快晴、ときどき巡り逢い
特に用事もない、ただの休日。
天気予報通りの秋晴れ。
冬の匂いを忍ばせた、肌寒い空気。散歩がてらに外へ出たけれど、もう少し厚めの上着でも良かったかな、とぼんやり考える。
絶妙にタイミングの合わない信号に、苛立ちというほどのものでもないけれど、かと言って決して気分の良いものでもない何かが心にぽたりと落ちてシミを作る。お気に入りのプレイリストを聴いても、何だかあまり気分じゃないような気がしてくる。
車道を挟んで反対側の歩道では、講義帰りだろうか、似たような髪型と服装の女子大生二人がキャピキャピとはしゃいでいる。
いや、今日は日曜日だからサークルかな。わざわざ休日までご苦労な事で。まあ半分遊びに来ているようなものなんだろうけど。
そこまで考えたところではたと我に返り、次いで掠れた笑いが漏れた。
本当にどこまで捻くれているのだろうか。散々言っておいて、結局は己から失われた輝きが羨ましいだけだ。自分の浅ましさにはほとほと呆れる。
雲一つない完璧な晴天の下、私の心だけが曇り空なのは恐らく、いや間違いなく私のせいだろう。
ちょっぴり遠回りをして帰ろうと思ったのは、単なる気まぐれだった。
最近ろくに運動していないし、外に出るのだって仕事か買い物の時くらい。
いつも通らない道。新しい道を開拓するのは存外嫌いではない。絵に描いたような田舎の地元とは違い、この辺りは犬を外飼いしている家は少ない。四角い建物が連なる中に懐かしい瓦を見つけると、何となく親近感を覚える。
そうしてしばらく歩いたところで、T字路の真ん中にぽつんとある公園に辿り着いた。
最近(と言っても最後に訪れた記憶は大学時代だが)見た中では比較的広めだろうか。遊具は滑り台とブランコと鉄棒、すこし離れたところに砂場と休憩所があり、縁を囲うようにベンチがいくつか設置されていた。
何となく端のベンチに腰を下ろす。
今の時間帯だとちょうど背後の木の影が落ちていて、心地良い空間が完成していた。
まともに聴いていなかったイヤホンを外し、小さく息を吸い込む。
先日買ったばかりの小説を取り出し、休憩がてら少し読み進めることにした。
どれくらい経っただろうか、ふと人の気配を感じて手元から視線を外した。
公園の入り口に幼子を乗せたベビーカーを押す母親が二人と、その周りにもう二人子どもがいるのが見えた。小学生低学年くらいだろうか、男の子と女の子がいて、公園に入った途端一目散にブランコへ駆け出して行く。
並んで漕ぎ出して、どうやらどちらが高くまで漕げるか競争しているらしく、楽しそうに笑いながら遊び始めた。
そんな二人を仕方ないなというふうに笑って眺めながら、母親二人は休憩所の方へ向かう。
眩しいな、と思った。
平穏な、ありふれた日常の一コマ。
しばらくその光景をぼんやりと見つめてしまっていた自分に気づき、慌てて視線を落とす。
別に今の生活に不満があるわけではない。けれど満足しているかと聞かれると少しばかり言葉に詰まる。
歳を取るにつれ、変化を恐れるようになってしまった。
それからしばらくして、隣のベンチに別の気配を感じてもう一度視線を上げた。
その人物がちょうどリュックを置いたタイミングでバッチリと目があってしまった。
何となく気まずくなって小さく会釈をすると、少し長めの前髪から覗く黒い瞳が一瞬きょとりと瞬いた後、彼も同じように小さく会釈を返してくれた。
大学生、かな。……綺麗な顔。
そのまま見つめるのも不躾なのでサッと本に意識を向けようとするも、どうも隣の気配が気になって文字が頭に入ってこない。
ちらりと右側を横目で窺えば、彼はリュックから本を取り出したところだった。自身の左側、私の方にリュックを置き、本に向き直ると栞の挟んであるページを開く。
……あ、南野先生の新作。
その表紙には見覚えがあった。
私もついこの間、偶然立ち寄った本屋で見つけて買った本だ。
筆が遅いことで有名な作家で、今回の新作も実に二年ぶりだったため、おお、と思わず声に出してしまったのを覚えている。
相変わらずの速読でその日のうちに読み終わってしまったけれど、読み応えのある素晴らしい本だった。流れるような美しい文章、繊細な情景描写によって読者はどんどん物語に引き込まれて行く。読了後の満足感は十分過ぎた。
思い返してにやにやとしてしまい、働かない表情筋を恨めしく思いつつもう一度手元の本に集中しようとした時だった。
微かに聴こえる音に再び意識が逸れた。
シャカシャカと聴こえる音。どうやらお隣さんのイヤホンから漏れ聞こえているらしい。
別に不快ではなかったのだが、私の意識が持って行かれたのはそこではなく、その曲だ。
聴いたことのあるフレーズ。それも比較的最近に。
……なんだっけ……。
一度気になると答えが見つかるまでモヤモヤとしてしまうたちで、じっと息を潜め、出来るだけ音を拾おうと試みる。
やはり聴き馴染みのある曲だ。しかし肝心の曲名が思い出せない。
眉間に皺を寄せ、額に手を置いてうーんと唸る。なんだっけ、あの一昔前の……。
そしてCメロに差し掛かったとき、急にパッと閃いた。
思い出した、弟がよく聴いているあれだ。
ああすっきりした、と知らずのうちに力んでいた肩から力を抜く。
そして曲名を思い出せた達成感で高揚した気分のまま、無意識にラストのサビを口ずさんでいた。
曲が終わり、さて次は何の曲だろうか、と耳を澄ませる。しかし一向に音は聞こえてこない。不思議に思って軽い気持ちで視線を向ければ、こちらを凝視する彼と思いっきり目が合って、私の心臓は驚くほど跳ね上がった。
「……あの、自分もしかして音漏れしてましたか?」
「えっ」
これはもしや、今の鼻歌を聞かれたか。嘘だろう。恥ずかしすぎる。
「あ……えっと、はい、微かに、ですけど」
「うわまじか。すみません、集中途切れさせてしまって」
「ああいや全然……私こそ、知ってる曲だったから口ずさんでしまって」
「え」
急にがばりと身を乗り出してきた彼に反射的に肩が跳ね上がる。
え、な、なに。なんか変なこと言ったかな、私。
「お姉さん、この曲知ってんの?……ですか」
「家で弟がよく聴いてて、覚えちゃって。良い曲ですよね、それ」
「そ……そう!そうなんだよ!めっちゃ良い曲!」
そう叫んだかと思えばハッと口元を抑え、ついでにようやく己の体勢に気がついたらしく、彼はすごすごと体を元に戻す。なんだか面白いなこの人。
「あ、すみませんいきなり……周りに知ってる奴が少なくて、テンション上がっちゃって……すみませんっす」
「ふふ、全然」
そこで会話を切らずにそのまま話を続けてしまったのは、ただの気まぐれだった。
「その本も、良いよね。南野先生の待望の新作。すごくおもしろかった」
「えっこれ、もう読んだんすか?先週発売されたばっかですよね?」
「うん、私読むの早くて。一日で読んじゃった」
「まじか、すごいっすね……あ、ネタバレ禁止で!」
「わかった。おもしろかったってことだけ伝えとく」
最近こんなに人と話すことなんてそうそうなかったのに、不思議なほどすらすらと言葉が滑り出てくる。少し変な心地だった。
「大学生?」
「あ、はい。そこのキャンパスの四年です」
「四年生……てことは、就活?」
「や、俺は院進なんで。まだっすね」
「院に行くんだ、すごいね」
「いやいや」
大したことないっすよ、と謙遜ともとれる返事が返ってきたが、彼の表情を見るに結構本気で大したことないと思っているような気もした。大したことあると思うけど、という言葉はなんとなく飲み込んで、代わりに話題の方向を少し修正することにする。
「そっか……じゃあ、私とは二つ違うのかな」
「二つ?えーっと……お姉さんいくつ?」
「今年で二十四」
「あ、じゃあ俺と一つ違いだ。一浪なんで」
「そうなんだ。じゃあもうほぼタメだね」
「っすね」
そう返しながらも敬語(かどうかは正直怪しいギリギリの丁寧語)を維持しているあたり、真面目な人なんだなと感心する。
「えーと……佐伯竣、です」
「あ、田宮千歳です、よろしく」
「田宮さん」
復唱されたのは苗字だけなのに、なんだかくすぐったい気分になった。
ときめき、とか、人間幾つになっても感じられるものなのかな。
「田宮さん、ここ結構来ます?」
「ん?いや、今日初めて、たまたま」
「そっか……うぅん……」
そう言って急に考え込んでしまった彼に目を瞬かせる。どうしたの、と声を掛ける前に彼が勢いよく顔を上げたので、また驚いてしまった。
「あの、連絡先交換しませんか」
「えっ」
その後にさらに予想外のことを言われたものだから、素っ頓狂な声を上げてしまう。恥ずかしい。
しかしそんな私の様子をどう解釈したのか、彼は慌てたように喋り出した。
「あ、いや、ちが、ナンパとかじゃなくて!その、せっかく同志を見つけたのにこれっきりっていうのはなんか切ないっていうか、また会いたい……っていや、これナンパか?ナンパ……か……」
自問自答が始まったところで限界だった。堪えていた笑いを息とともに空中へ吐き出す。
「……ふ、ふふっ。うん、いいよ。ナンパされてあげよう」
「違いますってぇ……」
本について語っていた時とは大違いな弱々しくてちょっぴり情けない声。コロコロと変わる表情が予想できなくて、面白い人だな、と本日何度目かわからない感想を抱く。
「佐伯くん、と。おっけい、追加した」
「ありがとうございます。つかめっちゃ今更なんすけど、彼氏さんとかいたり……?」
「いたら断ってます」
「っすよね、よかった」
「逆に佐伯くんは?正直彼女いそうだなと思ってたんだけど」
「いたら誘ってないっす」
「それもそっか」
そこまで答えて、なんだか変な会話だなぁと考える。けれどポンポンとテンポ良く交わされる会話はとっても心地よくて、私は流れるように次の言葉を口にしていた。
「でもキミ、モテるでしょ」
「んー……まあ、程々にって感じですかね」
「否定しないところがもう余裕だ」
「嘘はつきたくないんで……」
「おや、意外と真面目?」
「意外って何すか」
「あはは」
拗ねたように眉を顰める様子はちょっと子どもっぽくて可愛い。なんて言えばまた拗ねてしまうだろうから、もちろん言葉にはしなかった。
さて、そろそろ切り上げようか。あんまり長々と会話に付き合わせてしまうのも申し訳ない。
「じゃあまたね、連絡……は、そっちからしてくれたら嬉しいかも。私出不精で」
「ぽいなと思ってました、了解っす」
「失礼な」
「すんません口滑りました」
「正直!」
そう言って笑えば、彼はにかりと白い歯を見せて子どもっぽくわらった。
どうやら、今日の予報はちゃんと当たっていたらしい。