温羅ノ一
京士郎が木刀を片手に朝の鍛錬から戻ると、一人の女が寺で精山の前に居た。まったく見知らぬ人間であるが、その気配は嫌なものではなかった。
女はまだ少女と言って良い年齢で、顔は里の人間とは違う、上品さを感じた。見てみれば衣服も上等な品だとわかる。
しばらく呆然としていた少女だが、息を吐くとすっと背筋を伸ばす。良い表情をすると京士郎は思った。
「失礼しました。京から参りました志乃と申します。以後、お見知りおきを」
恭しく志乃と名乗った少女は頭を下げた。京士郎はそれを見て、きちんと教育を受けた貴族か、あるいは寺院で育てられた者だと理解する。それだけの教養を……自分が精山から受けた教育と同じものを感じたからだ。
精山の様子を見る。顔は笑っているが、あれはあまり機嫌が良い顔ではない。志乃が粗相をしたとは思えないため、その理由はすぐに思い当たった。
精山がかつて名立たる剣士であったことは、京士郎も知っている。そして彼が自分のその過去を恨み、もう二度と剣を振るうことはないと誓っていることも。志乃が精山に「再び剣を取れ」に近いことを言っただろうことは想像に難くなかった。
「……京士郎、客人を部屋へお連れしなさい」
「話しはいいのか?」
「ちょうど終わったところだよ」
本当かと志乃に目を向ける。志乃は目を閉じている。交渉は決裂したのだと京士郎は確信した。それは京士郎にとってわかりきったことだった。精山が何かの要求に頷くわけがない。
「掃除はしてあります。ついて来てください」
そう言って、京士郎は志乃を促した。志乃は渋々と頷いて立ち上がる。
京士郎が廊下を歩く後ろを志乃がついてくる。大人しくはしているが、悔しさで一杯なのだろう、わずかな怒気を感じた。
目指しているのは寺の裏手にある方丈と呼ばれる住居区の客間だ。小さな寺ではあるが、客が来ない事もない。きちんと綺麗にしておけと、精山の言いつけで京士郎は毎朝掃除をしていた。
「こちらが客間です」
部屋へと案内すると、志乃はこくりと頷いた。
日も傾いてきていて、そろそろ夕食の準備をしなければならないだろう。京士郎は志乃に向き直る。
「夕食の支度をしなければいけませんので、これにて。何か用事があれば申し付けてください。読みたい書があれば、お持ちします」
「いえ、お構いなく」
小さな寺とは言え、随神道に関する書は一通り揃えてある。それに興味を示してくれればとも思ったが、志乃はそれを断った。
その代わりに、志乃は質問をぶつける。
「精山様とは、どのような?」
その問いの意味を把握しかねて、京士郎は少し黙ってしまったが、すぐに答える。
「……師弟、というのがしっくり来ますが、俺は随神道に傾倒しているわけではありません。習っているのは生きる術です」
「なら、教えていただけませんか。どうして精山様は、応じてくださらなかったのか。いま、人の世は黄泉からの軍勢に侵されている。にも関わらず力を持つ人間である彼は、手を貸してくださらないと、そう言いました」
志乃の言葉を聞いて、京士郎は志乃と精山のそれぞれの考えを、ある程度まで理解した。
精山に代わって答えることにわずかな抵抗を感じたが、自分が言わなければわからないだろうし、精山も語るつもりはないはずだ。
「世を捨てる、神に随って生きるようになるとは、そういうことです。貴女は誰と話していたのですか? 私の師ですか? それとも剣豪ですか?」
「……私だって随神道に生きる者よ!」
そう言った志乃を、京士郎は冷静に眺めた。
「しかし、それは果たしていつからでしょうか。生まれたとき、物心がついたときでしょうか。かつての生を、彼は捨てました。それがどういうことか、わかってない」
つい語気を荒げる。それはお互い様だろうと京士郎は自分を正当化した。
お互いにしばらく睨み合う。これが志乃の本性だと京士郎は思った。
強い。
それは戦う術ではなく、意志の強さだ。
志乃の言っていることは間違いではない。危機が迫っているならば、どうにかしてそれを避けようとするだろう。少なくとも、力を持っている自負があるならば、より最善を尽くそうとする。多くの人を救おうとするはずだ。
そして志乃はその自負がある人間であり、かつて牧野道哉もまた力を持っている者であった。
だが牧野道哉はもういない。牧野道哉は死に、志乃が話した相手は精山なのだ。だから志乃は間違っている。その心ではなく、話す相手が見えていないのだ。いくらその想いが正しくとも、語る相手を間違えれば、それはちっぽけなものになってしまう。
京士郎はそう志乃を断じた。決して貶すわけではない。むしろ、その心は買っている。
志乃はまだ納得していないようで、その瞳に宿る気はまるで弱っていない。
「では、なぜ貴方は剣を持っているのですか?」
京士郎が手に持っている木刀を見ながら志乃は言った。京士郎は迷う事なく答える。
「道哉が生きていた証です。優れた剣術家が己の生を刻み付けた。彼は浅ましいことだと言ってましたが」
精山の苦笑いが脳裏に浮かぶ。かつての自分を恥じる様子はなく、むしろ誇っているようにも見えたが、どこか悲しそうであった。
京士郎はかつての道哉が持っている業のほとんどすべてを持っている。一つ一つの完成度も、真に迫っている。剣は一通り習っていた。京士郎にとって、それらの業はすべて誇りだった。
これ以上話すことはないと、京士郎は話題を切り上げた。
「また、食事時にお呼びします。それまで……」
そこまで言って、京士郎はふと東の方を見た。そこに何かが来た。自分の知覚できる領域に、何か不快なものが踏み入ったと直感で感じたのだ。
それが何なのかわからなかった。だが途方もなく気持ち悪いという感覚だけは明白だった。
京士郎は無意識のうちに走り出した。志乃が声をかけてきたが、それは無視した。
この感覚に、京士郎は覚えがなかった。。いや、いままでに奇妙な感覚を感じたことはある。だが、今回のような不愉快な感覚は初めてだった。
京士郎が走って向かったのは蔵だ。求めたのは一本の刀。かつて道哉が使い、今はもう振るわれなくなったものだ。
これが必要な気がした。わずかに抜き、その輝きが手入れされていないにも関わらず健在であることに驚きながらも、まだ使えるものであることを確かめた。
――借りるぞ。
そう心の中で言って外に出る。塀の上に飛び上がり東の方を見た。不快感が増す。そこに何かがいるのは疑いようがなくなっていた。
向こうにあるのは人家の連なり、そして森が続き、その先には赤紗の国。
そこにいるのが何かなど、もはや聞くまでもなかった。
「急ぐか」
そう言って、京士郎は塀を蹴り上げ、山の麓へと飛び降りた。
ここから気配のする場所まで、全力で走ればそこまで時間はかからないだろう。
木々が横を過ぎていき、着地するのと同時にまた走り出す。家や畑は跳んで避けていく。嫌な感覚はますます強くなる。
そしてたどり着いた先に、大きな影が三つ見えた。
初めて見る、その姿。話のみを聞いていただけだが、ただ見ただけでそれが何者かを理解する。知識などなくとも、人ならばそれが敵だとわかるだろう。
人家を崩そうと棍棒を振り下ろしているそれらから距離を少しとって着地する。巻き上がる砂煙と、地面を擦る音に気づいたそれらが一斉に京士郎を見た。
「……鬼か」
「カカッ、生意気そうな小僧だな、おい」
敵意を向ける京士郎に、鬼たちは蔑むような視線を向けた。