パワハラ部長ですが、何か?
「だから、何度言えばわかるんだ!」
会議室の空気が、ぴしりと凍った。
長机の向こう側で、若手社員の三原が肩を震わせている。
「この数字の根拠はどこだ」
俺は資料を指で叩いた。
紙の上で、爪が乾いた音を立てる。
三原は、唇を振るわせながら答えた。
「先方から共有された、前回の販売データをもとに――」
「もとに、じゃない。根拠を聞いてるんだよ」
声を荒らげた瞬間、会議室の隅にいた女子社員が小さく肩を跳ねさせた。
だが、俺は気にしなかった。
仕事とは結果だ。
数字がすべてなのだ。
社会人は学生ではない。
いつまでも、手取り足取り優しく教えてもらえると思うな。
俺ーー黒瀬真人は、四十二歳。
大手食品メーカーの営業部長である。
同期の中では最速で管理職に上がり、部の売上を三年連続で伸ばした。
その代わり、部下も三年連続で減った。
「三原。おまえ、自分が何を任されているかわかっているのか」
「……はい」
「わかってないから、こんな資料を出すんだろ」
三原の指が、膝の上でぎゅっと握られる。
「申し訳ありません。修正して、今日中に再提出します」
「今日中?」
俺は鼻で笑った。
「今日中じゃ遅いんだよ。二時間後には役員向けの事前説明がある。おまえの“申し訳ありません”で許されるのか?」
三原は何も言えなくなった。
会議室に沈黙が落ちる。
「使えない奴は、いなくても同じだ」
会議が終わると、社員たちは逃げるように部屋を出て行った。
静まり返った会議室で、俺は一人、窓の外を見た。
ーーその時、スマートフォンが震えた。
画面には、ペット用のお留守番カメラの通知が表示されている。
白い大きな犬が、カメラの前でこちらを見ていた。
犬の名前は、サモエドの”ハク”。
ハクはいつも、黒瀬の帰宅時間になると玄関で待っている。
会社に、俺を待っている人間はいない。
飲みに誘う部下もいない。
休日に連絡をくれる友人もいない。
家族と呼べるものも、とっくにない。
だが、ハクだけは待っている。
「……今日は遅くなる」
画面の中のハクに向かって、俺は小さく呟いた。
ハクは、まるで俺の声が聞こえたように尻尾を振った。
俺は目を細めた。
その表情を、会社の誰かが見たならきっと、腰を抜かして驚いただろう。
”地獄の部長”にも、そんな顔ができるのか、と。
その夜、帰宅したのは午前一時を過ぎてからだった。
玄関を開けると、白く大きな塊が飛び出してくる。
「ちょっと待て、ハク」
ハクはいうことを聞かず、尻尾を振ながら俺の足元をぐるぐる回り、それから前足を上げて彼の膝に触れた。
「わかった。わかったから、落ち着け」
俺がコートを脱ぐ前に、ハクの頭を撫でた。
ふわふわとした毛が、指の間をすり抜ける。
人間関係というものは、面倒だ。
期待し、裏切られ、勝手に傷つき、勝手に去っていく。
その点、犬はいい。
ただ、そこにいるだけで癒してくれる。
「おまえは楽でいいな」
ハクが首をかしげた。
「嫌味じゃない」
わん、とハクが鳴いた。
俺は鼻で笑った。
「そうか。不服か」
ハクはもう一度、わん、と鳴いた。
その夜、俺はベッドまで辿り着けず、ソファで眠った。
電気を消す気力もなかった。
スーツのまま横になると、ハクが足元に丸くなった。
白い毛の塊が、静かに呼吸している。
その音を聞いているうちに、意識が沈んだ。
***
朝五時半。
目覚ましが鳴る前に、ハクが鼻先で俺の頬をつついた。
「……わかった、わかった」
俺は重い身体を起こした。
睡眠時間は四時間に届いていない。
頭の奥が鈍く痛む。
胃のあたりも重い。
健康診断では毎年、医者に同じことを言われる。
『このままだと、いつか取り返しのつかないことになりますよ』と。
俺はそんなこと言ってられないんだ。
内心でそう返し続けて、もう何年になるだろう。
洗面所で顔を洗い、コートを羽織る。
ハクは玄関で尻尾を振って待っていた。
散歩だけは、どれだけ疲れていても欠かさない。
ハクにとって一日は、俺が玄関を開けるところから始まる。
ならば、そこだけは裏切るわけにはいかない。
外に出ると、冬の朝の空気が頬を刺した。
まだ街は薄暗い。
マンションの窓にぽつぽつと灯りが残り、遠くの道路を新聞配達のバイクが走っていく。
白い息を吐きながら、俺はハクのリードを持って歩いた。
近所の公園を抜け、川沿いの道へ出る。
「寒いな」
ハクがこちらを見上げる。
「お前は毛皮があるからいいだろう」
『わん!』
「そうか。文句か」
『わん!』
黒瀬は鼻で笑った。
ーーその時だった。
ハクが急に立ち止まった。
耳を立て、道路の向こうを見ている。
「どうした」
次の瞬間、角を曲がってきたトラックが、異様な速度で俺たちの元へ突っ込んできた。
運転手の顔が見えた。
目を見開き、ハンドルを切ろうとしている。
ーー間に合わない!!
俺は、ハクの身体を強く抱き寄せた。
考える暇などなかった。
冷たいアスファルトの匂い。
誰かの悲鳴。
遠くで鳴るクラクション。
そこで、俺の意識は途切れた。




