序章ノ三
三輪に相談した日からまた数日。小桃は浮かない顔をしていた。時折、三輪のことを思い出しては笑顔を浮かべるが、少しするとこのままで良いのかという気持ちがまた出てくる。
いまは十分幸せだ。小桃はそう思う。これ以上を望んではいけない。三輪もきっと、望んでいない。だからこそ彼は自分のことに関しては何も言わずにいるのだろう。彼にとって、自分のことを話さないことは境界線なのだ。
しかし一方で、小桃は不安に駆られる。この想いがいつか形を変えてしまうのではないかとすら思ってしまう。
そして、それさえも打ち砕くような危機を小桃は迎えていた。
自分の部屋よりも豊かな色で彩られた襖が目を引く部屋に小桃はいた。その部屋の中央で小桃と向かい合っているのは小桃の父でありこの赤紗の国の守に任ぜられた男、橘則秀。
娘の小桃から見ても、威厳に満ちた綺麗な顔は今、無表情であった。家族である小桃の前であるにも関わらず、顔は外で戦う男のそれであった。
食事時以外では滅多に会わない父の見慣れない姿に緊張しながらも、小桃は頭を下げた。則秀は軽く会釈するだけである。
「お父様、本日はどのようなご用件でお呼びになられたのですか?」
小桃がそう聞くものの、則秀は答えない。それが小桃からするとなんとも不気味だった。
少しの間を置いて則秀は口を開く。
「最近、夜に男が通っているな?」
その言葉に小桃は危うく悲鳴を上げそうになった。覚悟はしていたことであり、いつかは三輪との関係が父の知られるときが来ることはわかっていた。悲鳴を抑えることができたのはそのためだ。
しかし驚いた反応だけはしてしまった。長く一緒にいた父には、それだけでバレてしまうだろう。事実、則秀は予想通りと頷いていた。
「やはりな。いや、怒っているわけではない。男を通わせていることも、それを隠していたこともだ。年頃の娘だ、当たり前のことだろう。私もまた、お前の母さんの元に通ったものだ」
ははは、と笑う父の姿に、小桃もまた口元を抑えて笑ってみせる。
だが小桃は知っている。則秀がよく喋るようになったときは、緊張している証拠だ。
「それで、どこの男だ? うちの娘を夢中にさせているのは」
「それが……わからないのです」
「何?」
小桃の答えに、則秀は当然とも言える反応をした。
「それはどういうことだ? お前はまったく素性の知らぬ相手と逢瀬を交わしていると?」
「誤解です、お父様。私は一度も彼を部屋へと上げたことはございません」
「馬鹿を言うな!」
「いいえ、私は馬鹿なのです」
「信じられるものか。いや、お前を信じていないというわけじゃない。だが、にわかには信じられないことだぞ?」
則秀がそう思うのも仕方のないことだと、小桃はわかっている。自分でさえ信じる事は出来ない。だが真実だ。真実だからこそ、小桃はおかしな嘘を吐くよりもずっとましだと思っている。
ただでさえ利口ではない自分が、政治家である父に詐術で勝てるわけがない。ならばすべて本当のことを言おうと決めた。
「私は素性も知らぬ男に惚れた愚かな女なのです。どうか私を罵ってください。ですが、決して彼を侮辱することのないようお願いします」
小桃は再び頭を下げた。会釈ではなく、純粋な懇願として。
則秀は唸っている。小桃は自分の気持ちが確かに伝わったことを理解した。
「……お前は夜、男と会っている。だが男女の仲ではないと、そうだな?」
「はい、偽りはありません」
小桃はしっかりと答えた。則秀は溜め息を吐く。
「実はな、お前を嫁に迎えたいという話が多く来ている」
ああ、やはり。小桃は声にはしなかったが、心の中でそう呟いた。
「そのうちの一人、大野道英……今の帝の母である椿殿の異母弟にあたり、家柄もその知性もあり、若くして次の左大臣だと目されている。私はお前を道英殿に嫁がせようと思っている。これは我が橘家……そしてお前とお前の兄のためでもある」
それは、則秀の中では決定していることだ。小桃にはわかった。則秀は自分と三輪の関係は望んでいない。それは自分にとって邪魔であると、京にいる兄まで持ち出して説得しようとしているのだ。
「もちろん私は、お前の幸せを望む。だがな、考えてみてもくれ。片や身分もわからぬ男、片や将来が約束された男。どちらが幸せな道で、どちらが私を安心させてくれるかを」
その言葉は、小桃には重すぎた。父の、橘家の幸せと自分個人の幸せ。さらには大野という大家の名前も出てきている。それが小娘である自分に背負わされているものだ。
「……道英殿は今、お母上を亡くされ、喪に服しておられる。お前を迎えるのは一年ほど先になるだろう。だがな、お前に変な噂があるのは良くない。今はまだなんとかなる。……私からはこれだけだ」
則秀はこう言うが、小桃はその意味を理解する。三輪との関係を断てと言っているのだ。それは何よりも残酷な言葉として、小桃の胸に刺さった。
自分自身の幸せと、父と家の幸せ。小桃の答えはすでに出ていた。
迫る時間、夜までどれほどの時間が残されているだろうか。できれば来て欲しくないとも,
早く解放されたいとも、思ってしまった。
* * *
夜になるまではとても長く感じられた。いやに静かに感じられ、小桃は息苦しさを覚えた。
この晩に三輪が来るという確信があったわけではない。ただただ、予感があった。
外の景色を眺める。簾のない方は開けている。風はいつもより強かった。木々は大きな音をたてて揺れている。いまならばどれだけ叫んでも、声は届きはしないだろう。
「今日も待っていてくれたのか。嬉しいな」
簾の向こうに影が現れる。それを歓迎でいない自分がどうしようもなく悔しかった。
「……何かあったのかい?」
その問いに、またもや自分の感情を見透かされていることを悟る。
言わなければならない。自分が決めたこと、自分がやらなければならないことを。
しかしここに至って、小桃は口を開くことはできなかった。決めたはずなのに、喉からは嗚咽しか出てこない。
手に落ちた雫を見て、自分が泣いていることに気づいた。頬を流れるそれを拭うこともできなかった。
声を出そうとする度に、違う言葉ばかりが浮かんでくる。自分の中で何が正しいか、何が間違っているのかわからなくなっていた。
こんな時に限って、三輪は何も言わない。きっと小桃の気持ちもわかっているにも関わらず、何も言ってこないのだ。
彼の口からでも良い。自分の中にあるものが言葉として吐き出されれば、どれだけ楽になるのだろうかと思う。
「……言ってごらん。君の言葉なら受け止めるよ」
三輪は、ようやくそう言った。せき止められていたものが一気に流れ、溢れ出すように、小桃は語り始めた。
「父が……父が婚姻の話を、私の婚姻の話をしてくださいました。私でもわかります。その婚姻は家の為になりましょう。私の役割でもあると思います。だから私は……」
そこで嗚咽がまた漏れて、言葉が途切れる。懸命に続けようとするも、上手く話せない。
「私は貴方に……もうここに来ないでほしいと言おうと思いました。思っていました」
けれども、三輪の声を聞いて、自分は「嘘」が吐けないことを思い出してしまった。
そんな利口な女ではないことは、とっくの昔に知っていた。
「でも、でも貴方の声を聞いて、私はもう、貴方と離れられないのだとわかりました」
だからこそ、すべてを曝け出そう。小桃はもう、自分をもう抑えなかった。
「もはや、貴方がどこの何者であろうと関係ありません。私をここから攫って頂けませんか?」
言ってしまった。ついに自分の中に隠していたものを見せてしまった。
けれども、達成感があった。あとは三輪の答えを待つだけだった。
小桃は睨みつけるように簾の向こうにいる人影を見る。
「……すまない、それはできないんだ」
「そう、ですか……」
その答えは半ばわかっていたことだ。三輪に何か事情があり、それはきっと、小桃には計り知れないことなのだと。
「でしたら、これで会うのは最後にしましょう」
「……そうだね」
そう言うと、二人の間に沈黙が流れる。聞こえるのは吹き荒ぶ風の音だけだ。
どれほどの時間が経っただろうか。口を先に開いたのは、小桃だった。
「どうか、最後に……お顔を見せてくださいませんか?」
小桃がそう言うものの、人影は何も言わない。
ただ、簾の下に手が伸び、ゆっくり持ち上げられた。
そうして見えた、人影の正体。その顔を小桃は見る。想い人の顔を見ただけなのに、小桃は良い知れぬ感情が嵐となって心で渦巻いているのがわかった。
どちらからともなく、近づく。いままでずっと離れていた距離を縮めるように。その一歩は、見た目は近くても、本人からしてみれば数千里も離れているようにも感じられていた。
そしてそれがついに二人の間の距離がなくなる。影が一つに重なる。確かな熱を腕の中に感じ、小桃はただそれだけでまた、涙が流れた。
もう止められない事を小桃は理解し、三輪もまた、小桃に応えた。