魔族とベットの上で対談
頬を撫でる冷風で目が覚めた。
窓、閉めたよな。
俺はベットに残る温もりを逃さないよう体を丸め、目を開ける。しみの残る布団とくもの巣を張った天井が、ぼんやりと映った。寝返りを打つように転がって窓を視界に収め息を呑んだ。
女の子が黒ずんだ窓枠に腰掛けていた。ピンク色の生々しい瞳を細めて、笑っている。風に吹かれて舞う髪は、月の光を受けて銀砂のようだ。野暮ったいシャツの襟元が緩んでいて、小ぶりな胸が見えそうになっている。年は俺より三、四歳位若い、多分十四、五歳だろう。手馴れた娼婦のような毒々しいまでに甘くて、蠱惑的な空気を身に纏っていた。
「あ、おはよう。カール・マッケントニー」
女の子は窓枠から飛び降りると、ゆっくりと俺の方へ向かってきた。木の軋む音が近づいてくる。
「あんた、誰だ?」
俺はベットの上を後ずさり、得体の知れない侵入者から距離を取ろうとする。しかし、一日、ニ貝で泊まれる安宿、部屋もベットも逃げるには狭すぎて、すぐ背中が壁に突き当たる。
「わたし? わたしはリシェル・プランツェ、魔族よ」
侵入者は小さな唇に乗った薄い紅をチロリと舐めた。月明かりに輝く唾液が、紅を彩る。
非常に魅力的な唇だが、そんな事はどうでも良かった。今大切なのは、この女が魔族と名乗った事だ。いや、まて、聞き間違いかもしれない。
俺は恐る恐る尋ねる。
「マジ?」
「うん、マジ」
侵入者がクスクス笑いながら、頷く。
死んだ。うん、死んだ。と言うか、これからから殺される。
それ以外の未来は無いだろう。なにせ、人間と魔族は現在、戦争中なのだ。そして、俺は元勇者候補、殺されない方が可笑しい。
いや、まて、この女は俺をからかってるだけかもしれない。もう一度だけ確認しよう。
「マジで魔族ですか?」
「ええ、魔族よ。それも、魔王直属の特殊部隊の一員」
腰に手を当ててふんぞり返る魔族さん。
「えー、何ですかそれ」
俺は両手で顔を覆う。
ちょっと待とう。三日前に魔族関係で死にかけたばかりなのに、また致死的な状況に叩き込まれるって、運が悪いとかそう言うレベルじゃねぇぞ。誰かが、俺を殺そうとしているとしか思えない。
俺、そんなに悪い事したかなぁ……
「人生後悔している所悪いけど、別に君を殺す為に来たんじゃないよ。大体、殺すつもりなら、寝てる間にぱっくり食べちゃってるよ。
こんな風にね」
魔族は虚空で何かを摘むように指先を動かし、そのまま大きく開けた口に指を含む。魔族は指先を味わうようにしゃぶる。
静かな夜に、唾液の水音だけが響く。
魔族の口下から唾液が一筋零れた。 唾液は頬を伝い、ほっそりとした首筋を通り、鎖骨のくぼみに到達する。
「あん、零れちゃった」
魔族の女は指先を唇から抜き取ると、シャツで唾液を拭きとる。
俺の喉が一際大きな音を立てる。
やばい、と思った時はもう遅い。魔族が意地の悪い顔で尋ねてくる。
「どう、興奮した?」
「そ、それより、殺さないなら、何が目的だ」
「あ、誤魔化した。真っ赤な顔して、かーわいいー」
なけなしの力で作った真面目な顔に火がついた。
ええ、興奮しましたよ。恐ろしいまでの色気がありました。今、股間が大変です。
でも、生殺与奪権を握られて、言えるわけないでしょう。
憮然とした顔でそっぽ向く俺をひとしきり笑った魔族は、軽い調子で言う。
「こっちの用件はね。魔王側に協力してくれない?」
あ、この魔族アホだ。もしくは真性のアレだな。
いつの間に間合いをつめた魔族の指が、俺の首に巻きついていた。ひんやりとした感触に、背筋が凍る。
「ねぇ、今、とても失礼な事考えなかった?」
「いえ、全く」
俺は両手を大きく振って、全力で否定した。少しでも手を抜けば死に繋がりそうなだけに、俺は必死になって無罪を訴える。
……アホなのは事実だし。
「ふぅん、なら良いけど」
魔族は思ったよりあっさりと矛先を収め、ベットの上に腰を下ろした。首に巻きついた指が蛇の様に首筋を這い回る。
「ま、そっちが怪訝に思うのも当然ね。こっちにも色々事情があるのよ」
「事情?」
「ええ。実は魔王側で聖女誘拐計画が立ち上がってるんだけど、これを阻止したいのよ」
聖女誘拐、その言葉に俺は目を見開く。
光神教によって選ばれた聖神に仕える第一の信徒、それが聖女様だ。大司教様に次ぐ光神教、第二の階位におられる貴い方である。もし、聖女様を人質にされてしまえば、俺達は何も出来なくなる。
だがしかし、それは人間側にとって不利な事で、魔王側には有利な事じゃないのか?
「何で誘拐を阻止する事が、魔王側への協力になるんだ?」
「七五三九万」
魔族が投げやりな感じで、呟いた。
七五三九万、何の数だ。
「この戦争が魔族が根絶するまで続けられた時の、人間側の死者数よ。試算だけど、確度の高い数字よ。
もっと簡単に言えば、この戦争をどこかで手打ちにしなかったら、魔族は全滅、人間は三人に二人が死ぬわ」
何を言っているんだこいつは。
そんな事あるはずが無い。幾ら魔族が強くても、魔族の国は小国が一つしかないんだ。大中小合わせて、百を超える国を持つ俺達、人間側がそんなに殺されるわけない。
俺の考えなど読んでいるとばかりに、魔族は笑いながら謳う。
「確かにわたし達、魔族が直接殺してまわったら、不可能な数字よ。
だけど、田を焼き、井戸に死体を落とし、川に毒をばら撒いたら、いいえ、街道を壊すだけでも良いわ。
そうしたら、一体何人の人間が冬を越せるかしら」
体中から冷たい汗が流れ出た。
「分かったでしょ。直接殺すだけが、戦いじゃないの。さっきの数も、貴方達人間が、国を超えて、手を取り合って、最善の手を打ち続けたとしての数字よ。本当はもっと酷くなるかもしれない」
首から魔族の指先が上へ登り、ゆったりとした動作で俺のこわばった頬をくすぐる。
「そんなに怯えないで。さっき言った数字は徹底的に最期まで戦った時のものだから。今のところ、魔族側にその気はないわ。
だって、魔族は全滅しちゃうもの」
ん、待て、この魔族なんて言った。魔族が全滅する。可笑しいじゃないか。この戦争を始めたのは魔族側だぞ。
「そう、全滅。人間とわたし達では、領土も人口も違いすぎるわ。どれだけ頑張っても、人間を皆殺しになんて出来ない。だから、適当な所で停戦、領土か技術、もしくはお金かしら、それを手に入れる。それが魔族側の狙いよ。
多分、人間側も多少の差はあれ、そのつもりだと思うわ。総人口の三分の二を殺したいなんて思わないでしょう」
つまり、お互い致命傷になるから、その手前でこの戦争をやめるつもりなのか。別段、魔族に恨みのない俺としては助かる話だ。殺された人達には悪いが、こんな儲からない戦争はさっさとやめるに限る。
「何だ、脅かすなよ」
「残念だけど、脅しじゃないわ。今、その最悪の筋書を演じようとしている馬鹿がいるの」
魔族の目に剣呑な色合いが見えた。
「過激派と呼ばれる魔族の派閥が、聖女を誘拐する事でこの戦争をより一層過激なものにしようとしているわ。
聖女が誘拐されたら、光神教は聖女が取り戻せるまで、いえ、取り戻した後も徹底抗戦を唱えるでしょうね。勇者がいるにもかかわらず、魔族に聖女を奪われたとなれば、面子が丸つぶれだもの」
まさか、とは思わなかった。
俺の住んでいた村の近くにも光神教の信徒が居たが、彼らは光神教の信徒である事、自分達が絶対正義の下に居る事に誇りを持っている。そして、その正義が汚される事を極端に嫌う。
それこそ、子供が古くなったパンに手を出しただけで、リンチをする位に。
光神教の威信を取り戻すために、徹底的に魔族を殺そうとする姿が目に浮かぶ。
「徹底抗戦となれば、魔族側は戦うしかなくなる。だって、人間側の一大宗教の逆鱗に触れたのよ。
停戦への道はないわ。
最初の質問、なんで聖女誘拐を阻止したいかの答え、聖女誘拐が成功してしまったら、魔族は死ぬしかなくなるからよ」
筋は通っている。だが、まだ疑問が残る。
目の前でお手上げ、両手を挙げている魔族に、俺は尋ねる。
「そっちの言い分は分かった。だが、何で俺に協力を依頼するんだ。
俺は弱いぞ、紋章は半端だし、武芸を磨いたわけじゃない。ちょっとばかり、ものの保存と持ち運びが上手い、荷物持ちだ」
おとがいに指を乗せて考え込んだ魔族は、急に顔を明るくして、悪戯っぽく笑う。
「好きだから、じゃ駄目?」
「冗談は止めろ」
一瞬胸がドキッとした事を隠して、真面目な顔で睨みつける。
魔族は、仕方ないわね、と呟いてから、しぶしぶといった様子で答える。
「君が適度に弱いからね。なまじ強者や勇者に魔族だって言ったら、そのまま戦闘になりかねない」
あー、つまり俺なら瞬殺出来るから、どんな展開でも戦闘にならないわけですね。
「それと、君、勇者に伝手があるでしょ。その伝手を使って聖女巡礼の護衛に入り込めるようにして欲しいのよ。過激派は聖女巡礼の移動中を狙うはずだから。そこ位しか、聖女を誘拐できるチャンスはないもの」
勇者試験に出てたから、勇者の知り合いは何人か居るけど、燃えない理由だ。別段、期待していたわけじゃないが、誰でも良かった、と言外に言われては、出るやる気も萎んでいく。
「協力してくるよね?」
魔族が、最後のねに一際強いアクセントを置いた。
形式は尋ねているが、実質は命令もしくは確認だ。なにせ、ここで協力を拒否しても、聖女様誘拐の情報を手に入れた俺は、それを阻止するしかないのだ。どう転んでも、やることが変わらないなら、協力し合った方がいい。
仮に聖女様誘拐が嘘で何かの計略だったとしても、この魔族の近くに居れば、少しは抑止力になるはずだ。
俺は大きなため息を吐き、さも仕方なさそうに首を縦に振った。
「協力する」
「うん、賢い子は好きよ」
目を三日月に細めて頬を緩ませる魔族に、俺はただし、と条件を突きつける。
「勇者や聖女、それ以外の無関係な人を傷つけない。
それと、協力するのは聖女様の護衛だけだ。それ以外の事、魔族に有利になりそうな事はやらないからな」
「うん、いいよー」
軽い調子で頷く魔族に、全身の力が持ってかれそうになる。
遊びの約束じゃないんだぞ。もうちょっと、言葉に重さを持たせろよ。
「かっるいなぁ。お前」
「お前じゃなくてリシェル。わたしの事はリシェルって呼んで。君の事はカールって呼ぶから」
「ああ宜しくリシェル」
「こちらこそカール……後、これは意趣返しよ」
俺の差し出した手をリシェルが握り締める。突然握り締めた手を引っ張った。
ピンク色の瞳が視界いっぱいに広がる。そして、唇に柔らかな感触を感じた。
「それじゃ、昼頃また来るから」
「な、おい」
俺が何かを言う前に、リシェルは窓から外に飛び出した。その耳が赤く染まっていたいのは、俺の見間違いだろうか。