大和心
取っておきの緋色の留袖に袖を通しながら、己の婆馬鹿振りに苦笑する。
「大奥様、いかがされました?」
と問う家政婦に
「盤寿も過ぎたお婆さんが緋色言うのんも、派手過ぎまっしゃろうかと思うたら、つい」
と半分本音の言い訳をする。福は、盤寿を知らぬ三十路の彼女に時代の違いをしみじみと感じた。
福が若い頃は、こんなに自由な恋愛もなければ、好いた殿方と添い遂げることも夢のまた夢、ということが多い時代だった。華族生まれの福にとって、結婚とは自由の断念と同義だった。
渡部商店に過ぎなかった頃の初代会長――夫・邦夫の父親が福の父と進めた縁談だった。落ちぶれ華族になりつつあった安西の父にしてみれば、福によかれと思ってのことと、この人生を悔いることはないが。
『千草や邦彦を見ておったら、なんや恋とやらを知らない自分が損をした気分になるんどす』
親子以上に年の違う久我を相手に、そんな繰り言を苦笑とともについ零した。用向きは、なかなか信州から穂高の許へ帰らない翠を見舞いたい、という皮肉を交えた了承伺いだけだったはずなのに。彼女は釣られたのか苦笑を交え
「相変わらず若々しいご発想ですわ。私の方が老けているみたい」
と謙遜の言葉を零した。
「福さん、お気持ちお察し致しますけど、どうかあまり翠を苛め過ぎないでやってくださいね。あの子達にはあの子達なりの考えがあると思いますから」
へり下る物言いを保ちつつも、この自分に対して指示を出す。今の福の周りには、彼女を除いてほかにそんな人間がいない。彼女のそんな歯に衣着せない率直な人柄が、福ととても波長が合う。
『あら、人聞きが悪うおすな。夫婦でありながらなぜ別居を選んだのか、少し興味があるだけどすえ』
『それがいじめだと言うんです』
久我はそう零しつつも、翠によろしくと容認の返事をくれた。
年甲斐もなく、心が浮き足立った。最も手の掛かる孫だった穂高をあそこまで更生させた、翠という兵の嫁と初めて対面するのだから。
兵――女性を誉めそやすには、少々いただけない言葉かも知れない。だが、翠はあの過酷な過去を生きて尚、道を踏み外すことなく成長し、福でさえ果たせなかったことをやってのけた。繊細過ぎる故に堕ちてしまった穂高を立ち直らせた彼女を、ほかのどんな言葉で言い表してよいのか解らない。自分の最善の努力さえ及ばず拭ってやれなかった穂高の痛みから来るゆがみを、彼女の何が穂高を癒し、そして正してくれたのか。恋を知らない福には、女として興味をそそられる、と言ったらよいのだろうか。
(身を病んではるのが解っておりますのに、なぜ里へなど帰らはったんどす?)
福の勘が、警鐘を鳴らす。彼女と会わねばならないとふと思い立ってからひと月近くが経とうとしている。思い立ったが吉日という福らしくない遅滞振りだ。
とさり、と庭の松から積もった雪の落ちる音が聞こえた。同時に福の肩がぶるりと揺れた。
(恩義のある孫嫁が、穂高にあだなすお人とならはったわけとは違いますよね? 翠はん)
大寒の冷気だけが福を震わせた訳ではない気がする。とてつもなく、嫌な予感が福を焦らせていた。
「大奥様、御髪が整いました。これで宜しゅうおすか?」
家政婦の言葉で今に戻り、鏡の中の自分を見つめ、満足げに微笑んだ。
「おおきに。これで、翠はんに恥ずかしゅうない自分で対峙出来ます」
見舞うのではなく、対峙。気分は、ある種の戦いだった。
無用な気遣いをさせないように、出掛けに訪問の旨を告げた。診療所へ電話をし、電話口に出た女性に「平素のままで結構」と言伝を頼んでから赴いたのだが。
「翠です、初めまして。遠いところをお越しいただきまして、ありがとうございます。ご挨拶にも伺わないまま臥せってしまって。失礼を重ねたままで申し訳ありませんでした」
病室へ赴くと、そんな挨拶で翠に迎えられた。てっきり病で臥せっていると思っていた彼女は、萌葱色の上品な訪問着を纏い、三つ指をついて礼儀正しい立ち居振る舞いを見せたた。福はそれに驚きと好感を隠し切れなかった。
訪問前の電話で彼女の状態を聞いた時には、心不全の小発作を繰り返し、四肢の血管がダメージを受け始めていると聞いていた。華奢な身体は明らかに病状を伝えるが、清楚な化粧が、最大限それらを露出させまいと努力した痕跡を伝えて来る。高校の頃から親元を離れていたとは思えない彼女の節度と礼儀を重んじる慎ましさに、今の時代に絶え掛けている大和撫子を感じた。
「楽にしておくれやす。却って、えらいしんどい思いをさせてしまいましたな」
お名前と同じく萌葱の緑がよう似合うてはる、と彼女の心遣いを評すると、
「借り物なんです。すみません、自前がなくて」
と、翠は青白い頬をはんなりと染めた。なるほど、と思わず福の面にも笑みが零れる。
「穂高が恋しがるはずどすな。素直な、愛らしいお嬢さんですこと」
益々鮮やかな紅になる彼女を見ると、もっと縮こまらせてみたい意地悪な衝動に駆られた。
長時間の見舞いは翠の身体に負担が掛かる。社交辞令を抜きにして、早々に本題へと入らせてもらった。
「穂高は何を訊いても心配するなの一点張りで何も教えてくれはらないんどす。そうどすけんど、聞けばあの泰江はんが、穂高の身の回りを時折お世話してはると薫から聞かされまして。あの子の崩れた時に、あんなにも怯えていた信州に赴いてまで迎えに行ってくれはった翠はんらしゅうない対応どすさかい、何か思うところがあるのんと違うやろうか、思いましてん」
何かお力添え出来ることがあれば自分が、という言い回しで、何を目論んでいるのかを問い質した。
「……いえ、何も」
大姑ということだけでも充分萎縮しているであろう翠が、更に小さく身を縮ませて、ただそれだけをか細い声で返す。
「お金、どすか? それとも穂高のこの大事な時分、理屈では稀有の病だからと理解してはったとて、お気持ちがついていかず、妻だと認めて欲しいと渡部の者達に訴えたいのであらはりますか?」
「え?」
翠の頓狂な声と、鳩が豆鉄砲を食らったような顔が一瞬福の推測を揺るがせた。だが穂高から愚痴を零されたことがある。「コロコロと表情を変えるから、どこまでが本音でどこからが芝居か解らん」と。
「あの子が泰江はんとおつき合いさしていただいている時は、私も賛成しましたから。偉そうに物申すことはようしませんが、翠さんのその寛大さは、正妻であることから来はる余裕、どすか?」
それならば、それは大きな驕りどす。そう諭す言葉が、苦渋に滲んだ。
「お恥ずかしいお話どすが、邦夫――私の夫には、内縁がおりますんよ。元々親の決めた結婚どす。渡部には当時好いた女性があらはったんでしょう。次々とお妾はんを変えはりました。女としては屈辱どした。せやけど、今のお妾はんが産まはったお子に、罪はまったくあらしません。ほかの殿方を知らない私どすが、それなりに渡部への情もございますし、それごと渡部の女として守ろうと誓うたんが、丁度貴女の年頃、どした」
語りながら、思い出す。あの頃流した涙、屈辱のあまりに引き裂いた衣。人知れず苦渋を呑むことの辛さが、福の瞳を潤ませた。
「貴女から泰江はんを促すような不実なことを、何か穂高がしでかしましたやろうか。貴女を責めている訳ではないんどすえ。まだ私の中で、あの子の中にある武藤の血を、どこかで疎んでの心配と思うんどす。気に障られたら堪忍どすが……」
言葉を選びに選び、心の中で穂高にそっと詫びながら、翠に彼女の批難と受け取られぬ言葉を紡いで問い掛けた。不意に口を突いて出た『武藤浩市』の名が、まだ身の内に燻っていた恨みを認識させた。
「そうじゃ、ないんです……」
翠がか細い声で、俯いたまま呟いた。硬く握り合わされた彼女の拳に、雫がひとつ、はたりと滴り落ちて伝っていった。
「見られたく、ないんです。……どんどん醜くなっていく……私、を……」
幼稚な理由ですみません、というひと言を告げるまでに、この娘は何度しゃくりあげただろう。そして、彼女が“幼稚”と評したそれは、かつて福も痛いほどの苦しみの中で、強烈に抱いたものだった。そんな思いさえ、たった今この瞬間まで忘れていた。なぜそんなにも苦しかったのかという理由さえ、忘れていた。
「それだけ、どすか……」
手垢にまみれていた自分の憶測の下衆さにまで気づかされた。自分のまとった緋色が、身の内に湧いた羞恥を晒しているかのように見える。この娘には、そんな画策や回りくどい概念は一切ない。ただただ、存外に自分の見た目を卑下して、好いた相手の失望を恐れているだけ。
「嫌われるのが、怖い、んで、す……。穂高、の……ひっく……お荷物に、なっ、て、邪魔になり、たく……泰江ちゃんなら、穂高が、唯一気を許せ……る……だか、ら……すみ、ませ……子供み、たいで……とまら、ない……」
ハンカチで口許を抑えては涙を堪えようと足掻く姿さえいじらしく。折角の化粧も落ちて、青白い素肌が彼女の悲愴感をいや増させた。
(なんとまた、可愛らしい)
“幼い”とは微妙に異なる、彼女の初々しさに目を細める。娘の千草の恋煩いを、女として羨む目で見た遠い日を彷彿とさせた。
「翠はん。“大和心”という言葉をご存知どすか?」
向かい合って座していた席を立って彼女の隣へ座り直すと、福は彼女の怒らせた肩を抱いた。福の中で、遠い昔幼い穂高を泣きやませた時の懐かしさがこみ上げて来る。あやすように翠へ語り掛けた。
「潔しとする精神を言うほかに、『日本人らしい、まっすぐで素直な心』という意味でもあるんどすえ」
大姑と嫁ではなく、同じ女として言葉を紡ぐ。
夫の愛人と対峙したあと、まず自分が思ったこと、そしてしたこと。
「初めて出来た邦夫の内縁の方も、美しいお嬢さんどした。私よりひと回り以上もお若かったんどす。張りのなくなり掛けた自分の肌を醜いと見せつけられた気分になりましたんえ。渡部はあのとおり保守的な人で、今が安泰であればそれでいい、というお人どすから、私は陰ながら力添えすることにばかり気が行って、女であることを忘れていたと痛感させられました。相手さんに負けとうない、いう気持ちだけで、外ばかりを着飾っていたんどすなあ」
それでも、夫の心は自分のところへ帰っては来なかった。否、最初から、なかったのだ。
「今のお相手さんのお子さんと初めて会うた時、諦めがつきましてん。渡部の子らは、もう自立もある程度出来ている、この子にはまだ父親が必要や、と。それで私、宇治に家を頂戴しましてん。世間様の目というものがありますよってに、籍を抜いては差し上げられませんどしたが、邦夫は却ってそれ以降の方が、私の機嫌を窺うようにならはりました」
翠を慰め諭すつもりで話したつもりが、勝手に出て来る言葉は福自身にも気づきをもたらした。語りながら振り返ることで、初めて気づいた。そこに愛や恋ではないものの、夫からの情は施されていたのだと。
「穂高が好いたのんは、貴女の容姿だけではないと解ってはりますのやろう?」
いつしかこちらを見上げて話に聞き入っている翠の目を見つめ返し、思ったままを口にした。
「それに、昔のお写真を拝見しておりましたが、今の方が、ずうっとお綺麗どすえ。恋をしてはる女子の瞳というのんは、ほんに羨むほどに美しゅうおすな」
下唇をぐっと噛み締めて堪えていた彼女の涙が、堪え切れずにまた零れ出す。窓から注がれる西陽が、揺らめく彼女の瞳を瞬かせる。心から、思った。この娘は、何よりも心が美しい。同時に、年甲斐もなく嫉妬した。年よりひと回りは若く見えると言われて来たが、自分はこれまで一度もこんな綺麗な瞳をしたことなどないだろう。それがちくりと軽く胸を痛め、福の意地悪心がからかいの言葉を誘った。
「それとも、穂高では不満ということどしたか? 確かに、あの子より貴女に見合う素敵な殿方が世の中にたくさんあらしゃりますし」
福の他愛ない戯言に弾かれ、翠が首を何度も大きく横に振った。
彼女の中に、亡き娘を垣間見る。
「……っ」
声なき声で穂高への想いを告げる翠の中に、亡き娘が重なっていく。その勢いに負けたヘアピンが弾け、結い上げていた翠の髪を解いた。ふわりと翼を広げた様に豪奢な栗毛がひらめいて、その儚い美しさに、福は一瞬声を失った。ようやく最後の孫を託せると安心出来そうだったのに。翠の美しさが、まるで枯死する直前に最期の張りを見せる老いた桜の舞いに見えた。
「翠はん、貴女、まさか……」
彼女の体がぐらりと揺れた。咄嗟に彼女の肩を抱いた腕に力を込める。
「翠ちゃんっ」
がらりといきなり病室の扉が開き、先ほどの女性が飛び込んで来た。
「あ……ごめんなさい。大丈夫。すみま、せん」
彼女の少し乱れた襟元から、エメラルドのヘッドが飛び出した。それとともに、電子機器のコードと見られる白く細いビニールの筋がほんの一瞬福の目にとまった。その機器が目の前に突然現れた女性へ翠の異変を知らせたのだと瞬時に判断した。
「大奥さま、申し訳ありません。翠ちゃん、本当はあまり長い時間身体を起こしていると心臓に」
「香澄さんっ」
弱々しい声しか発しなかった翠が、福の目を見開かせるほどの鋭い声でその女性の言葉を制した。
「お婆さま、すみません。あの、お願いです」
縋る必死な瞳が、強い意思を孕む。その気迫に福は息を呑んだ。
「穂高には、まだ言わないでください。こんなに弱ってるなんてこと、まだ今の穂高には知らせちゃいけないんです、絶対に」
その目が強く命じて来る。穂高が大事ならば口をつぐめと強迫に近い意思が福に有無を言わせなかった。
「あの人は、なんでも自分の所為にしてしまうから。アタシの意思でここへ来たのに、送り出した自分の所為だと後悔して、また昔の彼に戻ってしまうから。お願いします。何も言わずに壊れていくのを、もう見たくないんです。今のアタシはもう穂高を迎えに行けない」
“何も言わず”
穂高の気性を表したその言葉が、方便の為に持ち出した武藤と重なった。
『浩市さん……なんで私を置いていかはったん……』
嘆く千草の言葉が福の中で蘇る。福は千草の発したその言葉を、武藤に対する恨みや呪いの言葉だとばかり思っていた。
だが、福は穂高の本心を知っている。あの不器用な孫に限って、武藤が千草にしたような扱いを翠にするはずがない。
(……武藤、あなたは……)
ずっとあの男を、金目当てで愛娘を利用した最低の男だと思っていた。定職に就かず、何かとすぐ千草の懐に甘えるいい加減な男、と。
穂高の口下手は、あの男譲りだ。脇道に逸れては必要のない苦労や心痛を味わう不器用さも千草には見られなかった穂高の一面。
それが堪らなく愛おしかった。その奥に秘められた感受性豊かで繊細な穂高の心を、福は生まれたその瞬間から見守り続けて来たのだから。
てっきり穂高の器の大きさは、千草から受け継がれた渡部のものだと思っていた。
(もしや……?)
武藤の子であることを受け容れた穂高が苦笑混じりに零した言葉を、本気で怒って撤回させたことがある。
『武藤の親父も、実は千草叔母の死んだ海で眠り続けてるんと違うかな。思い出の場所やったんやろう? 千草叔母の負担になる自分ってのがウザくなっただけなんかも知れへん。決めつける前に千草叔母にちゃんと聞けばよかったのに、アホやなぁ、って思うことにした』
そんな発想が出来る穂高にしてくれたのは、きっと――。
「解りました……その大和心を、これからもお忘れなさいますな」
この娘に自分が偉そうに諭すことなど何もないと思い知らされ、そう伝えるのがやっとだった。
久方振りに、赤子を抱く。女の子の割には凛々しい顔立ちをしている。どちらかと言えば、穂高によく似ていると思うと、自然と顔がほころんだ。
「気の強い子になりそうどすな」
憎まれ口がつい口を突く。望にぺちりと頬を叩かれ、「堪忍どすえ」と謝らされる破目に遭った。
「また会える日まで、お元気でいておくれやす」
今生の別れとばかりに、ひ孫を強く抱きしめる。小さな命の中に、かつての穂高、遥か遠い昔の千草を見た。
「翠はん……命を繋いでくれはって、おおきに」
「……いえ、そんな」
翠が言葉少ななのは、もう体力の限界なのだろう。香澄と呼ばれた女性の介助を受けながら、彼女は深々と頭を下げた。
わがままを通してしまったことを申し訳ないと思いつつ、望を抱きたいという気持ちを抑えることが出来なかった。きっと、最初で最後になると思ったからだ。
「翠はん、ほんに、おおきに。渡部は穂高に任せて、私も大和心を取り戻します」
どうせ愛人が看取るつもりなのだろうと放っておいた夫の介護に務める意思が、福の中に芽生えていた。
「え……私は何も」
「邦夫の死に水は、私が取りたいんどす。翠はんに、自分の本心を気づかせてもらいました」
それでも解らずきょとんと目をまるくしている翠を見たら、思わずくすりと苦笑が漏れた。
「憎からず思う情の内訳を貴女に教えて戴いた、ということどす」
そう言って彼女の襟元から覗く翠玉を指差す。
「穂高が随分悩んで選んだ物だそうどすな。薫に散々のろけられたと愚痴零されました」
翠が身を引こうとした理由が、もう解っていた。己の死期を知った彼女は、残りのすべてを自分の為ではなく、穂高に捧げてくれている。
「お互いに、死ぬまで現役で恋をして過ごしましょうな、翠はん」
彼女がそこまでする理由を、言の葉に乗せて共感の意を示した。
「……はい」
赤く頬を染めた彼女のまとう、萌葱の留袖がとても美しい。夕焼けと翠の頬に差した緋色が一層その色を引き立てる。こんな老いぼれでも、少しは役に立てたらよいのだが。自分ばかり救われていては、目上としては不甲斐ない。
「ほんならまた、こちらでお会いしましょうな。私より先に逝くのは許しませんえ」
あらん限りの感謝と羨望と情愛を込めて、福は翠へ再会の約束と声援を送ってその場を去った。