破壊的創作と二次創作の違い
私は小説を読むのが好きだ。
小説以外が嫌いだとかそういった話ではなく、漫画やアニメももちろん見るがそれでも小説を読むことが私の人生においてかなり大きいウェイトを占めていることはおそらく間違いない。
私が小説を読むときには大体現実のことなど考えていないことが多い。基本誰でもそうか。
だが現実が消滅したわけではないはずなのだ。
「この主人公がなぜこの考えでこの行動をするのか」「この戦法は現実でのこの戦法の改変だ」
考えていないわけではない。
だがそれだけでもない。こことは違う場所、こことは違う文化。そういったものたちが一種のルールに従ってこことは違う歴史を作っている。
これはとても素晴らしいものであるはずなんだ。きっとね。
私の持論の一つに『人間は今まであってきたものからしか物事を捉えることが出来ない』
みたいなニュアンスのふわっとした哲学思想が存在する。
出会う人すべてに裏切られてきた人は裏切らない人という存在を認識することはきっとない。
「裏切る」という定義が揺らいでいるのではという疑問はスルーすることにより解決することにする。
私はどう、生きてきたのだろう。
何を見てきたのだろう。
私は小説を読んで何を思い、何を感じているのだろう。
きっとその思考は今まで見てきた現実世界に存在した何らかの存在に照らし合わせているだけで、完全に新しい思考なんてないだろうね。
だが私の世界は現実だけではなかったはずなのだ。
それが小説の世界である。小説の持つ歴史である。
自己投影、という概念がある。
主人公や他のキャラクターに自身の意識を投影しなりきって考える。だっただろうか。
自信満々に「概念がある。」などと言っておきながらその言葉の意味さえも正しく知らないがふんわりとニュアンスを汲み取ってくれたまえ。
私はこのキャラクターに自己投影する読み方を小説を読み始めた幼子の頃にはしていたことがあるのだと思う。
これは厨二病や何かではなく自分とは異なる存在を自分のことのように考えるという道徳教育から出た発想であったと記憶している。
だが、問題が生じていた。私が生きる世界はエキセントリックでスタイリッシュな小説の世界ではなく、現実世界である。
現実世界に生きる私は、現実世界に生きない彼らキャラクターの思考が常にどこかズレていた。
投影が正確ではなかったのである。
そこで私は『私』を作った。
これは現実世界に生きていない私である。
私の精神に居する世界にのみ生きる、私ではない私である。
この私なら小説の中の彼らの思考と重ねることが出来る。
現実という檻にもならぬ網をすり抜け世界を旅することが出来た。
これが私は好きだったのである。




