ネジレタ。
胃がキリキリする。
思わず吐血してしまうのではないかと思うぐらい、毎日過多なストレスが私の胃を苦しめる。諸悪の根源にして、張本人である九条栞は先程から私を膝に乗せ、上機嫌で右の太股を撫でくり回している。
彼は明るい金赤色の髪を肩まで伸ばし、筋の通った目鼻立ちをした何処からどう見てもイケメンと呼ばれる部類の男だった。整った容貌にも関わらず、思わず親密さを感じてしまうのはいつでも口元を緩ませ、笑っているからだろう。
だが、この男の外見で油断してはいけない、彼は学園でも名立たる不良のひとりで、人を笑って殴ることができる男なのだ。
紫紺色の髪を一つに結び、白いシャツに緑のネクタイ、紺色のブレザーにチェックのスカートをきちんと着ている私はごく普通の一般生徒であり、そんな彼とは関わるはずもない人生だった。
なのに、なぜ高校生にもなって、そんな男の膝に座らせられ、食事を食べさせられているのか、すごく泣きたい。
「ん~、本当に伊予ちゃんの太股はむちむちしているよねぇ。気持ちよくてずっとこのままでいたいなぁ」
女子高生の太股を上から下まで味わい尽くすかのように満遍なく九条の手が動く。手つきが厭らしい。数々のセクハラに心は既に折れている私だが、彼の触れ方はいつだって性的な匂いを滲ませていて気持ちが悪かった。
「はい、あーんして?伊予ちゃん、ハンバーグ大好きだもんね」
フォークに刺さった一口大のハンバーグを差し出され、額からは冷汗が滂沱のごとく垂れ流れる。目の前でドスッと嫌な音が立てられ、ちらりと視線を寄せると、フォークが皿に突き刺さっていた。
「もう、伊予ちゃんは愚図なんだから。聞こえなかった?俺、あーんしてって言ったんだけどぉ」
急いで口を開け、肉の欠片を口に含む。
「ああ、やっぱりハムスターみたいに頬張って可愛い」
もきゅもきゅと頬張っていると、口元から肉汁が溢れた。舌先で舐め取られ、いい子、いい子と頭を撫でられ、非常に甘ったるい声で褒められる。
その間も身体のあちこちを指で弄られ、公共猥褻物罪で捕まってしまえと思えるほどベタベタイチャイチャしてくる。彼の愛は重い、そして猟奇的だ。いつもへらへらしてくせに、ふとした瞬間、欲情の混じった猛禽のような瞳でこちらを見ていることには気付いていた。
「し、栞君。わ、私そろそろ」
「……えっ、嫌なの?」
「ち、違うよ、嫌じゃないの。恥ずかしいの」
「伊予ちゃんは恥ずかしがりやさんだねぇ」
「うん、本当に恥ずかしいの。お願い。あ、後で、ねっ?」
「あー、ほんとに可愛い。大好きだよ」
そして、ぎゅうと腕の中に閉じ込められる。
逞しい胸板が頬に当たり、ぎゅみゅぎゅむ力強く抱きしめられると、息ができなくて苦しい。
何でこんなことになったのだっけと意識を手放したくなった。
+++
事の始まりは、普段無表情な親友の羽柴都築が珍しく蒼褪めていて、具合が悪いのかと心配したら、クラスに雪崩れこむように柄の悪い男たちが闖入してきたことだ。
不良の巣窟と呼ばれる問題児ばかり集められたF組の者たちで、一目見て殺伐としているのが見て取れる。
「……どういうこと?」
「…………駄犬を引っかけたみたいだ」
端的な、説明にもなっていない都築の言葉。
けれど、それで十分だった。
私は逃げた。
「あっ、ちくしょう。卑怯者っ」
後ろから聞こえてくる親友である彼女の言葉に耳を傾けることもなく、私は一切振り向くことすらせず、前だけを見て駆けていく。罪悪感はない、立場が違えば都筑も同じことをしただろう。
夕方の帰り道。
息切れで喉がひりつき、膝がガクガクと笑う。
ようやく家に帰った私は夕食もとらずに布団に潜り込む。
嫌なことは寝て忘れてしまうに限る。
翌日、疲労困憊して午後登校してきた都筑は、「よくも裏切ったな」と一通り悪態をついてから、神妙な顔つきで「付き合うことになった」と徐に吐き捨てた。
「はっ?誰と?」
「菅原綾」
菅原綾、狂犬と相応しい男は金色の髪に赤い瞳をした、暴力と破壊の申し子である。彼は攻略キャラのひとりであり、この学園の頂点に立つ不良だった。
私は合掌した。
そして、親友はその瞬間元親友になった。
「残念だわ、私結構あんたのこと気に入っていたのに」
「何を勝手に縁を切るつもりでいる、薄情だぞ」
「逆の立場だったらどうするつもり?」
「縁を切るに決まっている。あんな人間たちに関わりたくない」
「でしょ?本当に残念。仕方がないから、今日の昼ご飯は奢ってあげる。それでさよなら、これからは一切声かけないでちょうだい」
「何を言っているの、お前も道連れだよ?私たち親友じゃないか」
血走った眼で逃がさないと腕を掴んでくる都筑に私は乾いた笑顔できっぱりと断った。
だが、現実とは非情なものである。
言葉通り、どんな手を使ったかは知らないが狂犬を言い含めた彼女は、私を傍に置くことを許容させた。
あの独占欲の強い男が何故許したのかわからない。
そこからは地獄の日々の始まりであった。
少し離れたフェンス近くには制服をだらしなく着崩した、眼付きの悪い少年たちが陣取っている。
屋上は狂犬率いる不良グループの縄張りになっており、大抵の生徒は近寄らない、そんな場所に毛色の違う小娘、つまり私がいるのだ。
奇異の視線のなか、私は居た堪れなさを感じながら、毎日を過ごした。
そんな私にちょっかいをかける九条栞は菅原綾の親友であり、唯一狂犬を諌めることができる男でもあった。
九条は薄気味悪いほど優しかった。
けれど、私は彼が恐ろしい。
笑顔で優しいのは何にも関心がないからだ。
笑って人を殴ることができる男に心など許せるはずもない。
ギリギリの境界線上で過ごす日々、ある日、九条に呼び出された。
指定された場所に嫌な予感がしたが、行かないわけにもいかず、思い足を引きずりながら、向かう。
今すぐ隕石でも落ちて、地球が滅びないかなぁとダラダラとくだらないことを思いながら、とうとう校舎裏の待ち合わせ場所に着くと、薄汚れた白色の壁に身体を傾けていた九条が軽く手を挙げて挨拶してきた。
「あー、来てくれたんだ。ごめんねぇ、こんなところまで呼び出しちゃって」
「い、いいの、ど、どどっどうしたの」
舌を噛んでしまった恥ずかしさを隠すために視線を逸らす。
早く要件を言えよ。
だが、なかなか要件を言おうとしない九条に焦れ、私は勇気を出して、話しかけた。
「あ、あの、何の用事かなぁ?も、もし、用がないなら、わ、私、もう戻るけどっ」
「伊予ちゃん、俺、伊予ちゃんのこと本当に気に入っているんだよ?だからぁ、俺にしては珍しく時間をかけようと思っていたんだけどさ」
「……」
「もう限界。いつまでも俺に懐かないしぃ、まぁ、一緒に過ごすうちに俺の愛を知ってもらえばいいよねぇ」
「は?」
「好きだよ、大切にするから、俺と付き合って?」
いやいや、どこに私を好きになる要素があったというのか、私は小一時間九条を問い詰めたい気持ちでいっぱいになった。
だが、流石に流されてはまずいと腹を括る。
この男と付き合うなんて自殺行為にも等しい。
何せ、彼は狂気じみたキチガイ男なのだ。
「ご、ごめんなさい」
勘弁してください。
本当にごめんなさい。
腐っても私はこの男の親友である菅原綾の溺愛する彼女の親友なのだ。
無体な真似は出来まい。
「ごめん、聞こえなかったぁ。もう一回言って?」
「…………ひぃ」
「伊予ちゃんみたいに平凡で、頭も良くない、性格もぱっとしなくて、いつもビクビクしている能のないつまんない女と付き合ってあげられるのは俺ぐらいしかいないと思うけど?」
視線の先で、壁からパラパラと剥がれた欠片が地面に落ちていく。
恐怖で顔が引きつった。
「俺と付き合うよね?」
「…………はい、喜んで」
そう答える以外に貧弱で根性の無い私はどう言えただろう。
息も悶えに答えた私に九条は満足げに目を細めた。
(こ、こわっ)
彼は付き合ってみると、独占欲丸出しの面倒くさい男だった。他の男と話しただけで頬を抓られ、緩い口調で詰られる。かろうじて、処女は守れているが、それを守るために羞恥心や常識などもっと大事な何かを捨てている気がした。
――でも、もうすぐ、あと少しの我慢だ。
私たちは待ち望んでいた。
もうすぐ、入学式である。
私たちは二年に進級し、ヒロインが新入生として入学してくる季節なのだ。
攻略キャラである彼らは、ヒロインである天川周子に好意を抱くだろう。
それは必然なのだ。
そうして、彼女の登場を契機に私たちはこの頭のおかしい男たちから解放される。
なのに、そうでなければおかしいのに。
――現れたヒロインは、攻略キャラを誰ひとり攻略しようとはしなかった。
ありえない。
発狂しそうなほどの絶望、感情のままに泣き叫んで、グランドを裸足のまま駆けたくなるような言いようのない焦燥をどう表わせばいいだろう。
今まで我慢できたのは終わりが決まっていたからだ。
ヒロインが彼に近づけば、私は厄介払いされるはずだった。
彼女がどのようなルートを選ぶかはわからない。
だが、少なくとも、彼女が現れることによって九条の関心は私から逸れ、天川周子に移る。
そうして、目出度く私は解放されるのだ。
「諦めろ、私がいるだろう?」
赤く目を腫らした都築は、彼女にしては珍しく感情の含んだ声で優しく囁いた。
「……嫌だ」
「……卒業までの我慢だ。その頃には、あいつらも飽きるだろう」
「本当にそう思っているの?あの犬っころは、都築、あんたのすべてを食らい尽くすわよ。あの眼を見た?ギラギラして飢えた獣のようだわ。九条もそう!知っているでしょ。私は嫌、絶対に嫌だ。まっぴらごめんよ」
「……」
「だって、都築、私はまだ何もしていないっ」
ここは乙女ゲームの世界だ。
そうして、ありえない設定とご都合主義に満ち溢れた不条理な現実でもあるのだ。
ヒロインは現れた。
凡庸そうな容貌は私の知るヒロインそのものだ。
けれど、彼女は攻略しない。
攻略キャラである九条栞に近寄らない。
九条はヒロインに接触する機会があれば、必ず彼女に関心を抱くだろう。
機会さえあれば。
「何を考えている?」
「都築、ヒロインは攻略キャラと恋愛するために存在しているよね?」
「…………」
「九条栞は攻略キャラだわ。あの男はヒロインのために存在しているの」
「だから?」
「世界を正常にするの、異常なんていらない。あの男が私を好きだなんて耐えられない。元に戻すの、正しい世界の在り方に。だって、そうじゃなきゃ……私は私はっ」
「……お前は」
「まさか止めるつもり?」
「それこそまさかだ、私に止める権利なんてないよ」
「なら、いいの」
「覚悟が出来ているなら、好きにすればいい。私はお前を道連れにした。ならば、お前も私を道連れにする権利がある」
都築がそんなことを言うなんてびっくりした。
まじまじと都築を見る。
真剣な眼差しな都築を見て、ふっと笑みが零れた。
「いい、都築の助けなんか要らない」
「それでいいのか?私が助けようとするなんて、もう二度とないかもしれないぞ?」
「殊勝ね、でも、お生憎様。都築、あんたは私のことなんて気にせず、狂犬に飽きられる方法でも考えていればいいわ」
「……伊予、お前は本当に昔から変わらないな」
私は都築のように割り切ることができない、もう何にも踏みにじられたくなかった。
世界の強制力が働かないのならば、私が強制力になればいい。
他でもない私のために、何も知らないヒロインを犠牲にするのだ。
+++
ヒロインである天川周子を呼び出すのは至難の技だった。
彼女は三年である風紀委員長の黒川裕の幼馴染で、彼の庇護を受ける彼女は入学して間もないと言うのに、既に幾多の女たちを敵に回している。そんな彼女を守るために風紀委員長は片時も彼女を己の手から離さないのだ。
どうにかこうにか、裏から手を回し、彼女を呼び出すと、少女はほっそりとした肢体を震わせ、魚の死んだような眼でこちらを見た。
若草色の髪は痛んでいて、艶がまったくない。そんな前髪が眼元を隠しているため、表情が見えないが、声と口元から困惑している様子が見てとれた。
彼女の天真爛漫な微笑みに無口ぽややんワンコ書記が惚れるのだから、顔くらい出せばいいのにと思う。
「急に呼び出してごめん。ふたりきりで話したいことがあったの」
髪の隙間から垣間見ることができた、ぽかんとこちらを見つめるその瞳は思ったより大きく粒らで、それなりの恰好をすれば見違えるのになと思った。
+++
天川周子は救いようのない駄目人間だった。
そうして、何処までも不幸で哀れな少女だった。
「駄目です、祐君が怒ります。わたしは馬鹿で愚図だから、祐君に見捨てられたら生きていけないんです。祐君が、祐君だけがわたしを認めてくれる、大事だって言ってくれるんです」
彼だけがわたしを見てくれると涙ながらに語る少女は哀れで、不憫で、大概の心ある人間ならば、同情してしまうだろう。彼女にはそんな切実な悲壮感というものが備わっていた。
見事な囲い込みだ。
私は気付く、そう言えば、あの風紀委員長は腹黒策士だったなと。
彼女の周囲には常に風紀委員長の手の者が眼を光らせ、友達一人いない。孤独である環境下で味方は彼だけ。
彼女の精神が年齢よりも幼く、まるで現実感がなく、吐き気がした。
たったひとりの力無い少女を捕えたあの男の顔が愉悦に歪む様を想像すると、思わず舌打ちしそうになる。
「私は、貴女と友達になりたいんだけど」
「えっ?」
「私じゃ駄目かな?」
「どうして、わたしとお友達になってくれようとするの?」
「天川さん、ずっとひとりでいるでしょ?淋しそうな横顔を見ていて、声をかけたいなぁって思ったんだよ」
風紀委員長と幼馴染である彼女は小さな頃から隔離した生活を送ってきたと聞いた。
同性の友達を喉から手が出るほど欲しかったはずだ。
欲しい言葉ならいくらだってあげよう。
狭い箱庭で育てられた少女なんて赤子の手をひねるようなものだ。
そうして、私は彼女に手を差し伸ばした。
けれど、いつまでたってもこちらの差し出した手を取ろうとしないものだから、無理やり握りしめた。
「……よ、よろしくお願いします」
はにかんだ、小さな笑み。
頬を桃色に染め、潤んだ瞳で世にも哀れな生贄の少女は、それはもう綺麗に微笑んだのだ。
――結果。
「キャンキャン囀るのも可愛いが、それだけではこの世界では生きてはいけないぞ?」
風紀委員長は努めて冷静であろうとしているのだろう、そう思わせる冷淡な声で彼は窓辺に立っていた。
元々、攻略キャラたちは彼女に好意を抱くように設定されている。
私はそれを利用して彼女を連れ回した。
イベントを出現させるためだ。
だが、実際は無口ぽややんワンコ書記も和風ツンデレ図書委員長も、なんだか感蝕がよくなかった。
風紀委員長の影響力のせいか、彼らと彼女の出会いはあっさりと終わってしまったのだ。
何故だ、何が悪かったのか。
元々のゲームでのヒロインは明るく天真爛漫な少女であり、今みたいに陰気で気弱な少女ではなかったからか。
(少しずつ私の知っている世界とは違ってきていることはわかってたけれど)
こうまで上手くいかないと不安になる。
それでも、もう背に腹は代えられない。
練習台での過程を得て、私は彼女を九条と狂犬に合わせようと計画を練っていた。
慎重に事を進めようとしたが、焦っていたのだろう、今こうして風紀委員室に呼び出されて、私は彼によって計画を頓挫されようとしていた。
「賢い桐谷さんならわかるだろう?」
前世はニートだ、引き篭もりの人間不信ぎみでずっと部屋に籠っていた。
だから、かつての人生経験などまったく役に立たない。
そんな私がこの悪魔のような男の前で断罪されている、その緊迫感に耐えられるはずもなく、ほとんど涙目になりながら俯くことしかできない。
「それはよかった、では、今後一切こいつには関わらないでもらおうか」
異論を認めぬその眼差しの険しさに彼女に対する執着の深さが窺いしれた。
歪な、何処までも自分勝手なその感情に胸がざわめいた。
「祐君、わたしはずっと祐君と一緒にいるから」
「周子、お前は俺よりもその女を選ぶのか」
「まさか、わたしは祐君を選ぶよ。でも、桐谷さんは関係ないでしょう?」
「……周子、あの女はお前を利用しようとしたんだぞ」
「でも、わたしは嬉しかったの。短い間だったけど、友達になってくれて、すごい楽しかったの。ありがとう」
「…………っ」
必死の彼女の説得に、鬼の風紀委員長は髪を掻きあげると、低く唸るように呟いた。
「周子に感謝するんだな、二度目はないよ」
握りしめて、爪が白みを帯びる。
二人が部屋から出て行き、緊張から解放された瞬間、床に崩れ落ちた。
最初の一歩を踏み出すこともできなかった。
じわりと噛み切られた唇に滲む血。
錆びた鉄の味がして、私は顔を盛大に顰めた。
+++
翌日、未だ天川周子は登校していない。
失敗したとだけ語った私に都築はふぅんと気のない返事をした。
彼女の首筋には赤い花が咲いており、隠す様子もないその態度に私は思わず嗤いたくなった。
「……落ち込んでいる親友を励ましてくれないわけ?」
「うん、自業自得だからね」
率直な言葉に何も言わずに、都築の前に座る。
机に肘を乗せ、頬杖をつく。
ぼんやりと外を見ると、クラスメートが掃除をさぼったのだろう、何処となく指紋で汚れているガラスに何人ものクラスメートの楽しそうな姿が映る。
この世界は乙女ゲームだけれども、紛れもなく彼らにとって現実なのだ。
息苦しい。
ふと都築に眼をやれば、彼女は視線に気付いたのか、読んでいた文庫本から眼を離すと、こちらを見た。
「……嫌なことはすべて忘れろ。私が許してやるぞ」
黒い髪がさらりと靡いた、真っ黒な瞳に憂鬱そうな少女が泣きそうにしていた。
そうか、唯一の理解者が許してくれるならば、それでいいような気がする。
何もなかったふりをして、またいつもの日常が始まるのを待てばいいのだ。
口を開こうとしたが、何を言っていいのかわからなくて、私は結局口を閉じたままで、都築の艶やかな黒髪に指を絡めた。痛いと小さく呟かれ、ごめんと力を抜いてもう一度優しく撫でた。今度は何も言われなかった。妙に手持無沙汰で、気持ちが落ち着かなかった。
+++
九条が私を抱きかかえて、屋上の柵に寄りかかっている。
空は真っ青に澄んでいて、雲が緩やかに流れていく。
うんざりする。
あれから三日たっても、彼女はまだ登校してこない。
珍しく二人きりだと九条は私の耳朶を甘噛みしながら、囁いた。
だからなのか、いつもより密着した状態、つまり、彼の膝の間に向き合う形で座らされている。
(相変わらず、変態だな)
けれど、心が酷く安堵した。
いつもの日常を取り戻したと思った。
「残念だったねぇ。俺に周子ちゃんを紹介できなくて?」
ニコニコと微笑みながら、彼は小さな子供に接するように穏やかに言い放った。
いきなりの不穏な発言に私は彼から逃れようとする。
だが、腰に掴まれている手が邪魔で、抵抗もままならない。
「な、何言っているの?」
「声、震えているね」
声帯に手を添えられ、ゆっくりと上下を撫でられる。ゴクリと唾を飲んだ。
「もうね、我慢の限界なんだよ」と囁かれながら、殊更緩やかに首筋をなぞられ、恐怖で真っ白になる。
「俺、知っているんだぁー」
優艶な美貌に禍々しい笑顔を張り付けて、男はちっとも笑っていない眼で、私を見た。
「かわいそーに。彼女、今頃、委員長にぐちゃぐちゃのドロドロに抱き潰されているだろうねぇ。あの人、嫉妬深くて独占欲が半端ないからさ」
――だから、何だと言うのか。
私は彼女を利用しただけだ。
なのに、何故?
思い出すのは、普通の学園生活がしたかったのとポツリと呟いたその言葉。
「……栞君は、天川さんを可愛いと思わなかったの?」
「嫉妬してるの?あんな子、俺の好みじゃない。俺の好みは伊予ちゃんだよ」
「でも、ほんの少しも気にならなかったの?」
「やけに拘るね」
「答えて」
「……あんな子、どうでもいいよ。俺には伊予ちゃんがいるからね。少しも気にならなかったよ」
私だけが好きなのだと男は言う。
ヒロインの攻略キャラである彼が、ただの脇役の私に。
(私は前提を間違えていたのかもしれない)
「あははは、その眼が好き。俺のことが怖くてたまらないくせに、必死に虚勢を張って睨み付けてくる。それ、抵抗のつもりなんだよね?でもね、逆効果だよぉ、すっごくキラキラして、美味しそう。思わず舐めたくなっちゃう」
赤い舌が明確な意思を持って、瞼の下をなぞった。つぅ、と這う。蠢く蟲を連想させた。眼球にぬるりとした舌が這う様子がまざまざと想像できて、幾度目かの悲鳴が零れる。
「やぁ、やだやだやだ」
「そんなに怯えないでよ。潔癖で穢れを知らない無垢な少女に無理やり俺の下種な欲望をブッかけたような、そんな気持ちになっちゃうから」
本当に舐めるわけがないじゃないと囁かれて、太腿に押し付けられる男の欲望に、この男は私に欲情しているのだと今更ながらに思い知らされて、おぞましさにゆえに身を捩じらせた。
くっくっと喉の奥から漏れる声の方向に思わず顔を向けると、酷く楽しそうに九条が笑っている。
抗えば抗うだけ、彼は私に固執するのだろうと思わせるその歪さに眩暈さえした。
雁字搦めだ。
好き、その言葉だけでこんなに無体なことをされるのならば、やはりこの世界は狂っている。
「すっげぇ、好き。むちゃくちゃ、好き」
気付いたら、乙女ゲームの世界に転生していて、こんな緩々チャラいキチガイ攻略キャラに愛されて。
今だって、この男は人の話を聞かずに、一方的に愛の言葉を押し付けてくる。
私は自分の人生に限界があることに気付きたくなかった。
この男のせいで、私のめちゃめちゃな人生が更にぐちゃぐちゃに踏み躙られて、不幸のどん底になってしまう。
大きな手のひらで体中を愛撫され、額からはありえないほどの汗が噴き出す。
「この俺が、本気で好きなんだよ?大事にしたいって思って、大切にねぇ、したいんだよ。世の中の人間なんて全員クズで存在価値なんかないと思っていたのに、ねぇ?」
「嫌、嫌だ。私は、好きじゃない、怖い、やだ。わ、私は」
「自分だけ逃げるつもり?」
「えっ、えっ、えっ?」
「理由が必要なら、俺がその理由を作ってあげる。お馬鹿で性根の腐っている伊予ちゃんは他人の犠牲で自分の安寧が成り立っているだなんて気付いてないんでしょ。ごめんね、最初からそうすればよかったね」
「えっ?」
「あっ、やっぱり気付いてなかったんだぁ?」
「ど、どういうこと?」
「都築ちゃんの献身で伊予ちゃんは今楽しい学園生活を過ごしているんだよ。あいつが、なんで大人しくしてると思う?」
「な、なんで私が関係あるの」
「……本当にわからないの?」
「わからない」
「あはは、都築ちゃんが伊予ちゃんを大事にね、しているから、あいつはそれが気に入らないのよ。まぁ、それは俺も一緒なんだけど」
「都築が私を大事?」
「そう、頑なに嫌がる都築ちゃんに綾が『俺と付き合わないと、お前の親友をめちゃくちゃにしてやる』って脅しているんだけどさぁ。本当にサイテーな男だよね、あいつ」
「なんで」
「『なんで』じゃないよ。そうして、今度は周子ちゃんにすら救われて、ねぇ、君はいつまでひとりで逃げ続けるの?」
私のたったひとりの理解者。
黒檀色の瞳、濡羽色の髪、黒を纏う少女。
彼女だけがこの非現実な世界で黒の色を持つ。
彼女に出会って、私は狂喜で己がどうにかなりそうだった。
何しろ、母は薄緑、父は青、姉に至っては桃色の髪に瞳。遺伝子を無視したその色の在り様に幼い頃の私は怯えた。
私の髪も瞳だって、紫紺色なのだ。
異常な色に生理的嫌悪が沸く。
だって、ありえないのだ、こんな色、通常は存在しない。
そんな思いを抱いていた私は都築と無理やり友達になった。拒絶する彼女に無理やり付き纏い、傍にいた。都築が泣きそうな顔でこの世界が乙女ゲームなのだと吐露したとき、私は初めてこの世界が乙女ゲームなのだと思い出した。
「わ、私は」
都築は私を救ってくれた。けれど、私はそれでも自分が一番大切なのだ。
最初に彼女を見捨てたのは私だし、きっとこれからも都築を見捨てることに躊躇なんかしないだろう。
そんな私でもひとつだけ決めていることがある。
都築が私にどんなことをしても、それが例え今回みたいに都築のせいで九条と知り合うことになり苦渋を舐める結果になっていたとしても、私は都築を許容する。
彼女だけは私に何をしてもいいのだ。
私は私のために都築を切り捨てるけれど、都築も都築のために私を切り捨てていいのだ。
なのに、何故。
ああ、私はこんなこと望んでいなかった。
(なんで、なんで、天川周子だって、私は利用するつもりだったのに)
友達になってくれてありがとう、なんて。
私にそんな言葉をかけてくれる価値なんてないのに。
――無性に苛々して、どうしようもなく泣きたくなる。
「私はきっと間違えた」
間違えた、勘違いしていた。
ゲームは始まる前に終わっていたのだ。
風紀委員長がヒロインを捕えていた時点で。
なんたることだ、あの男のせいで、ゲームは始まらずに終結し、攻略キャラは野放しにされた。
だから、彼らはヒロインに好感度を持つことがなかった。
イベントもなかったのは納得だ。
だって、ルートは既に消滅していたのだから。
彼らは攻略キャラではなく、ただの男子高校生で、彼らにとっての本来の好みの女の子が天川周子のような女の子ではなかったから、感触も鈍かったのだろう。
――そうして、私がこんな目にあっているのも、この男の好みの女の子が私だったということだけの話なのだ。
不幸だ、最悪だ、泣きそうな顔で罵倒する。
「でも、あんたには関係ない、うるさい。どうして、こんなに酷いこと言うのっ。大切にしたいと言うなら大切にしてよっ。大事にしてよっ。なんでなんでなんでこんなに追い詰めるようなことをするのっ。逃げたいと思って何が悪い?私は、怖い。全部全部怖い。もう、嫌だ、怖いのは……っ」
彼の行動は矛盾している。
好きだと言うのなら、もっと相手を尊重するべきだ。
こんな緊張に孕んだ歪な関係で、彼が私に愛を求めるというのならやはりキチガイと言うより他ならない。
「なら、大切にさせてよ。大事にさせてよ。俺がいなきゃ駄目だって思ってよ。ちゃんといい子でいるなら、俺はいくらだって伊予ちゃんのお願いを聞いてあげるのに、俺を酷いと言うなら、それは伊予ちゃんの自業自得のせいだろう?」
首筋に吹きかかる吐息が気持ち悪い。
細胞のひとつひとつが活性化され、別の生き物に生まれ変わらされるような錯覚を覚える。
寒くもないのに、ぶわっと鳥肌が立った。
抗うことを忘れた瞬間、この男は私を喰い殺す、そんな予感がする。
「だから、俺のことを好きだって言って。そしたら、伊予ちゃんが、都築ちゃんと周子ちゃんと仲良く学園生活を送ることができるようにしてあげる。もっと優しくだってするし、伊予ちゃんの言うことは何でも聞いてあげるよ。そしたら、怖くないだろ?それでも、怖いなら、俺がみぃんなやっつけてあげるから」
それだけでいいのだと男は甘く囁く。
たった一言。
けれど、この言葉はいずれ身も心も蝕む毒となって私を苛むだろう。
体温が一気に上がり、蕩けそうになる身体とは裏腹に心はこれから齎される未来に打ちひしがれた。
私は今までずっと逃げ続けてきた。
都築に甘えて、世界を呪い続けて、身勝手な思いから天川周子を傷付けた。
額から汗が滲み出る、自然と息が荒くなる。
真実を知った今、自分だけ逃げる気力なんてなくなっていた。
「栞くん――――――」
鼻に掛かるような甘えた声が自然と唇から零れた。
既に心は彼に屈服しているのだ、と自嘲する。
――じゃらり。
銀で縁取られた鎖が、確かな重みをもつ。私の首から手足、体中にいつの間にか巻き付けられていた鎖は酷く重かった。
最早、身動きなんかとれなかった。
完。