序章ノ二
それから一ヶ月の時間が流れた。
三輪は約束通り、数日に一度小桃の元を訪れていた。それを楽しみに小桃は毎日の生活を送っていた。
多くの昔話を三輪は用意してくれていた。農家の三兄弟が大熊を退治するまでの話、美しい天女と結婚する貴族の話、復讐を果たすも何も得ることができなかった話などなど。時には遠く離れた国の話などもしてくれた。
それらはすべて初めて聞く話ばかりで、小桃の好奇心を満たすどころか、さらに大きなものにしていった。もっと聞きたいと思わせるだけの魔力があった。
毎日のように小桃は三輪の話を思い出し、さらには三輪の美しい声を思い出しては笑った。その度に自分はすっかり彼と彼の話に夢中なのだと自覚させられた。
「姫様、最近なにか良い事がありましたか?」
侍女の一人が声をかけてきて、小桃は意識を今の時間に戻した。油断すると人影の映っている簾が思い浮かぶのだから、重症である。
今は琴の練習のために移動している最中である。長い廊下を数人の侍女と共に歩いている。話しかけてきたのは、一番長くいる侍女だった。
小桃は慌てて取り繕って、侍女の問いに答える。
「どうしてそのようなことを?」
「やだ、姫様、ずっと笑っていらっしゃるではありませんか。何かあったかと勘繰りたくもなりますよ」
そう言われて、小桃は自分の顔から湯気が出るのではないかと思った。
頬に手を当ててそれを隠そうとするが、手遅れだった。侍女は面白そうにそれを笑って見ていた。
他の侍女たちもそれを承知していたようで、くすくすと笑う。小桃はこの場から逃げ出したくなった。
「特別なことはありません」
「あら、好きな殿方ができたのではと、てっきり」
「なななっ!? 違います!」
いよいよ小桃は声に出して狼狽してしまった。
それは間違いではない。だからこそ余計に恥ずかしく思ってしまった。
素直に認められられないのは、実際に顔を見たわけでもないのに一目惚れをしてしまった自分を知られたくなかったからだ。
「姫様はお綺麗ですから、殿方が惚れられるのは仕方のないこと。姫様はその中から選ぶことができるお立場なのですよ? さあ、どなたなのです?」
小桃は、彼女が侍女という立場であるからこうして持ち上げてくれるのだろうと思う。
しかし一方で、三輪もまた自分の元に来てくれるたびに「綺麗だ」と褒めてくれる。それも、三輪は自分の顔も見ないで言うにも関わらず、どうしてこんなに嬉しさに違いがあるのだろうと考える。
結局のところ、自分が彼に惚れ込んでいるからであることに他ならないのだが。
「それは……」
「先日の会食でお会いした道英様でしょうか? それとも光幸様?」
侍女の質問を受けて、小桃は言葉に詰まった。それは自分が思いを向ける相手、三輪に関して語ることができないからだ。
決して三輪に口止めをされているわけではない。けれども三輪のことをどう説明すればいいのだろうか。
相手の家柄どころか、貴族か商人か農民か、どこに住んでいるかすらわからない。それどこっろか顔も知らない。もはやそんなことも気にならなくなるほど小桃は三輪を気に入っている。だが、そんな小桃の想いがこの侍女に通じるとは思えなかった。
「ですから……そんな人はいません!」
小桃はこう答える以外なかった。下手に好意を向けている相手がいると言ってしまえば、追及を逃れることはできない。
そして父に話が伝わってしまうのが何よりも恐ろしかった。
「ふふっ、からかいすぎましたね」
それを都合良く解釈してくれた侍女は、それきり追及してこなかった。
小桃はホッと胸を撫で下ろすが、追及の代わりに侍女が発言した内容に緊張を覚えた。
「けれども、きちんと相手ができたら相談してくださいね。私たちが可能な限りお手伝いをします。きっと、旦那様も喜ばれますよ」
それはどうだろうか、と侍女の言葉の最後を聞いて思った。
父は果たして、自分を応援してくれるだろうか。相手の身分どころか顔もわからないこの恋を、許してくれるのだろうか。
小桃の心に、わずかな影が差した。
* * *
「ほう、そのようなことが?」
この晩もまた、三輪はやってきた。彼の澄んだ声が簾を通して聞こえてくる。
三輪は来て早々に、小桃の機嫌が悪い事に気づき、それについてどうしたのかと聞いてきた。
不思議なことに三輪は小桃の感情をすぐに見抜く。簾越しであるから小桃の顔は見えないにも関わらず、喜んでいるときや寂しいとき、悲しんでいるときなど、すぐに指摘してくる。
こうなってはごまかすことはできない。そう思って小桃はその日にあったことを話した。
「はは、それは困ったな」
「笑い事ではありません!」
「まあまあ、落ち着きなさい。事実、私と貴女の間には何もないんだ。きちんと話せば、わかってくれる」
何もない、と言えるのだろうか。小桃には疑問だった。
数日に一度、誰にも知られずに密会をしている。それをお互いに楽しみにしている。しかし恋仲であるわけではない。むしろそれはおかしなことなのではないか。
夜に男と二人と会っていることを知られれば、何もなかったとしても、誤解されてしまうのは仕方のないことだ。小桃も他の人について噂を聞けばそう誤解するだろう。
そして……三輪の気持ちがわからない。彼が自分をどう思っているのだろうか。妹か、あるいは娘のように思っているのか。小桃としては、一人の女として見てもらえたらと思わずにはいられなかった。
いっそのこと、この気持ちを打ち明けることができれば、何よりも楽なのに。小桃はついそう思ってしまう。
「どうか、ご身分だけでもお教えいただけませんでしょうか? それさえわかれば父も私の周りの者たちも安心することができます。私は利口ではありませんから、黙っていても知られるのは時間の問題です」
小桃は意を決してそう言った。他の人のことを挙げたが、本当に三輪の身分を知りたかったのは小桃自身のためだった。自分の恋を正そうとしている……そのことは自覚していた。
今まで楽しかったのと反面に、この日々が、この気持ちが崩れてしまうのが恐かった。
三輪はすぐに返事はしなかった。しばらくの間、気まずい沈黙が流れる。月に雲がかかったのか、わずかに辺りが暗くなる。
「もし私が、農家の生まれだとしたらどうする?」
「それは……」
「もし」と言うからには事実ではないのだろう。けれども、その「もし」が事実なのだとしたら、小桃は受け入れることができたかはわからなかった。
「君は素直だね」
「っ!?」
まただ。また心を読まれてしまった。
小桃は今度こそいたたまれなくなって、不貞寝してしまおうかとも思った。
「わ、私は、三輪様が三輪様であれば……」
「わかっているよ。君は嘘がつけない。それは尊い資質だよ」
「嫌いに、ならないですか?」
「なるわけがないよ」
それを聞いて、小桃はとりあえず、三輪を信じることにした。彼を疑うのは何よりも辛いことだとわかったからだ。
けれども、このままで良いのかという疑問だけは晴れなかった。
この時間がなくなるのは惜しい。だから小桃は、自分の中の想いを形にすることでそれが打ち砕かれるのではないかと心配をする。また、この関係を父に露呈することを何よりも危惧している。
──それは正しいことなの?
小桃に答えは見つけられなかった。自分は何をすれば良いのか。どうすれば何も失わずに済むのだろうか。
わからないことばかりだった。それは自分がまだ大人になりきれていないからだろうか。
「さあ、今日はどんな話をしようかな」
「ふふ、楽しみです」
そんな気持ちを忘れるように小桃は三輪の語る世界へと逃げ込んだ。
いまはまだこれでいい。そうやって、自分に言い聞かせながら。