましたけど再構成されてますから。保有してる魔力構成も結構違いますし、何より記憶が無いです。とは言っても、魔力の質量共にこの世界随一です。『魔王』を名乗るのに、どこからも文句が出ませんでしたから」
「……え、と、じゃあ」
さっき、シスターにとりついて襲って来たのは何だったのか。
ようやく形を成し口にできたフドウの疑問に、ヨルムは手を打って「ああ、あれ」と返した。
「クソ野郎の配下ですよ。クソ野郎は死にましたが、奴らの勢力自体は残存しています。これが、ちょっと厄介でーー」
その時だった。
きき、と耳に障る不快な音が部屋の空気を揺らし、次の瞬間外に面した窓ガラスが砕ける。
驚き、フドウがそちらに目を向けた時には、動けるものは皆、動いた後だった。
風になびく、豪奢な巻き毛の金髪。
白銀の鎧と、純白の大翼は幼い頃に見た宗教画そのままで。
喉元に、一足飛びに間合いを詰めた『おとうさま』の右手手刀。
さらに頸動脈に、天井に張り付いたヨルムの構えた注射器を突き付けられたその美丈夫は、それでも穏やかに微笑んで第一声を発した。
「歓迎有難う。此度魔王さまがアッシャーくんだりまでお出ましになったと聞き、是非、お目に掛かりたいと馳せ参じた」
ぐる、と。
獣の威嚇の唸り声が『おとうさま』の喉から漏れた。
「いけしゃあしゃあと」
それでも、続く声は険しさこそあったものの、人のそれだ。
その言葉に、硝子玉のような青の瞳を丸くし、乱入者は応える。
「ん、そう言えば上に部下の残骸があったな。連絡が遅れたようだ。悪いことをした」
「報連相がなってないんじゃないの? おたく。天下の天使長様が聞いて呆れるね」
「憎たらしい口をきくようになったものだ。以前は、あんなにも素直だったというのにーー」
『天使長』。
そう呼ばれた乱入者が言い終わるが早いか、『おとうさま』が腕を振り抜いた。
ガラスとアルミの窓枠が吹き飛び、構えを取りはしていたがあまり暴れる意思はなかったらしいヨルムが「あああ上司にどう言えば……」と妙に現実的な声を上げる。
『天使長』の立ち位置は変わらない。
攻撃をすり抜け、微動だにもしない様子に、『おとうさま』が舌打ちした。
「……その具現化具合だと、喧嘩しに来たわけじゃ無いようだけど」
「だから言ったろう、お目に掛かりたいだけだと。ああ、あと一つ、是非君に言っておきたいこともあったな」
歌うように言って、『天使長』は窓枠からふわりと音もなく飛び降りた。
翼を広げ、頭を下げて、自身より低い位置にある『おとうさま』の顔を覗きこむ。
「よくぞ魔物が人間を抱き込んだものだ。今や、人間の武力は神魔に迫る第三勢力となり得る。確かにあの条件では、神魔両陣営、アッシャーで派手な破壊活動は出来ない」
人形のようなその表情に、フドウはぶると背筋を震わせた。
怖い。
反射的にそう思うと、ぐいと頭を誰かに抱き込まれた。
あやされるように頭を撫でられる。
フドウの耳朶に、いかにも不本意と言った風の『おとうさま』の声が届く。
「お褒めに預かりどうも」
「……ふふ、まあ今日はそれだけだ。……『魔王さま』、我々天使は、貴女が『神』として力をふるう為には労を惜しみませんよ」
ぎゅう、と。
フドウを抱く腕に力が込められた。
すう、と、息を深く吸う音が間近に聞こえる。
可憐な、しかし凛とした意思と覇気を感じる声が、『天使長』の挙動に煽られたフドウの恐怖を、一瞬にして払った。
「私は、魔王です」
すとん、と。
その言葉はフドウの中に落ちてきた。
何を聞いてもわけが分からなかった。
ついていけなかった。
それが、ただの一言で。
弾かれたように、『天使長』が笑う。
「今はね」
最後の最後まで『おとうさま』を不機嫌にさせフドウに恐怖を刷り込んで、『天使長』の姿はふいと掻き消えた。
ブクマどうもありがとうございます。
すごく励みになります。