第一話 正しすぎた女
雨は、まだ降りだしていなかった。
ただ窓の外の空だけが、銀の匙で薄く削ったように曇っていた。アルテンブルク家の応接間は、火の気があるのに寒かった。壁にかけられた猟銃も、白い鹿の角も、客人をもてなすための花瓶も、今日はみな役目を忘れているように見えた。
ユリア・フォン・ヒルシュアイスは、長椅子の端に腰を下ろしていた。
背筋はまっすぐだった。膝の上に重ねた手も、乱れていない。淡い灰色の手袋の縫い目だけが、少しきつく引かれている。
それに気づいた者がいたとしても、たぶん緊張とは思わなかっただろう。
ユリアはいつも、感情の置き場所に困らない女に見えた。
ニコライ・フォン・アルテンブルクは、その向かいに立っていた。
座ればいいのに、座らなかった。
さっきから暖炉の前と窓辺のあいだを、三度ほど歩いた。歩いたというより、逃げ場を測ったという方が正しかった。
「座ったら?」
ユリアが言った。
ニコライは足を止めた。
「いや、このままでいい」
「そう。立っている方が言いやすいことなのね」
ニコライの顔に、かすかに疲れた笑みが浮かんだ。
笑みと呼ぶには、あまりに薄かった。
「君は、そういうところが変わらない」
「変えろと言われた覚えはないわ」
「言ったことはある」
「遠回しにね。遠回しな言葉は、本人の罪悪感を薄めるには便利だけれど、相手に伝えるには不便よ」
ニコライは黙った。
沈黙は長くなかった。
けれど、その短い沈黙の中に、婚約してからの二年が粗く畳まれているようだった。
舞踏会の夜。
庭園での散歩。
母親の顔色をうかがうニコライ。
笑顔で嘘をつくニコライ。
その嘘を、礼儀正しい声で切ったユリア。
どれも小さなことだった。
小さなことは、たいてい人を殺さない。だが、毎日少しずつ水を含ませた紙のように、気づいた時には手で持てないほど弱くなっている。
「ユリア」
ニコライはようやく名前を呼んだ。
「はい」
「僕は、君と結婚できない」
ユリアは瞬きをしなかった。
窓の向こうで、遠くの木立が風に揺れた。
まだ雨は降らない。空は降る準備だけをしている。
「でしょうね」
ニコライの眉が動いた。
「驚かないのか」
「あなたは三か月前からその顔をしていたもの」
「顔?」
「食前酒を飲む時、左手で杯を持つようになった。右手を空けておきたかったのでしょう。いつでも手袋を直せるように。緊張した時の癖ね。それと、私を見る前に一度だけ窓を見る。逃げたい時に人は出口ではなく、外を見るの。出口を見ると自分でも気づいてしまうから」
ニコライは息を吐いた。
それは感心ではなかった。怯えでもない。もっと乾いた、底のない疲れだった。
「そういうところだ」
ユリアは少しだけ首を傾けた。
「曖昧ね」
「分かっているだろう」
「分かることと、あなたの口から聞くことは違うわ。言葉を他人に預けるのはよくない。あとで自分の傷の形まで、人のせいにすることになる」
ニコライは暖炉の火を見た。火は静かに薪を舐めていた。
「君はいつも正しい」
「褒め言葉ではないわね」
「褒めたかった時もある」
その言葉は、ユリアの胸のどこかに小さく触れた。
痛いというほどではない。
ただ、皮膚の下を針がかすめたような感じだった。
ニコライは続けた。
「最初は、君のそういうところに惹かれた。誰にも媚びない。くだらない冗談に笑わない。嘘を見抜く。僕が言えないことを、君は平気で言った。綺麗だと思った」
「綺麗、ね」
「うん。僕は本当に、そう思っていた」
ユリアは彼を見た。
ニコライは嘘をついていなかった。少なくとも、この瞬間は。
「でも、だんだん怖くなった」
「私が?」
「君の正しさが」
ユリアは黙った。
ニコライの声は荒くなかった。むしろ穏やかだった。だから余計に、逃げ場がなかった。
怒りなら反論できる。侮辱なら切り返せる。だが、疲れ切った人間の静けさは、刃を当てる場所がない。
「僕が母に逆らえなかった時、君は言った。『あなたの意見は、よく食卓の向こうから聞こえるのね』と」
「事実だったわ」
「そうだ。僕が孤児院へ寄付した時、君は言った。『善行に鏡を置くのはやめなさい』と」
「あなたは、感謝される顔を見たがっていた」
「そうだ」
ニコライは笑った。今度の笑いは少し苦かった。
「僕が君に『君のためを思って』と言った時、君は言った。『自分を悪者にしたくない人は、よくその言い方をする』と」
「それも事実よ」
「そうだ。全部、間違っていない」
彼はそこで言葉を切った。
火の中で薪が崩れた。小さな音だったのに、部屋全体がそれを聞いたような気がした。
「だから、耐えられない」
ユリアは、膝の上の手を見た。
手袋の縫い目が、ほんの少しだけ歪んでいた。彼女はそれを直そうとして、やめた。
「間違っていないなら、なぜ耐えられないの」
ニコライは目を伏せた。
「人は、毎日自分の弱さを解剖されながら生きてはいられない」
「私はあなたを解剖したつもりはないわ」
「君には本当にそのつもりがないのだろうね。だから、苦しかった」
ユリアは返事をしなかった。
それは少し、不思議な言葉だった。
悪意があるから傷つくのではない。悪意がないから、もっと深く傷つくことがある。
ユリアはそれを理屈としては知っていた。
人間はそういう面倒な生き物だ。自尊心を守るために嘘をつく。嘘を守るために怒る。怒りを正当化するために、別の嘘を重ねる。
だが、今のニコライは嘘をついていない。
それが厄介だった。
「では、私はどうすればよかったの」
ユリアの声は平らだった。
ニコライはその平らさに、少しだけ顔を歪めた。
「分からない」
「無責任ね」
「そうだと思う」
「あなたは私に、どうすればよかったか分からないまま、耐えられないと言っているの」
「そうだ」
「それは、ずるいわ」
「うん」
ニコライは否定しなかった。
否定されれば、ユリアはもう少し楽だった。相手の自己欺瞞を見つけ、そこを切ればよかった。
だがニコライは、自分の弱さを今日だけは隠さなかった。
「僕はずるい。弱い。君の言う通り、嫌われることが怖い。母に逆らうのも怖い。自分の親切に、自分で酔うこともある。君はそれを全部見つける」
「見つけられたくないなら、直せばいい」
「そういうところなんだ」
ニコライは初めて、少しだけ強い声を出した。
そのあと、すぐに悔いたように唇を閉じた。ユリアはそれも見た。見たくなくても見えた。
「人は、直せと言われて直せるほど立派じゃない」
「なら、見逃せばよかった?」
「たぶん」
「嘘を?」
「小さい嘘なら」
「小さい毒なら飲めと言っているのと同じよ」
「そうかもしれない」
「あなたは、自分が楽になるために、私に鈍くなれと言っている」
ニコライは目を閉じた。
「そうだ」
ユリアは、少しだけ息を吸った。
部屋の空気は乾いていた。
舌の奥に、冷めた紅茶の渋みが残っている。いつ飲んだものだったかも、思い出せなかった。
「分かったわ」
そう言うと、ニコライは顔を上げた。
「分かった?」
「あなたが私と結婚したくない理由は分かった。納得はしていないけれど」
「ユリア」
「何?」
「怒っていい」
「怒る理由を整理しているところよ」
ニコライは小さく笑った。
泣きそうな顔で笑う男は、見ていて居心地が悪い。笑うなら笑えばいいし、泣くなら泣けばいい。
混ぜるから、見る側が余計なことを考える。
ユリアはそう思った。
けれど、その考えを口にはしなかった。
言えば、彼はまた傷つく。そう思ったからではない。ただ、今それを言う必要がなかった。
必要がないことを言わない程度の分別は、彼女にもあった。問題は、彼女の「必要」の範囲が、人より少し広すぎることだった。
「婚約解消の書面は?」
「父が用意している」
「理由は?」
「性格の不一致」
「便利な言葉ね。何も言っていないのに、何か言った顔ができる」
「君ならそう言うと思った」
「予想できたなら、もう少しましな言葉を選べばよかったのに」
「最後まで、君らしい」
「最後だからといって、急に別人にはなれないわ」
ニコライは頷いた。
二人の間に、また沈黙が落ちた。
今度の沈黙は、さっきより長かった。だが重さは少し違っていた。始まる前の沈黙ではなく、終わった後の沈黙だった。
外で雨が降りだした。
最初は窓硝子に小さな点がついただけだった。それがすぐに線になり、庭の裸の枝を濡らした。雨は、待っていたものがようやく許されたように、静かに降った。
「馬車を呼ばせる」
ニコライが言った。
「ええ」
「送ろうか」
「不要よ」
「そう言うと思った」
「あなたに送られると、使用人たちが気を遣うわ。気遣いは伝染するの。廊下が不自然になる」
「君は本当に……」
ニコライはそこで言葉を飲み込んだ。
ユリアは立ち上がった。
灰色のドレスの裾が、絨毯の上で小さく揺れた。
彼女は乱れのない仕草で手袋の指先を整えた。整えたあとで、自分がさっきまで縫い目を気にしていたことに気づいた。
ニコライも気づいたかもしれない。
だが、何も言わなかった。
それが、今日の彼の唯一の優しさだった。
「ニコライ」
扉へ向かいかけたところで、ユリアは振り返った。
「何だい」
「あなたは、私を嫌いになったの」
ニコライはすぐには答えなかった。
雨の音が、その沈黙を少しだけ隠した。
「嫌いになれたら、楽だっただろう」
ユリアは頷いた。
「そう」
それだけ言って、扉を開けた。
廊下には、アルテンブルク家の侍女が一人立っていた。目が合うと、侍女は慌てて頭を下げた。
聞いていた顔だった。聞くつもりはなかったのだろう。だが古い屋敷の扉は、人の秘密を守るほど厚くない。
ユリアは侍女を責めなかった。
「馬車を」
「は、はい。ただいま」
侍女は逃げるように去った。
ユリアは廊下に一人残された。壁には、アルテンブルク家の先祖たちの肖像が並んでいる。誰も彼女を見ていないのに、皆が見ているようだった。
階段を下りる時、彼女は一度だけ手すりに触れた。
古い木は冷たかった。
玄関広間に出ると、雨の匂いが入り込んでいた。馬車はまだ来ていない。扉番の男が外を見て、帽子を押さえている。
ユリアはその横顔を見ながら、ニコライの言葉を反芻した。
君は間違っていない。
だから、僕はもう耐えられない。
妙な言葉だった。
間違っているから捨てられるなら、分かる。
冷たいから嫌われるなら、分かる。
悪いことをしたから罰を受けるなら、分かる。
だが、間違っていないから耐えられないというのは、どういう分類に入れればいいのだろう。
人間は、分類を嫌う。
だが、分類できない痛みは、扱いに困る。
馬車が玄関前に停まった。
御者が扉を開ける。ユリアは礼を言って乗り込んだ。馬車の内側は薄暗く、座面の革が冷えていた。
車輪が動き出す。
アルテンブルク家の屋敷が、雨の向こうへゆっくり遠ざかっていく。白い柱も、濡れた庭も、窓辺の火の色も、少しずつ輪郭を失った。
ユリアは泣かなかった。
涙は事実を変えない。
それは本当だった。
ただ、事実を変えないものが、すべて無意味だとは限らない。
彼女はその考えを、すぐに打ち消した。
馬車の窓に、雨粒が一つ流れた。
それは涙に似ていたが、もちろん涙ではなかった。
ただの雨だった。




