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歴史的経緯

北方領土問題に関し、歴史的な問題意識を書き出しました。

1.終戦までの経緯


 1945年夏の,ソ連による北方領土占拠に関しては,手短に説明する観点からか,あたかもロシアの一存により,一方的に行われたかのような説明が多いと見られるが,実は次の通り米国,英国,ソ連の合意に基づくものと解釈できる。


(1)1945年2月,クリミア半島のヤルタに,米国(ルーズヴェルト大統領),英国(チャーチル首相),ソ連(スターリン首相)の首脳が集まり,第二次世界大戦の終結と,その後の世界秩序に関して討議した。

 そこで米英両国は(原爆開発の成否が不確かな中で)対日戦を有利に運ぶためにソ連参戦を切望し,スターリンの要望を踏まえ,ソ連の対日参戦の見返りの一環として,2月11日に次の通り約束した。  


〇 ソ連の対日参戦に関する協定 (ヤルタ秘密協定)


 三大国 ―ソヴィエト連邦,アメリカ合衆国ならびに英国― の首脳は、ドイツが降伏し、且つヨーロッパにおける戦争が終結して二、三か月後、ソヴィエト連邦が次の条件により連合国にくみし、日本国に対する戦争に参加することについて合意した。


 1. 外蒙古(モンゴル人民共和国)の現状は維持される。


 2. 1904年に日本の背信的攻撃によって侵害されたロシアの旧権利は回復される。すなわち、


(A)サハリン(樺太)南部及びこれに隣接する全ての島々はソヴィエト連邦に返還される。


(B)大連商業港は国際化され、同港におけるソヴィエト連邦の優先的利益は保護され、またソヴィエト連邦の海軍基地としての旅順港の租借権は回復される。


(C)東支鉄道及び大連への出口を供与する南満州鉄道は、中ソ合弁会社の設立により共同に運営される。但しソヴィエト連邦の優先的利益は保障され、また中国は満洲における完全な主権を有する。


 3. 千島列島はソヴィエト連邦に引き渡される。


 外蒙古及び前記の港湾と鉄道に関する協定は、蒋介石総統の同意を要するものとする。大統領は、スターリン元帥からの通告により右の同意を得るための措置を執る。

 三大国の首脳は、ソヴィエト連邦の右の諸要求は、日本が敗北した後に確実に実行されることについて合意した。

 ソヴィエト連邦側は、中国を日本のくびきから解放するために軍隊によって支援すべく、ソ連と中国との友好同盟条約を中華民国政府と締結する用意があることを表明する。


(注)ソ連のグロムイコ元外務大臣は「グロムイコ回想録」(翻訳 読売新聞社 1989年第1刷)の中で,ヤルタ会談の最中,グロムイコがある朝,スターリンから緊急の呼び出しを受けた際のやりとりを記録している。


「彼の書斎に着くと,スターリンは一人だった。・・・スターリンに英語で書かれた緊急の書簡が届いたところだった。彼はその書簡を私に渡し,言った。『ルーズベルトからだ。会談が始まる前に,彼が何を言ってきたのか知りたい。』私はその場でざっと翻訳し,スターリンはそれを聞きながら,ときどき私に繰り返すように言った。書簡はクリル(千島)列島とサハリン(樺太)についてだった。ルーズベルトは,アメリカ政府が日本占領下にあるサハリンの半分とクリル列島についてのソ連の領有権を承認する,と言ってきたのだった。スターリンは非常に喜んだ。部屋の中を歩き回り,なんども『よし,いいぞ!』と繰り返した。」



(2)日本は1945年6月頃より、日ソ中立条約に基づき対日中立を維持していたソ連に対し、(おそらくヤルタ合意を知らぬまま)終戦のための斡旋を依頼し、このため東京で広田元首相とマリク・ソ連大使との間に接触を持ち、更に近衛文麿をソ連に特使として派遣しようと画策。ソ連側より明確な回答なし。


(3)1945年7月16日,米国で原爆実験が成功する。同7月26日,米国,中国,英国の首脳によりポツダム宣言が発出される。(ソ連は8月8日に参加)


(4)同年8月6日,広島に原爆投下。8月8日,ソ連,対日宣戦布告。

    8月9日,ソ連軍,満州へ侵攻開始。同日,長崎に原爆投下。


(5)8月中旬に入り、米国は,広範な領域において日本軍の投降を受け入れ、武装解除する準備の一環として,米英中ソ等による分業体制を整える為、連合軍最高司令官(SCAP)の「一般命令第1号」の作成に着手した。

 一般命令第1号(SCAP)の内容は,米ソ間で1945年8月18日に合意された。その中で日本軍は,北海道では(本土の一環として)米軍、南樺太や千島列島ではソ連軍に投降する事とされた。これを受けてソ連軍は千島列島に侵攻を開始。(なお一般命令第1号の発布は、降伏文書署名と同じ9月2日)


(ア)8月13日、米国で起案された一般命令第1号(SCAP)の当初案には、ソ連軍が日本軍の投降を受けるべき地域として満州、北緯38度線以北の朝鮮半島、南樺太が入り、(ヤルタ秘密協定で約束の)千島は欠落していた。トルーマン米大統領は、これをソ連のスターリン元帥に打診した。


(イ)これに対しスターリンは、8月16日、上記に加えて千島列島、そして北海道の(留萌・釧路を結ぶ線を境界とする)北東部を所望する旨、トルーマンに回答。


(ウ)8月18日、トルーマンは、スターリンに対し、千島列島を入れる事について了承、北海道については拒否する旨回答した。


(出典:米国務省の公開文書「Foreign relations of the United States : diplomatic papers, 1945. The British Commonwealth, the Far East」。ウィスコンシン大学図書館のサイト参照)



(6)日本は8月14日に連合国側に対し,ポツダム宣言を受け入れて降伏する旨伝達し,翌8月15日に国民に公表された。同8月15日,米国マッカーサー元帥が連合国最高司令官に就任した。従ってこれ以降,対日参戦したソ連軍も同元帥の指揮命令系統下に置かれた。


(7)8月17日,日本側は米側に対し,ソ連が日本の降伏後もなお攻勢を続けている旨苦情を伝達し,マッカーサー元帥の仲介を依頼した。(1955年出版の「トルーマン回想録」(第1巻)による)


(8)一般命令第1号(SCAP)の協議が米ソ間で整ったのを踏まえ、ソ連軍の歩兵部隊は、8月18日にカムチャッカ半島の東側を船で南下し,千島列島への侵攻を開始した。そして8月23日に日本軍の拠点だったシュムシュ島が陥落すると,そこから島伝いに南下し,8月31日には北方4島のすぐ北東のウルップ島を占拠し、そこで進軍を停止した。


(9)北方4島に関しては,8月29日から9月5日にかけて,サハリンから侵攻してきたソ連海軍(太平洋艦隊の別動隊)により,次の通り占拠された。


 8月29日   択捉占拠

 9月1日    国後・色丹占拠

 9月3~5日  歯舞占拠


(9月5日は奇しくも1905年に日露戦争後のポーツマス講和条約が締結された日であり、この度のロシアの侵攻の動機づけとして、日露戦争の雪辱があった事が強調される)


(10)米軍は,先遣隊が8月下旬に日本に入り,本体は9月2日の一般命令第1号発布後に日本進駐を開始した。


 8月28日 連合軍先遣隊146名が厚木に上陸。

 8月30日 米国マッカーサー元帥がマニラから、連合軍最高司令官(SCAP)として厚木に到着。


 9月2日 東京湾の米艦ミズーリ号上で,降伏文書の署名式。(同日,一般命令第1号の発布。)

 9月8日 米軍本体の東京入り。


 10月4日 米軍,函館上陸。

 10月5日  米軍,小樽上陸。


(11)このようにソ連軍は,日本に米軍不在の時期に千島列島を南下したが,上記(5)、(6)の経緯から分かる通り,米軍はこれを黙認していたものと見られる。


(12)1956年の日ソ共同宣言で,ソ連が平和条約締結後に歯舞,色丹を返還する旨約束したのは、両党が千島列島の一部でないにも拘わらず、ソ連海軍が勢い余って占拠したことを認めているからだろう。



 2. サンフランシスコ平和条約



(1) 連合国側は戦後の日本の領土に関し,概ね日清戦争以前の領土に戻すことを企図した形跡があり,それがサンフランシスコ平和条約(1951年調印)に反映されている。


(2) 但し明白に右哲学に反する部分があり,それが千島列島である。何故ならば(1855年の日露和親条約で我が国領土と確認した北方4島以外の)千島列島は,日露戦争後の講和条約(1905年のポーツマス条約)の結果,我が国が獲得した領土ではなく,1875年の日露間の樺太千島交換条約により平和裡に獲得しているからである。


(3) この例外が生じた背景にはヤルタ協定(1945年2月)があり,そこで米・英両国首脳が,スターリンからの対日参戦の約束と引き替えに,報償の一部として千島列島を約束し,その内容がサンフランシスコ平和条約に反映されている模様。


(4) 但しサンフランシスコ平和条約調印の頃までには米ソ関係が悪化し,米国は同条約に署名しなかったソ連に対し,日本の放棄した南樺太や千島列島の領有権を含め,同条約の利益が及んではならないとした。



 3. 平和条約交渉と日ソ共同宣言



(1) 1952年3月20日に米議会上院は、サンフランシスコ平和条約の批准に伴う付帯決議の中で、ヤルタ協定を承認することを拒否し、その中で歯舞諸島と色丹に関し、千島列島とは概念的に区別している。


(2) 1956年8月、重光外相が歯舞・色丹の返還のラインでソ連と平和条約交渉を進めようとした際、ダレス米国務長官がこれに異議を唱え、9月には国務省より択捉・国後を含む4島を日本の領土と考える旨の覚書が外務省に伝達された。


(3) この様な経緯から平和条約締結を先送りし、1956年10月署名の日ソ共同宣言により、戦争状態を取り敢えず終結させた次第である。この中でソ連が、平和条約締結後に歯舞,色丹を引き渡すことに同意する旨言及したのは、両島が北海道の一部であり、千島列島の一部でないにも拘わらず、ソ連海軍が勢い余って占拠したことを認めているからだろう。



 4. なお千島列島は本来、国後・択捉を含むとの解釈もあり得えようが,日本の主張は次の通り。


「千島列島に関し,日本がサンフランシスコ平和条約で放棄したのは,全てでは無く,1875年の千島樺太交換条約の結果,日本の領土となったシュムシュからウルップまでに限定される。国後・択捉は,終戦以前にソ連やロシアの領土を構成したことがないので,右2島まで含めてしまうと,明らかにロシアの領土拡大となり,領土不拡大を原則化した大西洋憲章,カイロ宣言,ポツダム宣言違反」


 但し上記の日本側主張に関しては、サンフランシスコ平和条約の千島列島に関する記述に,それに沿った断り書きが有る訳では無いので、日本側交渉担当者が苦労する所以である。

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