序章ノ終
赤紗の国へ侵略した鬼の行動はそこで止まった。彼らの目的は未だわからないままだった。しかし依然として鬼は赤紗の国に居座っており、余談を許さない状況が続いた。
それから十数年が経った。侵攻が止まったのは赤紗の国の鬼だけであった。未だ東方から鬼は迫ってきており、その進度は遅いものの、京に近づいていた。
しかしそれは民草には関係のないことで、すぐそこに脅威が迫っているにも関わらず、それを忘れたかのように、赤紗の国の隣にある緑加の国の者たちは田畑を耕していた。季節は春になっていた。気候も過ごしやすいもので、田畑を整える絶好の時期だった。
志乃という少女は、その様子を見て呑気さに呆れると同時に、忘れてしまっていた平和な景色に心を和ませた。志乃が旅立ったときの京の都は鬼の侵攻に加えて、新しい帝が即位したことで慌ただしくなっており、このような穏やかな光景はまったくと言っていいほどなかった。
短く切りそろえた髪が風に揺れるのが気持ちよく、木々が奏でる音が心地よかった。見れば、田畑を耕している者の顔にも笑顔が浮かんでいた。それはとても美しいものであり、何物にも代えがたいものだと志乃は思った。手に持っている錫杖の先についている鈴がりんと鳴って、それがまた風情だ。
田畑を耕しているうちの一人の男が、志乃に気づいた。ここらの人間でないことがすぐにわかったのだろうか、愛想の良い笑顔を浮かべると、ゆっくりした足取りで近づいてきた。
「ここらじゃ見ねえ顔だな、どこから来た?」
「京からやってきました」
おお、と目を開いて男は驚いた。そこまでのことかと、志乃はこの男の感覚を理解することができなかった。
「領主様でさえ見た事もねえが、まさか京から来たもんを拝むことになるなんてな。道理で上等な服を着てるわけだな。こんな何にもねえ村に何しに来たんだ?」
「ここにある円双寺に伺おうかと。よければ道を教えてくださいませんか?」
志乃がそう言うと、男の表情が曇った。
「そいつはいいが……やめといた方がいいぞ」
「え?」
「あの寺の住職であられる精山様は徳の高い方だが、あそこにいる……」
男は言葉を濁した。志乃はわけがわからず首を捻ると、ようやく男は続けた。
「あそこで十年前から精山様が育ててる子供が一人いるんだが、そいつは物の怪に憑かれてるってもっぱらの噂だ」
物の怪、と聞いて志乃は少し眉を釣り上げた。その話は気になるどころではない。この農夫に徳が高いと言わしめている精山が育てている者が、物の怪に取り憑かれているとは一体どういうことなのか。
「一体、その物の怪に憑かれているという者はどんな者なのですか?」
「とても人とは思えねえことばかりするもんで。滝は一飛びするし、狼や猪を相手にしても一歩も引かんどころか素手で捕まえよる。物の怪があまりに強大で、精山様が何とか封じ込めてようやく落ち着いていると言うほどだから、ここらへんの者は近づかんよ」
それを聞いて志乃は、確かに物の怪に憑かれていると言われるのも納得だと思った。むしろ、精山の使い魔であると言われた方が納得してしまいそうだ。しかし十数年前から育てているということは、その者は人間……少なくとも生き物ではあるはずだ。志乃の興味はそちらにも引かれていた。
「とりあえず、円双寺に伺おうと思います」
「そうか、まあゆっくりしていきなさい。円双寺はこの道をまっすぐ言って、最初の分かれ道を右に曲がると石段があって、その上だ。左に行くと里の中心の方に出る」
志乃は男の言葉と指をさしている方向を覚えて、頷く。迷うことはなさそうだ。
「ありがとうございました。では」
会釈をして、志乃は踵を返した。
男に言われた通りに道なりに進んでいくと、右手の薄暗い林の中に石段が見えた。これは知らなければわからないなと思い、さっきの農夫に心の中で感謝した。
森は中心が少し高くなっているようで、石段はそれほど長くはないが、その上に円双寺はあるようだった。
あまり上手く作られていない石段に苦戦しながらも志乃は上った。着いたのは小さな寺だ。小さいが寂れてはおらず、掃除が行き届いているようだった。
中から祈祷の文句が聞こえる。その声はとても洗練されているもので、恐らくは精山のものだろう。先ほどの農夫が徳が高いと言うのも納得できるほどに、志乃も称賛できるほどのものである。長い間修行をしてきたのだと伺わせる。
少し近づくと、僧侶の背中が見えた。それと同時に文句は止まり、その僧侶が身体ごとこちらに振り向いた。その僧侶は、志乃の姿を見るとわずかに目を見開いたが、すぐに嫌みのない笑みを浮かべた。
「これはこれは。こんな場所までいらっしゃるとは、一体どこのどなたかな?」
志乃は僧侶に頭を下げ、名乗った。
「お初にお目にかかります。私は志乃と申します。貴方は円双寺の住職、精山様で間違いありませんか?」
「いかにも、私が精山です。志乃様、立ち話もなんですから、どうぞこちらへ」
精山の勧めに従って、志乃は寺に上がった。木の匂いがする寺は中も綺麗であり、中央にある神像もまたこぢんまりとしているが、それがむしろその存在を際立たせていた。不思議と、落ち着く空間だと志乃は感じた。
余分に敷かれている座布団に正座し、志乃は精山と向かい合った。志乃が一礼すると、精山もそれに応えた。
「遥々、よく来られた。見たところ京の者かな?」
「はい。訳あって身分を明かすことのできない無礼をお許しください」
「何、目を見れば貴女が悪い者でないことはわかります」
ハハハと笑う精山に、志乃は思わず頬を緩める。精山の笑い声は、不思議と志乃を落ち着かせた。彼の雰囲気がそうさせているのだろうか。得難い資質だと思った。
「道中、何か変わったことはありましたか?」
「赤紗の国を避けて通らなければならなかったため、かなり遠回りしなければなりませんでした。思っていたよりもずっと時間がかかりました。これでは流通も困難でしょう……」
「すでに十七年が経ちますが、元から遠くであった京がさらに遠くなりましたから、相応の苦労もあるとはお聞きしました。いやはや、向こうから来られたのは大変なことだったと思います」
京には緑加の国の物が流れることはほとんどなくなった。地方では中央からの監視の目が行き届かないために治安が悪化するし、京では食料や衣服が不足しそうになったりしている。そうした鬼による武力を伴わない危機が迫っている。
改めて、志乃は顔を引き締める。今日ここに来たのは談笑をするためではない。
「精山様、本日はお願いがあって参りました」
志乃の言葉に精山は笑みを崩さない。しかしその目は細められ、僅かな気を感じた。志乃はまるで、何もかも見透かされているのではないかとすら思った。自分が隠している身分でさえもだ。
もしかすると、初めからここに来るのをわかっていた? そう思っても仕方ないほどに、精山の目は強かった。
「かつて名を馳せた剣豪、牧原道哉様が随神道へ身を捧げたのは存じております。その理由はわかりません。しかしいま、鬼の脅威が迫っています。そこで……」
「申し訳ありません、それはできません」
精山は優しい口調で言った。笑顔は変わらないはずなのに、そこにある感情はまるきり変わっており、彼の周りの空気を張りつめさせていた。
剣豪、牧原道哉。かつて那珂津国西方で最も強いと恐れられた剣士である。どのような理由か十数年前に行方をくらまし、出家したという噂があった。それは真実で、今は精山と名乗っている。
その回答は志乃の予想していた通りでもあった。しかしこれほどの怒気を前に、志乃は冷や汗を隠せなかった。
「しかし!」
「鬼の脅威が迫っているのはずっとそうであったはずです。人と鬼は常に争い、隣り合って生きてきました。それが、自分たち……京に迫られてから助けを求めるのは、我が儘でしょう」
「……京が奪われれば、この世は終わります」
志乃は思わず声を荒げた。だが精山は動かない。驚くことも怯むこともなく、ただ口を動かした。その姿に志乃は、精山が悪ではないにも関わらず、恐怖を覚えた。
「京より先に、失われた命もあります。自分たちに危機が迫ってから動くのは、都合が良すぎるとは思いませんか?」
精山の言葉を志乃も理解していないわけではない。京からでは地方まで見渡すことはできない。だから地方の危機に疎いし、自分たちにその危機が迫るまで動こうとすらしなかった。
だが、志乃がここにいる理由は違う。もちろん京を、この世を鬼の手から救いたいという気持ちもあるのは事実だ。それ以上に、京を鬼に奪われてはいけない理由がある。
「私がここに来たのは朝廷の決定からではありません。私自身の意思です」
志乃は静かに、しかし確かな力を入れて言葉を吐き出した。曇りない意思を示す。それが精山に届くように。この強い言葉が、彼を動かすように。
「どうか、どうかこの世を救う手伝いをしてください」
志乃は頭を下げる。精山は黙った。しかし、彼の意思が変わったようには見えなかった。彼を出家させた理由は、もう彼に刀を持たせることのできないほどに深いものなのか。それともここにいなければならない理由があるのか。志乃にはわからなかった。
「どうした、何かあったのか」
そのときだった。声が聞こえた。先ほどの精山の祈祷の声音も美しいと感じたが、志乃はその声の方がより綺麗に聞こえた。よく通るが、まったく不快ではない声。
振り向けば、一人の男がいた。
志乃は驚きが隠せない。顔はこれ以上ないほどに整っていて、輝いているようにも思えた。田舎で暮らしている者とは思えないほど凛としていて、貴族でもここまで美しい顔立ちをした者はいないだろうと思わせる美丈夫だった。
身長も高く、身体は筋肉質。瞳は黒くはあるが赤みが差していて、蠱惑的だった。
雰囲気も不思議なものを感じた。近づきたいのに触れることが許されないような、そんな感覚さえも覚えた。
そしてこの男こそが、農夫が言った”物の怪に憑かれた者”なのだとすぐにわかった。しかし志乃が見ている男はまったく恐ろしくは見えなかった。
「あ、なたは……」
息をするのも忘れてしまいそうだった。何とか絞り出した言葉は問いかけだった。男は見慣れない客である志乃を見て、目を細めるが、すぐに名乗った。
「京士郎、俺の名前は京士郎だ」
志乃は、この男との出会いが自分の生を大きく揺るがすことを、直感であるけれども感じ取った。