序章ノ四
それからまた数ヶ月の時が経つ。
あれからもう、三輪が小桃の元に訪れることはなかった。夜になっても簾の向こうに誰かが現れることもない。小桃もまた、彼を待つことをやめた。
そんな小桃はいま、本来いる屋敷にはいない。屋敷のさらに奥にある別の建物のいる。則秀に命じられてここにおり、事実上の謹慎であった。
けれども、小桃はそれに不満は抱いていない。むしろ当然のことであると思っている。
自分が周りからどう思われているのか、小桃にはわからない。けれども悪い噂がないように配慮していると侍女の一人が言っていた。
曰く「則秀の娘小桃は病のため別館にて安静にしている」ということになっているらしい。あながち間違いではない。けれども、病ではないのだ。
「……ふふっ」
小桃は自分の膨らんだ腹を擦って、少しだけ笑った。
ここには、自分と三輪の血を分け合った子どもが宿っている。それを父は外に知られたくないから離れに閉じ込めているのだろう。
この命が日の目を見るときが小桃には待ち遠しくて仕方ない。
きっとこの子どもは取り上げられることになるだろう。けれども、生かしてはくれると父は約束をしてくれた。それだけで小桃は満足である。
自分と三輪を繋いでくれるのはこの子だけである。それがこの世に一個の命として根付いてくれるのならば、それに勝る喜びはないだろう。
願わくば、この子の行く末も見守りたいものであるが、それは自分には過ぎた願いだろう。小桃はそう自分に言い聞かせている。
「姫様」
「あら、どうしました?」
侍女が一人、襖を開けて入ってくる。いつも世話になっている侍女で、こうして謹慎中もよく仕えていた。
「お体はいかがですか?」
「何も問題はありません。……この子が元気に生まれてくるのを祈るばかりです」
「……そうですね」
それだけ言うと侍女はしばらく口を閉ざす。小桃はそれが気にかかった。
「何か言いたいことがあるなら言いなさい」
「は……いえ。姫様はそれでよろしいのですか?」
侍女の言いたいことはわかるが、小桃はそのまま言わせた。
「子も奪われ、愛してもいない男の元に嫁ぐというのは、辛くないのですか?」
「辛いです」
はっきりと、小桃は言った。その瞳に以前の揺らぎはなく、決意が炎となって宿っていた。
「しかし、それを願うのは私には過ぎたことですよ。私は愛すべき者の子を生み、その後は橘の娘としての役目を果たします。この私を、蔑むことはあれど、どうして哀れむのでしょうか」
「姫様……」
侍女の瞳には涙が浮かんでいた。小桃には彼女の気持ちもわからなくはない。
だが泣かれるのは、自分にとって罰にも等しい。自分は結ばれないと知りながらも恋をした愚かな女なのだから。
──その愚かさも愛おしい。
そう言ってくれた男にはもう会えない。けれどもその言葉は自分の胸に宿っていた。
嘘をつけないのも、小さな失敗も、すぐに不貞腐れるのも。
それさえも小桃なのだと言ってくれた彼の姿は、瞳が潤んでしまっても、はっきりと見ることができた。
* * *
その時だった。ふと空に暗雲がかかる。日の光は遮られ、屋敷の中のみならず、深い闇を落とした。
「……妙ですね」
まだ昼を過ぎた頃だろうか。それにしてもおかしい。雲がかかったからと言ってここまで暗くなるのはおかしい。暗雲がかかったからと言って雨が降るわけでもなかった。むしろ、乾いた風も感じる。
「今日は雲がかかるとは伺ってませんが……」
「……嫌な予感がします」
小桃がそう言うのとほぼ同時に、一人の男が現れる。則秀に仕える侍の一人だった。
「失礼します! 北東より鬼の軍勢が近づいております! 敵の戦力は圧倒的です!」
「なっ……!?」
小桃も侍女も絶句した。
遥か東方に住まうと言われている鬼。様々な姿を持っているというが、往々にして醜い姿をしており、暴虐の限りを尽くすのだと言う。そして土地は穢されていく。鬼の侵攻により人の住めなくなった土地も多くある。
「姫様、いますぐ西へお逃げになってください! 直にこちらにも奴らが来ます!」
「そんな……お父様は!? どこにいるの!?」
「姫様、お腹の御子に障ります!」
小桃は言葉を荒げて侍に言ったが、侍女に止められる。
落ち着こうと意識するものの、気が気ではない。自分の子と父、どちらも大切なのだから。
「……姫様、この先の川に船を用意しております。下流へと向かえば先は緑加の国です。助けを求めることは叶わずとも、姫様を匿うことはしてくれましょう」
「……わかりました」
渋々であるが、小桃は頷いた。頷かざるを得なかった。逡巡があったが、それさえも振り払わなければならない。
ここにいても足手まといになるだけだ。それに、鬼に無様に殺されるくらいなら、逃げ延びるべきであるだろう。
「……三輪様」
誰にも聞こえないようにそう一言だけ呟く。聞こえたとしてもまったく意味のない呟き。だがその名を呟いただけで、力が湧いてくるようであった。
「さあ、姫様、こちらです」
侍女が差し出した手をとる。小桃は自分の腹を気遣いながらも立ち上がった。
手を引かれて、歩いている道は小桃も知らない道だ。離れと屋敷を繋ぐ道とは正反対に伸びている。恐らくは川へと下るために作られた道なのだろう。
「お父様は……どうされているのですか?」
「前線にて指揮を執っております。期を見て撤退するとのこと」
小桃の問いに侍が答える。その答えは信用できなかった。責任感の強い父のことだ、その身に戦う術がなかったとしても逃げずに最後まで残っているだろう。
小桃がいますべきことは自分と子を守ること。だからこの山中を懸命に走った。すでに時期は秋も過ぎていて肌寒く、地面には黒くなった落ち葉が多くあった。それらを踏み鳴らす音が響く。
腹が痛む。確かに存在する命が無茶をするなと言う。しかし小桃は必死に言い聞かせた。あなたのためだから。あなたが大切だから無茶をするのだと。
気づけば自分も母なのだと、こんな状況であるが笑ってしまう。
「見つけたぞ」
一言、ただ一言で戦慄を覚えた。腹の底に響くような、そんな感覚。
その声の主が何者であるのか、言われなくてもわかってしまう。恐怖が形になって現れた存在。今、最も出会ってはいけないもの。
一同はすぐに、感覚としてはゆっくりと後ろを振り返った。
そこにいたのは、筋骨があまりにも大きく釣り合いのなっていない大男だ。聞いた話とは違い、顔はひどく整っている。生えている角は大きく湾曲して下を向いていた。その手には、刃が大きすぎて斧のようにも見える剣を握っていた。
「──鬼」
誰が言ったかはわからないが、それは正しいものであるとわかる。
「はいやぁああああッ!」
かけ声を上げて、侍が斬り掛かった。見事な抜刀であるが、腰が引けているのは素人目にもわかる。
「くだらん」
ただの一振り。にも関わらず、殺意の乗ったそれは風が吹き荒れるほどのもので、小桃は思わず尻餅をついた。
飛び散る鮮血に、斬り掛かった侍の命が絶えたことを知る。小桃はもはや絶叫すら上げられなかった。
「姫様、後ろに!」
侍女が前に立つ。その背中はいつもよりずっと心細かった。
彼女がいるからと言ってどうにかなるものではない。そんなことはわかりきっている。ここで二人揃って潰されるのが目に見えていた。
「お前がそうか。その腹の子、そいつを生かすわけにはいかない」
「なっ……!?」
小桃は自分が狙われていると察した。鬼が攻めてきた理由は自分にあるのだと。
ならば、いまこの瞬間に息絶えている者たちは、自分のために亡くなったと言うのだろうか。
自分さえいなければ、救われたのだろうか。父も侍たちも、里の者たちも。自分のために死んだと言うのだろうか。
愚かにも突き通してしまった、恋のために。
「姫様! 逃げて!」
侍女の叫びも、虚しく響いた。小桃は冷や汗を流し、呼吸することもままならなかった。
「ふん、女は殺すつもりはなかったが、致し方ない。腹の子を殺すとはそういうことだ」
鬼はそう言うと剣を大きく振り上げた。目を閉じることもなく、それを見ていた。
ここで死ぬ。仕方ないだろう。自分はここで沙汰を受ける宿命なのだ。
そのときであった。白い影が躍り出る。大きく波打つそれは蛇だった。その巨体を鬼と小桃の間に滑らせ、牽制する。
「貴様……蛇風情が、我の邪魔をするかぁっ!」
鬼が剣を振り下ろすより先に、蛇はその腕に噛み付いた。鬼は悲鳴をあげることはなかったが、その顔は苦痛に歪んでいた。
鬼の肘が蛇の腹に入る。その衝撃からか、蛇は噛んでいられなくなり口を鬼の腕から離した。しかしただで終わるつもりはないらしく、その長い身体でもって、鬼の肢体に絡んでいった。その戦いはさながら嵐のようで、周囲の木々をなぎ倒していった。
蛇の赤い瞳に、鬼の姿は映っていない。小桃にはその蛇は、自分を見ているように感じた。
この蛇の姿に覚えがないものの、奇妙な既視感を覚える。だがそれは一瞬のことで、侍女に手を引かれることで忘れてしまった。
最後に大蛇を見る。目が合った。だが、それだけであった。蛇は戦いへと戻り、鬼は暴れるようにして蛇を攻めていた。
不思議とその光景に、背中を押されるような感覚を小桃は感じた。
* * *
手を引かれて、ようやくたどり着いたのは決して大きくはない川。急流であり、用意された船も大きなものではない。水夫と自分と侍女の三人で乗るとしても、平衡がとれるか怪しい。
「姫様、この川を下れば緑加の国に入るでしょう。……どのような運命が待ち受けているかはわかりませんが、決して諦めることはないよう」
侍女はそう言った。それの意味することがわからないはずがなかった。
「貴女は、貴女はどうするの!?」
「私は役目を果たします。まずは里で生き残った者を探します」
「そんな……」
「姫様、しっかりしてください。貴女の御子に会えることを楽しみにしてます。これは私だけではありません。貴女のお父様もです」
「嘘! 嘘はやめて! どうして!」
言葉にならない感情を小桃は叫ぶ。もう会うつもりはなく、自分の命と引き換えに小桃を助けようとしている。気休めだけの慰めの言葉はいらなかった。
侍女は取り乱すことはなく、じっと小桃の瞳を見つめていた。それに小桃は気圧される。侍女の瞳に宿る静かな情を感じた。
「姫様、橘の家に仕える者は皆、素直な貴女様を愛しております。そんな貴女様の御子を愛さぬ者がおりましょうか。どうか、幸せではなくとも、健やかな生を」
そう言うと侍女は水夫と協力して船へと乗せた。小桃はされるがままにされている。
船が進み始める。侍女の姿も小さくなった。
失うときは一瞬だ。屋敷も、父も、仕えた者も、恋人も。自分の身体を抱きしめる。腹の中にある生命の灯火だけが、小桃が持つ唯一の温かさだった。
* * *
そして物語は、鬼による赤紗の国への侵攻から十七年の時が経ってからまた、動き出した。