プロローグ
俺は人生で最も衝撃的な満足感に襲われた。
呼吸が、いや、もしかしらたら、心臓さえも止まった時の中で、必死に目を凝らす。かすれた視界の端で、その人を捕らえた。
その人は傷だらけで、力尽きたように座り込んでいたが、生きていた。
それだけで十分だった。その人が、俺ごと吹き飛ばされていては、命がけで庇った価値がなくなってしまう。
呆然とした顔をしているその人に、俺は笑いかけようとするが、顔が思うように動かない。とても動きが緩慢なのだ。
そこで気付く。時間間隔が妙に緩慢なのだ。衝撃を受けてから、俺の感覚では十秒以上、経過している。幾ら上位の魔族が使役するゴーレムの一撃を受けたからと言って、そんな長い時間吹っ飛ぶはずがない。
なら、これは奇跡だろう。死ぬ直前に、聖神が俺に祈る時間を与えてくれたのだ。きっとそうに違いない。
申し訳ありません。
私はこの時間、あなたの為に、いえ、誰の為にも祈りません。
勇者試験授賞式、勇者候補が集まったこの場に魔族が襲撃しているんだ。最期の奇跡を彼らの援護に使わなくてどうする。
俺は右拳に刻まれた紋章に残る力の属性を水に変え、周囲に降らせる。ただの水だが、何十分の戦い続けたあいつらの疲労を少しは和らげてくれる筈だ。
その代わり、俺の右手の皮が、乾いた音と共に破裂した。
まるで痛みを感じない。ああ、もう痛みを感じるだけの命も無いのか。
背中が何かに当り、全身が跳ねる。衝撃が背骨を通して襲ってきた。
石畳が視界いっぱいに広がる。
奇跡が終わったんだ。
俺は自分が石畳の上に倒れている事に気付き、そして時間がいつも通り流れている事が分かった。
胸が痛い。
呼吸する度に、痛みが強まる。
息が苦しい。
幾ら息を吸っても、苦しくなるだけで楽にならない。
俺は死にかけている。
目の前は新月の夜のように真っ暗で、星の瞬き程度の光も無い。
最期の奇跡すら聖神の為に祈らなかった俺はきっと、その罪による責め苦を受けるだろう。終末の天秤が傾くその日まで、延々と繰り返される責め苦、それでも俺は満足だ。
迫り来る死の恐怖を感じながらも、俺は必死に納得しようとする。
光が見えた。
真っ暗になった視界に、黄土色に輝く光が見えた。
暖かい。あれが聖神の光なんだろうか。あそこには聖神の愛と慈悲が溢れているんだろう。
光を求めるようと、俺は手を伸ばそうとする。
全身に痛みが走った。まるで体の中から針で突き刺されるような痛みが、波のように寄せては引いていく。痛みが強くなる度に、声にならない悲鳴が口からあふれ出た。
無理だ。身体を動かすなんて、死んでしまう。
俺は光を見ていることしかできない。黄土色の光は近づく事も、離れる事も無く、たたずんでいる。
そして、俺が見えている前で、光は誰かに獲られてしまった。
真っ暗な海の中に落ち込むように、闇と寒さが全身を襲う。
寒い。骨が凍りになってしまったようだ。体中が燃え上がってしまいそうな位熱いのに、寒さで震えが止まらない。
俺は死ぬんだ。真っ暗な中、寒さと一緒にたった一人で死ぬんだ。
嫌だ。そんなの嫌だ。
死にたくない。まだ生きたい。
何で俺が死ななくちゃいけないんだ。俺じゃなくても良いじゃないか。どうして、俺なんだ。
勇者になれなかった。紋章は半端で本来の半分も機能しない。剣も魔法も使えない。それの何が悪いんだ。全部俺の所為じゃないだろう。
生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。生きたい。
生きたい
俺は欲した。生きる事だけを欲した。それでも足りなかった。右の紋章は完全に機能を止めて、ただの刺青になった。
それでも生を諦められない俺は、必死になって体中を生かそうとする。
好きだよ
女の子の声が聞こえた。忘れさせられていた何かの門が開く。
そして、左手が燃え上がる。解けた鉛を左手から流し込まれるように、熱は俺の神経を痛みで埋め尽くしながら、広がっていく。
痛い。
死ぬような苦しみを受けながらも、俺は死ねなかった。例え、死ぬような痛みだとしても、死ぬよりはましだった。
死がどれほど寒くて暗くて寂しいか知った今では、全身が焼かれるような痛みと、砕かれるような痛みと、刺されるような痛みを受けた程度で、生を諦める気にはならない。
生きたい。
俺は強く、生を欲した。