第8話 名無しの記憶
薄暗く薄汚い、鉄臭い血の香る路地の裏。
誰からも必要とされない人間の掃き溜め。
赤ん坊の頃、両親に捨てられた俺の世界。
「(ここは……?)」
俺は忌み子だった。
絶えず全身の毛穴から血が滲み続けるという、悍ましい呪いを受けて生まれてきた。
「(……違う、僕じゃない。これは……誰だ?)」
ここには俺のような境遇の奴がわんさかいた。
先天的もしくは後天的な障害を背負った奴、家庭環境に悩み家を出た奴、店を潰されたり濡れ衣を着せられたり不当に搾取されたりと人を人とも思わない連中に陥れられた奴など、事情は違えど大半が理不尽な目に遭ってこのスラムまで堕ちてきていた。
「(まさか、あの赤包帯の男の記憶か……?)」
社会に見捨てられた者が集うスラムには、スラムなりの秩序があった。無法地帯とは程遠い、俺達の社会があった。持たざる者同士、互いに助け合い、貧しい中で慎ましく生きていた。
「(なんで、こんなことに……僕はたしか……固有能力を──《魂喰らい》を使って、手の中に顕れた黒い剣で赤包帯の男を背後から貫いて……それで……じゃあ、まさかこれは《魂喰らい》の……?)」
ある日、1人の男がやってきた。黒い男だ。
「血塗れの子供……君がブラッドと、そう呼ばれている呪われた子供だね?」
「(なっ……ブラッド……? 父さんと同じ名前だ)」
「私はナナシノ」
「(ナナシノ……黒衣に覆われてよく見えない……)」
「君は神を信じるかい?」
「……信じないよ。神なんているわけない」
「だよね。でも神はいるんだ。力が出せないだけでね」
「力が出せないって……ブルースさんみたいな?」
「ブルースさん? ああ、あの痩せ細ったご老人のことか。根深く巣食った病魔に蝕まれているっていう意味ではそうだね。この星はいま、偽物の神に支配されているんだ。だから本物の神は君達を救いたくても救えないんだよ」
「(病魔……? 偽物の神……? 僕に名を与えたあれは、本当の神じゃないと? そんなわけない、何をバカな)」
「わかるかい? 要するに偽物の神がいなくなれば、本物の神は君達みんなを救えるんだ。君を苦しめた呪いは祝福へと変わり、ブルースさんの病気も治る。目が見えない人は明るい光と鮮やかな色を、耳が聞こえない人は澄んだ音を、口が利けない人はより深い人との繋がりを知る。誰も彼もが満たされる。誰かを害さずとも幸福を手にすることができる。理不尽も不条理もない、みんな平等で素晴らしい世界になるんだ」
「……僕も幸せになれるの? もう血を流さなくてもいい? 痛いのも苦しいのも怠いのも眠いのも、もう終わり? みんな普通に暮らせる?」
「ああ、もちろん。偽物の神がいなくなればね」
俺は、そう差し出された男の手を取った。
俺は男の話をスラムの仲間達に伝えた。
ブルースさんをはじめとした、心身共に衰弱し悲観的になっている年寄り達は、あまりにも胡散臭いからと拒んで俺達を止めたが、僅かでも可能性があるのならと諦めきれなかった俺達は、それを振り切ってナナシノと名乗る男についていった。
「(ここは夢の──赤包帯の男の記憶の中。僕はそこにいない。僕が何を思おうとどうすることもできず、過去は変わらない。ただ、その人が歩んだ人生をその人として辿るだけ)」
スラムを出て、街を出て、国を出て、野を越え山を越え海を越え辿り着いたのは、随分前に踏破した砂漠よりも生物を許さず認めない、すぐそばに死を感じる冷たい白銀の世界。その地下。
「(たしかに野を越えた。山を越えた。海を越えた、砂漠も越えた。長い長い旅路を進んだ。そんな憶えはあるのに、次の瞬間には極寒の雪原の中にいた)」
地上に負けず劣らず白く潔癖な印象を受ける、なんだかよくわからない──俺の理解の及ばないその場所で、ナナシノは言った。
「(ここは、何かの研究施設だろうか……?)」
「この星は偽りの神の支配下にある。けれど、真の神は死んだわけじゃない。偽神との戦いでひどく消耗してはいるものの、まるきり無力というわけじゃない。神々は力を失い封じられる直前に、起死回生の種を蒔いていたんだ」
呪いとしてね──
「──!!」
僕は目を覚ました。
赤包帯の男の首が宙を舞っている。
血飛沫のすぐ向こうで、父が折れた剣を振り抜いていた。
残った刃の部分で器用に斬り裂いたのだ。
泣き別れた頭と胴体の狭間から覗く、鬼のような形相をした父に、僕は心臓を握り締められるような圧迫感を抱いた。
「2人とも無事か!?」
息絶えた赤包帯の男には見向きもせず、僕と母へ駆け寄る父。
感情表現が苦手な父が珍しく取り乱している。
けれど、赤包帯の男の人生を、奇しくも父と同じ名で呼ばれていた男の生涯を、ほんの少し──ほんの一部ではあるが、男そのものとして追体験した僕にしてみれば、あまり気になることではなかった。
つまるところ、僕はこの死体に──さっきまでは生きていて、数十人もの騎士を殺し、無抵抗の人をも傷付けたこの男に、少なからず感情移入していたのだ。
僕は頭を振って男への同情を払拭する。
「私は大丈夫だけど……アッシュは……」
「僕も大丈夫だよ、お父さん、お母さん」
「……守ってくれて、助けてくれてありがとう、アッシュ。おかげでお母さんは何の怪我もせずに済んだわ。でも、ごめんなさい……あなたの力になるなんて言っておきながら、あなたに……こんなことを……」
こんなこと──父と母を守るため、僕に赤包帯の男の背を剣で貫かせたことを言っているのだろう。
「いや、謝るべきは俺の方だ。怒りで我を忘れて冷静な判断ができなくなっていた。すまなかった、アッシュ……お前の手を汚させてしまった」
フェイトという名前を背負った以上、いつかは人を傷付け、さらには殺めることにもなっていたはずだ。そしてそれに苛まれることになっていた。遅かれ早かれこうなっていたことだろう。
そうでなくても、僕は父のような立派な戦士になるつもりだった。王家に任せられた領土を統治し守護する力を持った、誇り高い戦士になりたかった。であるならば、今のうちからこのような経験を積めたのは僥倖だったと言えるぐらいだ。
「いいよ、気にしなくて。覚悟はしてたから」
「アッシュ……」
「……そう、か」
父と母の反応を見て、5歳が抱くにはさすがに壮絶すぎる覚悟だったかなと反省していると、殉職した騎士達が傾れ込んできた大扉から、近衛騎士を連れ立ったウィリアム王がやってきて、手早く事後処理を始めた。
もはやお披露目会どころではないため、当然ながらお開きとなった。
お披露目会から数日後、僕は父に頼み込んで稽古をつけてもらっていた。
「お前の……《魂喰らい》、だったか。折れず錆びず壊れない、おまけに変幻自在で神出鬼没とはな。さすがは固有能力といったところだが、それに頼りきりでは成長できないぞ」
父は魔術によって強度を高めた木剣と防御魔術のみで、僕は真剣も魔術も固有能力も天稟もなんでもあり。
体格や体力の差を抜きにしても、飛車角落ちのような圧倒的な戦力差があるというのに、手も足も出ない。それほどまでに経験と技量の差が大きかった。
父の強化木剣と僕の真剣の鍔迫り合い。
いくら魔術で強化しているとは言え、所詮は木剣だ。へし折れないよう父は真っ向から刃を立てない不安定な状態で僕と競り合う。
なぜそれで受け止められるのか意味がわからない──けれど、やはり刃を立てて真っ向から受けるよりも安定感はないので、大胆に刃を傾けて受け流し、懐に入り込んで膝蹴りを繰り出すも、子供の短い足ではギリギリ届かない。
なので膝蹴りがヒットする直前、黒い刃──《魂喰らい》を膝から生やして父の不意を突くが、昨日同じようなことを何度も繰り返していたからか、極限まで圧縮して表出させた体内魔力の分厚い障壁によって易々と阻まれ、木剣による鋭い反撃を受けて、びたんと地面にのびた。
「刃を受け流せたからといって、相手の体勢が崩れてもいないのに懐に飛び込むな」
「……はい」
どうやら全部読まれていたらしい。
「私は強化した木剣と簡単な防御魔術のみだったが、お前には真剣も魔術も固有能力も天稟もあった。それなのにお前は私に負けた。体格や経験の差もあるだろうが、お前の敗因はそれだけじゃない。なにかわかるか?」
「……わからない、です」
「ふむ、そうだな……人というものは自由を好むものだが、いざ全てを与えられしがらみから解放されてみれば、あまりの選択肢の多さに惑い、却って不自由になってしまうものだ。つまり何が言いたいのかと言えば、お前は自分の力量を弁えず身に余る力を使いこなそうとして、愚かにもその力に振り回されてしまったんだ。……お前のような経験の足りない未熟者が、持ち得る手札を十全に使いこなせるわけがないというのにな」
固有能力は肉体の一部みたいなもののようで、《魂喰らい》の使い勝手はもうある程度わかってきた。先天的才能、《剣の導き》と《魔の導き》のおかげか歳不相応に剣術も魔術も使える。けれど、天稟だけは別だった。
固有能力も先天的才能も後天的才能も表層能力も深層能力も自分の力だが、天稟だけは神から与えられた力。ちょっとやそっとの練習では手足のように自在に扱えないのは道理。
僕は真剣も魔術も固有能力も天稟も使えた。
僕には全てが与えられていたが、それら全てを駆使しなければいけなかったわけじゃない。
僕には使わないという選択肢も与えられていた。
必要なものを選び必要ないものを捨てて──と、取捨選択しなければいけなかった。今の自分にできる全てを我武者羅に行うのではなく、今の自分の実力に見合った全てのことをしなければいけなかったのだ。
端的に言えば、戦闘経験の浅い者が一丁前に器用な真似をするんじゃない、まずは基盤を整えるところからだと、そう言いたいのだろう。
「5歳とは思えないほど利口で賢く、剣ができて魔術も使えて、さらに固有能力なんてものも持っていて、おまけに天稟は2つも与えられている。なまじ早熟で優秀な分、お前は自分の実力を見誤ってしまっているのだろう。……だが、いいか? いまのお前に必要なのは持っている能を、使える力を振り翳すことじゃない。それらへの理解を深めてモノにし、愚直に研ぎ澄ますこと。敗北と失敗を繰り返して試行錯誤し、ひとつひとつ堅実に積み重ね、着実に前へと進むことだ。……さあ立て、続きを始めるぞ」
「──はい!」
それから2時間ほど父に稽古をつけてもらった後、家族みんなで昼食を摂ってから、僕はひとり町へと繰り出した。
大通りから小道へ、そうしてやってきたのは閑静な住宅街にある空き地。
そこには少年と少女がいた。
黄金の瞳をした、頭頂部から毛先までの7割が白く残りの3割が黒い髪の少女の名前はアグナ。同じ色合いのツートンヘアーながらも配分が正反対で、翡翠の瞳をした少年の名前はマルス。お披露目会の帰りに出会った仲の良い姉弟だ。
「アグナ、マルス」
「あ、きたきた。遅いよアッシュ、はやくいこ!」
挨拶もそこそこにボールを抱えて歩き出すアグナ。
木の枝でお絵描きをしていたマルスも立ち上がり、姉の後を追う。そのさらに後ろを僕が追いかける。
そうしてやってきたのは、人通りの多い街中に聳え立つ一際大きな建物──冒険者ギルド。矢が突き刺さった盾の前で鍔迫り合いを繰り広げる剣の装飾が施された入口の看板が目印だ。
この辺りは俗に冒険者街と呼ばれており、武器屋や防具屋、道具屋や薬屋や宿屋など、冒険者の出入りが激しい建物が乱立している。
ちなみに冒険者とは、下水道の掃除や迷子の捜索といった街の雑用から魔物退治のような危険な仕事まで──それこそ、ギルドに依頼が入れば違法なものでない限り何でもやる便利屋のようなもので、冒険者ギルドとは、世界各地から集められた多種多様な依頼を冒険者に斡旋する国営の仲介組織のことだ。
それなら便利屋でいいじゃないか、なんで冒険らしい冒険もしないのに冒険者だなんて銘打っているんだ──というのは当然の疑問だが、しかしこれにはわけがある。
不安定な魔素と魔素とが干渉し合うことで生じる魔法という現象は、パンッと破裂音がするだけの些細なものもあれば、町一つを一瞬で消滅させるほどの大爆発を引き起こすものもあったりと、魔術なんてものが存在するこの世界であっても超常とされるほどに不可思議で予測不能な自然現象であり、中には時空を歪ませ別世界への入口を開いてしまうものまである。
元々冒険者とは、この時空の歪み──《ダンジョン》をはじめとした魔法の爪痕の調査を行う命知らずを──危険を冒す者を指す言葉だったのだが、時が経つにつれて徐々にその認識や体系が歪んでいき、このような便利屋になってしまったのだ。
つまり順序としてはこちらが先であり、下水道の掃除や魔物の討伐などは後からついたもの。
とは言え前述の通り、冒険者は違法なものでない限り基本的にどんな仕事でも請け負うため、命の危険が伴う事柄には冒険という名目で率先して駆り出される。そこだけを見れば、自ら危険を冒す命知らず──という冒険者の本質はそれほど変わっていないのかもしれない。
ちなみに冒険者とよく似た職業に傭兵というものがある。
主な仕事内容は隊商の護衛や野盗の討伐などだが、募兵しているような紛争地帯ではその戦争に参戦したりもするため、冒険者を対魔物のプロとするのであれば傭兵は対人間のプロということになる。
「なにしてるのアッシュ! 早く早く!」
好奇心に駆られるお転婆なアグナに急かされ、僕は2人と冒険者ギルドの扉を開けた。