7.雨
「…?」
それから二時間以上経った頃、雫が目を覚ました。横になったソファの上でもそもそもと動き出す。玲司はその傍らで、仕事に必要となる情報をネットで集めていた所だった。
「よく寝ていたな?」
気付いた玲司は声をかける。
「…俺、結構寝てました?」
雫は身体を起こし、垂らしたかも知れない涎跡を手でこすりながら、ジーンズのポケットに手を突っ込んだ。取り出した端末を見て、うげっと叫ぶ。
「もう、夕方五時じゃないっすかぁ…。俺、寝すぎ…」
外の景色もすっかり夕方のそれに変わっている。玲司は膝の上に乗せていたパソコンを閉じると、
「良かったら夕飯も食べていけ。これから帰って作るのも面倒だろう。どうせ、自分の分も作るんだ。ひとり分増えても変わりない。昼のお礼だ」
「ええっ?! いいんですか? って、玲司さんの手料理…」
うっとり顔の雫に玲司は肩をすくめると。
「期待するな。お前と比べればただの雑な手抜き料理だ。がっかりするぞ」
「いいんですって。いやー、うたた寝して良かったぁ!」
まったく。呑気なものだ。
既に見越してご飯は二人分、炊飯器にセットしてある。主菜は玉ねぎと豚バラを、しょう油、砂糖、みりん、酒、生姜を加えて炒めたものだ。肉に片栗粉をまぶしてから炒めるのがみそだろうか。生姜焼きに近い。
本当は、雫がうたた寝して一時間ほど経った辺りで起こそうかと思ったのだ。雫は相変わらずぐっすり寝入っていて自分から起きそうにない。
どうするか。
日々の業務で疲れていることは知っている。休日返上で資格試験の勉強に明け暮れる日がある事も。
そんな中、自分の自由になる時間は貴重なはずで。それを、自ら望んだ事とは言え、丸一日近く玲司と過ごす事で潰した。
その上で気持ち良さそうに眠る雫の顔を見た時、起こすと言う選択肢は消えていた。
とりあえず、自身の志向については置いておいて、雫の休息を優先させたのだ。
「今から作るから、その参考書と問題集見てみておいてくれ。必要なかったら、そう言ってくれ。廃棄する」
「えぇ! もったいない。玲司さんの直筆メモ入りでしょ? 貴重すぎです。持って帰ります!」
「まぁいいから見てみてくれ」
玲司は大袈裟な言いように笑いながら、キッチンへ向かった。雫は早速、参考書を開く。
そうして、ご飯が炊き上がり、豆腐とワカメの味噌汁、豚バラ生姜焼き風、サラダ添えが出来上がった頃、雨がぽつぽつと降り出した。僅かに開けた窓の網戸越しに、雨粒に揺れる葉が見える。
確か夜には降ると言っていた気もするが。
それがいつしか窓を叩くような横殴りの雨に変化した。いわゆるゲリラ豪雨だ。開けていたベランダ側のガラス戸を、雫が慌てて閉める。
「なんか、凄いっすね…」
雫は不安気に、そこへ立ったまま外の景色を眺めていた。
「どうやら、局地的に降っているらしいな…」
玲司はダイニングテーブルに各々の配膳を済ます。雫も直ぐに手伝いに来た。玲司がお椀によそった味噌汁をテーブルに運んで行く。
「止むといいけど…」
再び心配げな様子で窓の外に目を向ける。雨粒が窓ガラスに激しく打ち付けていた。
「食べ終わる頃まで様子を見るか。止まないようなら、泊って行けばいい」
玲司は先ほどと同様、とうに諦めている。
自らの選択に、自然要因が重なっての結果だ。どうやっても今は雫を家から追い出すことができないらしい。とにかく、それを受け入れるしかない。
「…いいんですか?」
雫は申し訳なさそうに尋ねてくる。
「ゲストルームがある。物置状態だが、どかせば人ひとりくらい眠れるだろう」
「ありがとうございます! この雨の中、運転して帰るのはちょっと…。いやー、玲司さん。優しいっすねぇ。ホント」
これでゲイだとばれたなら、下心があったのでは? と、誤解されるのだろうか。何度目かのため息を心の内でつきつつ。
「流石にこの雨だ。放り出せはしないさ…。無理に帰らせて何かあったらな? 上司としての責任もある。一応、大事な部下だ」
「ああ! 一応って! …もう、つれないっすよね~。そこは可愛い部下! とか言って下さいよう」
「いいから、黙って食べろ」
夕飯の支度は整った。雫はぶちぶちと言いながらも席について、いただきます! と、手を合わせる。玲司もそれにならった。
雫は豚バラに箸をつけると、一口放り込み、ご飯をかきこむ。
「っ! うまい! 美味しいっす!」
「大袈裟だな…。だが、良かった。人に食べさせたことがなくてな」
今まで手料理を作り食べさせるようなシチュエーションになったことがなかった。
豪なら喜んで食べたかもしれないが、今の所、お互い忙しく、そんな状況にはならない。
大体、奴には俺以外にもそういう相手がいるのは分かっている。
女性が数人。豪は気分や都合が合う相手と適当に楽しんでいるらしい。何故知っているのかと言えば、豪が隠そうとしないからだ。
事が済んで休んでいると、彼女らから連絡が入る事がある。豪は玲司に断りを入れたあと、彼女らと甘い言葉を交わしていた。
暗に玲司は本命ではないのだと、知らせているようなものだ。彼女等がいれば、玲司がわざわざ自宅で手料理をふるまう必要はない。
付き合い出した当初は、もしかしてと期待した時期もあったが──過去の話だな。
玲司が本命になることはない。
すると、だんまりした玲司に気をつかったのか。
「じゃ、俺が記念すべき第一号ですね! すげー! ラッキー!」
おどけてみせる雫に、苦笑を漏らす。
「ラッキーかどうかは分からないが、貴重ではあるだろうな? お前と違って色々詳しい訳じゃない。適当に自分用に作っているだけだからな。人に食べさせるような代物じゃない事は確かだ。それを食べているお前は貴重だな?」
「そんなことないっすよ! 美味しいですもん。てか、普段の玲司さんとはギャップありますけど…」
「ギャップ?」
「だって、なんかこう、おしゃれなもの作ってそうですって。横文字の何か…。こんな風に醤油とみりんと砂糖と──って、茶色いおかず作る人には見えません!」
「…俺をなんだと思ってるんだ?」
「いや、普段はほんと、日本人かも疑う事ありますもん。玲司さん、綺麗ですから」
「……」
思わず箸を止めた。そんな風に雫に見られていたとは思わなかったのだ。固まった玲司に不味いことを言ったかと、雫は慌てだす。
「あ! いや、その変な意味じゃないっすよ? ちょっと浮世離れしてるって言うか…。時々、見惚れちゃうことがあるんですよー。いやー、男でもちょっとドキッとするんですよねー。親族に外国の人、いるんですか?」
口に入れたご飯をようやくごくりと嚥下すると。
「…いない。俺は純粋な日本人だ。お前、目がおかしいんじゃないのか? 仕事中、そんな事を考えてる暇があるなら、もっと忙しくしていいな」
「ええぇー」
「ほら、余計なこと話しているな。冷めるぞ」
「うー。はい…」
本当の事を言っただけなのにとブツクサ言いながら、食べ始めた。
一瞬、口説かれているのかと思った。
雫はただ、思ったことを口にしただけだと言うのに。
雫の一生懸命食べる姿を見ながら、玲司は平常心を取り戻す事に努めた。
+++
その後、結局雨はやまなかった。
仕方なく予定通り、客間の荷物を片隅に寄せ、布団を敷くスペースを作る。
布団セットは前に買ってあった予備で、広げてみたが、結局ベッドに変えたため使っていなかった代物だった。
軽く床をモップで拭くと、そこへすかさず雫がマットレスを敷き、上に布団を広げる。
シーツも枕もセッティングし後は寝るだけとなった。既にシャワーを浴び終え、玲司の貸したスウェットの上下──下着は新品をそのまま与えた──に着替えた雫は。
「う~ん、ちょっとひとりは淋しいっすね…」
頭をかきながらそうつぶやく。
どうやら、雫はひとり、ここで寝るのが嫌らしい。だが。
そんなこと構うものか。
これ以上、妥協は出来ない。こっちはそれどころではないのだ。同じ部屋で過ごすのも躊躇われるのに、同じ部屋で寝るなど言語道断。あり得ない。
「ホテルだって一人で泊まった事はあるだろ? それと一緒だ」
玲司はうそぶく。言われて雫は顎に手を当て考え込むと。
「いや、初めてかも知れません…。同期と出張行っても、ツイン取ってましたし。自分の部屋以外で一人で寝るの初めてかも…。ここ、なんか出ないっすよね?」
恐る恐る尋ねてくる。内心、知るか! と怒鳴りつけていたが、実際は穏やかな表情で。
「さあな。ここで寝た事はない。だが、出た所で無視すればどこかに消えるだろ。気にするな」
「気にするなって、気になるでしょー。もー」
「適当にな。お休み」
雫は本気でぶーたれるが、玲司は苦笑を漏らしつつもそそくさと客間を後にした。
異性愛者が異性を家に泊めて何も無い、と言うことはないだろう。例えその気が無くとも意識はする。玲司にとっても同じだ。
全くタイプではない為、あり得ないがやはり意識はしてしまう。
まあ、向こうにその気がない限り、何も起こり得ないが。ノンケ男子が急に同性を襲ったりはしない。
だいたい、あいつになんぞ、抱かれたくないな。
玲司にそちらの経験は無いが、雫相手ならいっそ抱くほうが──。
と、そこまで考えて思考停止させる。あり得ない。色々な意味で。
一体、俺は何を血迷っているんだ?
雫が来てから調子が狂いっぱなしだった。
+++
玲司は直ぐには寝ない。
いつも次の日が仕事でない時は、本を読んでから寝ていた。つい興が乗って、一区切りつくまでと没頭し、明け方ようやく眠りにつくこともある。
今日もいつもの様に、雫の件で乱されつつも本を読み出した。平静を取り戻すのに丁度いい。のめり込んでしまえば、日常など忘れてしまう。
読むジャンルは様々だ。日本の作家のものもあれば、外国の作家のものも読む。今は日本の作家のサスペンス、ミステリーといった辺りか。
これから架橋に入るというところで雷が鳴った。少し近いかもしれない。
カーテン越し窓の外が一瞬、明るくなる。続いてもう一度鳴った。近くの避雷針に落ちたのかも知れない。軽く窓が振動してみせた。
と、ドアの向こう、廊下で物音を聞いた気がする。雫がトイレにでも立ったのだろう。
気にせず先を読み進めようとすれば、更に雷が落ちた。スタンドがチカチカと点滅してから消えた。停電だ。
これではトイレに入った雫が困るだろう。様子を見に行こうと、端末のライトで照らしながら部屋のドアを内側に引けば。
「雫?」
引いたと同時、しゃがんだ雫が背中からゴロリと内側に転がってきた。呼ばれた雫は転がったまま、見上げてくる。
「こ、怖いんです…。見知らぬ部屋に一人きり…。しかも、雷鳴り出して…。停電、したですよね?」
「お前は…。一体、何歳になる? いい大人が子どもみたいな事言うな」
玲司は叱りつけるが、雫は尚も言い募り。
「このままだと、朝まで眠れません。部屋の隅っこでいいんで、いさせてください…。ダメならせめて廊下にいさせて下さいっ」
「ったく…」
このまま放り出す訳にも行かない。そうすれば、きっと廊下で朝まで過ごすつもりだろう。玲司は根負けした。
「…わかった。布団をこっちに持って来い」
「やったぁ! さすが玲司さん! お優しいっ!」
飛び跳ねんばかりの勢いだったが、雷が鳴るとビクリと肩を揺らす。ありがちだが、
「雷が苦手か?」
「いや~、だって怖いですよぅ。何処に落ちるかわからないし、音も凄いし…」
「子供だな」
「仕方ないっすよ。こればっかりは。慣れないんですってば」
「いいから、布団を運ぶぞ」
はぁ~いと、どこか気の抜けた返事と共に、探り出した懐中電灯の明かりを頼りに、二人がかりで布団を運び込んだ。
+++
「ああー、やっと眠れそうです! おやすみのチューでもしますか?」
防災用のランタンを引っ張り出し、雫の枕元に置く。その明かりの中、嬉しそうに安心し切った様子で話す雫に、玲司は盛大なため息をつくと。
「興奮すると、眠れなくなるぞ。もう寝ろ。おやすみ」
そう言って早々に布団をかぶる。
「相変わらずつれない…。おやすみです…」
寂しそうな声のあと、ランタンの光りが消された。
しばらくすると、健やかな寝息が聞こえてくる。気がつけば、雷の音は遠くなっていた。
全く。何がおやすみのチューだ。
こっちの気も知らずに。
本当に。玲司がそっちの人間だと知ったらどんな反応を示すのか。想像しただけで気が滅入る。
そうはならないと思うが。
自らカミングアウトする事はない。今まで通りでいれば何も問題はないのだ。
今まで通り、か。
今の時点ではかなり通常とは異なる事態となっている。こうやって近くで行動を共にする機会が増せば、ばれる危険性は十分あるが。
これ以上、こいつと関わるつもりはない。
だから、心配は必要ないのだ。
豪と会う日が待ち遠しかった。会えないストレスで、余計な事を考えてしてしまうのだろう。
玲司はなるべく傍らの床で眠る雫石を意識しないようにして、眠りについた。