夜の海辺
その海岸には、灯りがない。
海水浴客でにぎわう昼間とは打って変わって、夜になると真っ暗な闇がすべてを飲み込む。
街灯も、監視員も、スマホの電波すら届かない。
それなのに、俺は夜の海を見に行く癖があった。
波の音に包まれて、現実から切り離されたような感覚が好きだった。
その晩も、俺は仕事帰りに車を飛ばし、海辺に立っていた。
月は薄く雲に隠れ、視界はほとんど利かない。
足元の砂の感触と、潮風だけが、ここが現実であることを教えてくれる。
しばらくぼーっと波を眺めていると、ふと、視界の端に“人影”が見えた。
右手の方、浜辺から少し離れた防波堤の上に、誰かが立っている。
遠目では性別も年齢もわからない。ただ、まっすぐ海を見ている。
こんな時間に物好きだな……そう思いながらも、俺はなんとなく気になって声をかけに行った。
暗い夜の海で誰かに話しかけるなんて、普通じゃない。だが、それ以上に“孤独感”がその影から滲み出ていた。
「こんばんは」
近づいて声をかけると、相手はゆっくりとこちらを向いた。
女だった。顔は暗くて見えない。長い髪が濡れている。
濡れている? 波打ち際から離れているのに?
「どうしたんですか? こんな時間に」
彼女は何も言わなかった。
ただ、じっと俺を見つめていた。
しばらくして、ようやく口を開いた。
「……帰れなくなったの」
「え?」
「迎えに来るはずだった人が、来なかった」
彼女は足元に置かれた大きなバッグを指差した。
見ると、濡れたワンピースやサンダルが無造作に詰め込まれている。
着替えか? まるで、家出でもしたような荷物だ。
「どこまで帰るんですか?」
「遠いから、もういいの」
そう言って、彼女は海の方を見た。
「ここにいたら、迎えに来てくれるかもしれないし」
そのとき、俺はふと、足元にある“もう一つのバッグ”に気づいた。
先ほどのよりも小さく、赤い染みがついていた。
何かが変だ、と直感した。
「誰が迎えに来るんですか?」
彼女は笑った。だがその笑みは、どこか壊れていた。
「さっきまで一緒にいたの。でも、静かにさせたから……もう、迎えに来られない」
背筋に氷が這う。
「静かに……?」
「声がうるさかったから。わたしのこと、裏切ったの」
俺はそっと後ずさった。だが、足が砂に取られてバランスを崩した。
その拍子に、赤いバッグの口が少し開いた。
中にあったのは——人の手だった。
小さく、白く、そして、ぶら下がった婚約指輪。
彼女は静かに、防波堤から下りてきた。
まるで、幽霊のようにゆっくりと。
「あなた、やさしそうだね」
「わたしのこと、迎えに来てくれたんだよね?」
俺は言葉が出なかった。
逃げなきゃ。ここにいちゃいけない。
「一緒にいてくれるよね?」
彼女は笑いながら、何かをポケットから取り出した。
小さなカッターナイフだった。
濡れていたのは、海水ではなかったのか。
俺は背を向けて走った。砂浜を、車のある場所まで必死で。
彼女の足音は、なぜか追ってこなかった。
その代わり、あの言葉が、ずっと耳にこびりついていた。
「ここにいたら……きっと、迎えに来てくれる」
翌朝、ニュースで見た。
「若い男性、海岸近くで刺殺体として発見」
発見現場は、昨夜俺がいたその場所。
そして、未だ犯人は見つかっていない。
ただ、警察は「目撃証言が一件ある」と報じた。
曰く、深夜の海辺で、白いワンピースの女と男性が話していた——と。
その証言者の顔は、テレビには映らなかった。
ただ、あの笑い声だけが、テレビ越しに聞こえた気がした。