第2話 兆し
1年が経ち、僕は5歳になった。
ミカエラは2歳になっていた。
季節は冬。もうすぐ1年が終わる。
今日は洗礼の日だ。
この世界にいくつかある基人の国々には、その者が神を信じていようがいまいが5歳になると、所属している国の中心──王都や帝都にある最も規模の大きい教会で洗礼を受けるという文化がある。
洗礼の日とは5歳を迎えた子供達がその洗礼を受けるために王国中から集まってくる日のことなのだけれど、この《テイルケルン王国》ではそれに加えて王城でお披露目会も行われる。
このお披露目パーティーは貴族だの平民だのといった身分を──貴賤を問わないものなので、その年に5歳を迎える国内の全ての子供が主役として招かれるのだが、強制参加ではないため辞退することが可能だ。……もっとも、無料でご馳走をいただけるのだからよっぽど大事な用事がない限り辞退する理由などない。
そんなわけなので、家族総出で王都までやってきた。
初めて訪れる《王都セイントラル》は洗礼の日ということもあってかお祭り騒ぎだった。
父が治める《オーウェン領》もかなり活気のある賑やかで平和な街だが、やはり国の中心である王都は段違いだ。
「わあぁっ! 人がたくさんいますよ、お兄さま!」
父に抱き抱えられたミカエラが無邪気に目を輝かせ、ぐるりと見渡してそう言う。
さっきも言った通り、洗礼の日には貴族も平民も関係ないため、羽根の1枚1枚が鋭い刃になった翼を大きく広げている立派な鷹の紋章──オーウェン家の紋章があしらわれた馬車を降り、王都に入ってからの僕達は徒歩で教会へ向かう。
この人混みの中を5歳児が歩くのはさすがに無理があるため、はぐれないように父と母が手を繋いでくれている。
「手を離しちゃダメよ、アッシュ」
「うん」
手を繋いでいながらもこまめに振り返って僕がちゃんとそこにいるかを確認してくれる母。
顔色ひとつ変えないものの、いつもは出ない領地を出て人が大勢いるところに来たものだから内心は不安で仕方ないのだろう。だが、僕としては普段あまり干渉してこない母がこんなにも気にかけて見てくれているのが嬉しかったりする。
王都の街並みは、柱や梁や筋交いなどの軸組を外観に露出させて装飾の一部として扱い、その間を石や煉瓦や漆喰などで埋めて外壁とする半木骨造を基本とした石造りで、石材のつめたい印象と木材のあたたかい印象の調和が物凄く綺麗だ。
ちなみにオーウェン領は、この王都の風景にもう少し木々や草花などの自然を増やし、石材の割合も増やしたような雰囲気の街並みをしている。
人の流れに沿って進み、やがて辿り着いたのは、石で造られたゴシック様式の厳かな建物。その大きさはもはや城と呼んでもいいほどで、この建物こそが洗礼が行われる《アスタナム教》の教会だ。周囲に家屋などの建造物はなく、噴水やベンチなどが設置された自然が溢れる大きな広場となっている。
「ふわぁ……」
美しく緻密な装飾が施され、芸術品のように人の目を惹き付けてやまない教会に言葉が出ない様子のミカエラだったが、数秒もすれば興味は別のものに移った。
「あ、ちょうちょです、お兄さま!」
差し出した手にとまった黄色い蝶を僕に見せるミカエラ。
ほんとだねかわいいねと相槌を打っていると、どこからともなく飛んできた青い鳥がミカエラの肩にとまり、ぴぃぴぃと媚びるように愛らしく鳴いた。
「お兄さま! ことりさんも来ました!」
「みんなミカエラのことが大好きなんだね」
我が家の庭で遊んでいる時、ミカエラの傍には必ず何かしらの動物がいた。犬や猫はもちろん、今みたいに蝶や鳥なども決まってミカエラに寄り付くのだ。
きっとミカエラは世界に愛されているのだろう。
「お兄さまはわたしのこと好きですか?」
「ああ、もちろん。僕はミカエラのことが大好きだ」
「えへへっ……わたしもお兄さまが大好きですっ!」
義妹と愛を伝え合うその間も義妹の周りにはたくさんの動物達が集まってきている。道行く人々が揃って振り返り立ち止まるレベルでだ。
「自然が豊かな場所に来るといつもこうねぇ」
ミカエラと動物達に注目する人々を見回すアナスタシアが頬に手を当てて困ったように、けれど微笑ましそうに言うと、グウェンもまた同じように苦笑する。
「行くぞ、アッシュ」
いくら教会が大きいとは言え、国中の5歳になる子供達が集まってくるわけだから、収容人数の問題もある。付き添い人は父か母どちらかの保護者のみ。
今日の洗礼では父ブラッドが僕に付き添うため、母グウェン、義母アナスタシア、義妹ミカエラの3人とその側仕え達は教会を囲む広場で待機だ。
「いってらっしゃいませー、お兄さま!」
「うん、いってくるよ、ミカエラ」
大きく手を振って見送ってくれるミカエラに手を振り返し、僕は父と共に教会の入口へと進んだ。
教会の入口の横に配置されたカウンターで受付を済ませ、すぐ近くで控えていたシスターに従って僕と父は教会へと足を踏み入れた。
教会の中には既に多くの子供達が揃っていた。
真正面には華やかなステンドグラス、高い天井からは地面を穿つ4本の太い柱が伸びていて、通路に敷かれた絨毯の隣には何列もの長椅子が並んでおり、こちらには子供達が腰掛けていて、見上げれば目に映る2階席にはその保護者と思しき大人達。隅の方にはオルガン。講壇の奥には祭壇があり、その四方には天使の石像、その中心に神の姿を模した像が置かれている。
「式が始まりますと順番に名前を呼ばれますので、名前を呼ばれたら司教様のもとで洗礼を受けてください。それまではあちらにある空いているお好きな席に掛けてお待ちください。お父様は2階席の方へご案内いたします」
シスターから簡単に説明を受け相槌を打つ。
「……」
父は何かを言いたそうにしていたが言葉が見当たらなかったようでシスターに連れられて2階へと向かった。
父は寡黙で無愛想だが、決して人間が嫌いというわけではない。ただ単に人との接し方が分からないだけで、それが僕やミカエラのような子供が相手となればなおさら分からない。だから下手なことをして傷付けてしまわないよう、適度に距離を取っているだけの不器用な人だ。
いつか父と理解し合える日が来るのだろうか──そんなことを考えながら僕はシスターに言われた通り、空いている席に座った。
「……」
「……」
視線を感じる。
「……」
「……」
僕は熱い視線を送ってくる隣の少女に声をかけた。
「あの、僕になにか?」
「あなた名前は?」
「名前……?」
「わたしはアリス」
「……アッシュ」
「アッシュ。そう。素敵な髪ね。綺麗な灰色だわ。瞳の色も夜空みたいに澄んだ黒色で心が洗われるよう。顔立ちも顔付きも可愛らしくてわたし好みだわ。何より穢れていない。純粋な色をしてる」
「あ、ありがとう?」
「アッシュ。憶えたわ。忘れない」
アリスと名乗る少女はそれきり前を向いて口を閉ざした。
「えぇ……?」
林檎のような赤色から輝く蜂蜜のような金色へとグラデーションのかかった、肩甲骨の辺りまで伸びた髪。そして、こちらを見透かしたかのような、桃色が強く滲んだ赤色の瞳。年齢相応の小さな体と白皙の肌。
美少女としか評価のしようがない優れた容姿をしているが、5歳とは思えない語彙力とそれを振り翳した意味不明な言動のせいで少し怖い。
「(なんなんだ……)」
それ以降は特に何も起こらず洗礼の儀式が始まった。
5歳の洗礼は基人という種族の国家特有の文化であり、アスタナム教徒ではない者も数多く参加しているため聖書の読み上げなどは行わない。
白い髪と白い髭を贅沢に蓄えた司教が穏やかなオルガンの音色と共ににこやかな表情で子供にも分かりやすい簡単な言葉で祝辞を述べ、そして順番に名前を呼んでいく。
「レティシア・テイルケルン」
最初に名前を呼ばれたのはこの国の王女。
身分の貴賤を問わない洗礼の儀式ではあるが王族は別だ。
なぜなら、王族は国民を導く国家の模範となるため、そして洗礼という大切な儀式に緊張する子供達のため、1番最初に毅然と洗礼を受け、威厳を示す義務があるからだ。
レティシア王女は、ベースとなる白銀の髪に白金のメッシュが入った綺麗な髪を編み込んで結い上げ、稀に赤く染まったりするらしい紫がかった黒い瞳を──夜明け色の特別な瞳を持つ、この国の宝。吊り目がちな猫目が勝ち気な印象を抱かせる、凛々しくも愛らしい美少女だ。
レティシア王女が司教にいざなわれるがままに神を模した像の前に立つと、司教はその傍らで膝を突き、目を閉じて両手を組み、像を介して神へと祈りを捧げた。
「……」
静寂が広がる。
「……」
暫くすると神を模した像が目映い光を放ち始めた。
拡散する光は集束し、やがて白い塊となった。
白い光の塊はうにょうにょと捏ねられる粘土のようにして像と同じ姿を取り、レティシア王女の前に立った。
「──レティシア・コスモス・テイルケルン」
神の分身体たる白い光の塊が言う。
すると、スカートの裾を軽く摘まんだレティシア王女は片足を斜め後ろの内側に引いてもう片方の足の膝を曲げ、背筋を伸ばしたまま軽く上体を倒した。
カーテシーと呼ばれる礼法だ。
そうして礼を伝えたレティシア王女は席へと戻る。
本体でないとは言え、仮にも神である。
いかに王族と言えど口を利くことなど許されない。
たとえそれが神を敬い崇め奉る言葉であったとしてもだ。
司教は立ち上がり、順番に名前を呼んでいった。
「ハンク・アンクゥ」
何人目だろうか。
これまでかなりの数の名前が呼ばれ、最初の頃は名前と顔を一致させることができていたが、もはや誰が誰だか分からない。
「──ハンク・レトゥス・アンクゥ」
神の分身体から名を授かった黒髪の少年は席に戻る。
いまさらだが、洗礼とは神から名を授かる儀式だ。
魔物などという脅威が存在するこの世界で人々が不自由なく生きていけるようにと神より与えられる、生き抜くための力が込められた、加護とも言うべき聖なる名前を授かるための儀式だ。
たとえば、これにより炎を意味する名を授かった者は戦士として大成し、水を意味する名を授かった者は広く清らかな心を持ち愛され、風を意味する名を授かった者は羽搏くように躍進し、土を意味する名を授かった者は磐石な成功を手にする。
だが、炎の名を授かったから誰にも負けない、水の名を授かったから誰からも好かれ愛される、風の名を授かったから今すぐどこでも成果をあげられる、土の名を授かったから何もしなくても安泰だ──とはならない。名を授かったのだから何もしなくても必ずそうなるというわけではない。
この名はあくまでも導きだ。
最適な人生を示し最良の運命を導くだけのもの。
導かれているだけなのだからきちんと歩まねばならない。
努力を怠らず研鑽を積み、苦悩し葛藤し挫折し立ち上がり、諦めずに突き進み続けたその果てに、漸くそれは成し遂げられるのだ。
名前の力は絶対じゃない。
「アリス・ベルヴェルク」
名前を呼ばれた隣の少女が立ち上がり、前へと歩み出す。
僕は興味を抱く。
一方的で意味不明だった邂逅。
理解できないものとして認識されているアリス。
だから僕は興味を抱いた。
いったい彼女はどんな名を授かり、どんな人生を示され、どんな運命に導かれるのか……ほんの少しでも、些細なことでもいいから、あの少女のことを知りたかった。
アリスが神の分身体の前に立つ。
「……」
「アリス……」
神の分身体は言い淀む。
「……!?」
司教が神の分身体を振り返る。
「──アリス・セラフィン・ベルヴェルク」
セラフィンの名を授かったアリスはまるで何事もなかったかのような顔をして平然と隣の席に戻ってきた。
分身体とは言え、全知であり全能である神が言い淀むという異常事態に司教はもちろん、2階席の保護者達も動揺を隠せないでいる。
こそこそと司教の傍に寄ったシスターが耳打ちすると、ハッとした司教は手にした名簿に視線を落とし、ゴホンと咳払いをしてから名前を呼んだ。
「アッシュ・オーウェン」
僕だ。
席を立った僕は赤い絨毯の上を進む。
ドクンドクンと心臓が激しく脈動している。
特に信心深いというわけではないが、神の御前に立とうというのだ、仕方のないことだろう。
「……」
やがて神の元へと辿り着いた。
僕は神を真っ直ぐに見据える。
「──アッシュ・フェイト・オーウェン」
神はフェイトと僕に名を付けた。