16.日常
「あー、良く寝たぁ!」
先に起きた玲司がキッチンで朝食の準備をしていると、雫が目を覚ました。開口一番、そう口にしてグンと腕を伸ばす。
玲司は平素と変わらぬ態度で。
「食べる前に風呂に行ってきたらどうだ? 俺は準備があるからあとでいい」
「はい! じゃあ、行ってきます──って、その…昨日はすみませんでした。俺、寝落ちまでしちゃって…」
眉尻を下げ済まなそうな表情になる。玲司は笑みを浮かべると。
「謝ることじゃないだろう? 誰でも寂しい時は甘えたくなる。たまたまそこに居合わせたのが俺だっただけだ。気にするな」
「へへ…。ありがとうございます。なんか、恥ずかしい所見せちゃって。もう、あんなことないように頑張ります!」
「その意気だ。ほら、早く行ってこい」
「はーい!」
雫はお風呂セットを抱え、意気揚々と部屋を出ていった。いつもの雫に戻った様に見える。
ホッとした半面、自身の思いに気づいてしまった玲司は何ともいえない心地になる。
これで、雫は自分から離れ、彼女を作り充実した日々を送るのだろう。もともと、それを望んでいたくせに、いざそうなってみると寂しさが増す。
今思えばはじめから雫に関心を持っていていたのだろう。やたらと豪と比べた時点で意識していたのだ。
それだけで済めば何も起こらなかったのに、傍に近づく事を許してしまった。気になっていたのだ。無意識に甘くなったのも仕方ない。
しかし、もう終わった。
玲司は準備の手を止める。
早々に豪に慰めてもらうべきだな…。
今週末に会う予定だ。今後、雫との予定はもう入らない。週末、豪に会うのに都合が悪くなることはなかった。
もちろん、豪にこのことを言うつもりはない。何か察するかもしれないが、豪は聞いて来ないだろう。そう言う男だ。
「さて、続きだな…」
備え付けの皿を洗い、そこへサラダを盛りつける。ストーブでボイルしたソーセージを乗せて、トーストを置けばお終い。簡単なものだ。
ソーセージのボイルも、トーストを焼くのも、雫が帰ってきてからがいいだろう。
一段落し、玲司はロッジのテラスへと出た。
目の前の草地には昨日の焚火に使った台がそのまま置かれている。雫と夜空を見上げて過ごす時間は格別のものだった。
もう二度と、同じ空を見上げる事はないだろうな。
それを、玲司はそっと記憶の引き出しの奥へと大切にしまった。
+++
その後、朝食を済ませ、焚火の後片付けや部屋の掃除も済ませると、帰宅の途に就いた。
雫はいつもと変わらない風を装っていたが、やはりどこかいつもとは違った。これで終わりなのだ。そうもなるだろう。楽しかったのは雫も一緒なのだ。
数時間後、玲司のマンションに到着した所で。
「あの…、それでも時々、会ってくれますか?」
降りようとした玲司に、雫は運転席から伺うように見つめてくるが、
「ダメだ。そうしたくなったら、飲み会で連絡先を交換した彼女に連絡を入れてみろ。きっと喜んで会ってくれる」
本当は甘やかしたかった。寂しいならいつでも会ってやると。
そんな事を言ってしまえば、またずるずるとこの関係が続いて、雫は先に進めない。玲司だって思いを断ち切れなかった。
そうなれば、雫は道を踏み外さないとも限らない。本心とは裏腹に応とは言えなかった。
「…わかりました」
意気消沈した雫は視線を落とし、小さなため息をついた後、すっくと顔を上げ。
「じゃあ! 今回は──いや、今まで貴重なお休みに色々付き合ってくださって、有難うございました。俺、凄く楽しかったです…。大事な、貴重な時間でした。ずっと、大切に心の奥に仕舞っておきます!」
その言葉に、自分と同じなのだなと、心の中で苦笑した。どこまでも一緒なのだ。
「今生の別れじゃない。また、職場で会うだろう?」
「はは…。ですね。じゃあ、職場でまた!」
「気を付けて帰れよ」
一瞬、思いつめた顔をした雫だったが、助手席から降りた玲司に向けて、笑顔になると。
「はい!」
そのまま雫は帰って行った。去っていく車のテールランプを見つめながら。
これでいいんだ。
玲司はひとりごちた。
+++
月曜日、雫はいつもと同じように少し早めに出勤してきて、一日のスケジュールを確認し、玲司に報告を終え業務についた。
午前中は玲司とともに外回り、帰って来ればその事後処理や他の業務にあたる。
いつもと変わらない様子が、逆に気になった。どこかピンと張りつめた糸のようにも見えて。いつかぷつんと切れてしまうのではないかと、そう思えた。
思い過ごしならいいが。
なるべく残業にならないよう、様子を見ながら仕事を進めた。幸い残業が必要なほど大きな案件は入ってきていない。通常業務で過ごす一週間だった。
その週の金曜日。昼食を終え午後の業務につこうとした玲司に声をかけてきた者がいた。
「樺!」
長身の偉丈夫な男。柴崎だ。立ち止まると肩を並べるようにして立ち、
「今日、飲みに行かないか?」
声をひそめ誘ってくる。
「…なんでだ?」
「約束。忘れたのかよ? お前の後輩に女の子を紹介した紹介料。割り勘でいいからさ。行こうぜ」
「いい、おごる…。店はお前が好きな所でいい」
「お! いつもと違ってノリがいいな。分かった。じゃあ、仕事終わりそうだったら連絡くれ」
「わかった…」
「じゃあな」
ポンと樺の肩を叩き、機嫌よさげに仕事に戻って行った。
この前の礼もあるが、互いに愚痴を言いあい聞きあうのもいい気晴らしにはなった。特に今は誰かと下らない話で盛り上がりたい気分で。
本当に柴崎と関係を持たず良かったと思う。もし関係していたら、こうして気楽に話すのも躊躇われただろう。大事な同僚を失くす所だった。
雫だって同じだ。
同じ職場の後輩に手など出せるはずもない。あの時、魔が差さず良かったと思った。
「主任!」
突然、背後から雫の声がして、思わずビクリと肩を揺らした。雫が不思議そうな顔をする。
「どうかしたんですか?」
「いや…」
「あ、今日のランチ。前に教えてもらったお店に行ってきました。やっぱりいい雰囲気ですねぇ。主任も行っているんですか? 最近、お昼、一緒にならないですけど…」
「あ、いや…。忙しくて行けてないな。適当にここで食べてる」
正直、雫がいるかも、そう思うと足が遠ざかったのは事実だった。昼の時間も重ならないよう、ずらしている。暫く二人きりで会うのは控えたかったのだ。
「そうですか。今日はいるかなって思ったんですけど…。ま、仕方ないっすね。ちょっと話したいことがあって…。でもまたで!」
「何かあったのか?」
「え? あー…いや。いいんです。本当に、大した事じゃなくて…」
そこで、午後の始業のチャイムが鳴る。玲司は雫を振り返ると。
「午後は直ぐにF社との打合せがあったな? 話があるなら時間を作る。後できこう」
「あはは、そんな真剣な奴じゃないんです。また、時間のある時で! あっと、俺、会議室の準備してきます!」
そう言って腕時計に目を向けた雫は軽くかけるようにして、足早に去っていった。
一体なんの話しをしたかったのか。
大したことはない、という割には表情に思いつめたものがあった気がしたが。
しかし、それを追及している時間も余裕もない。玲司は頭を仕事モードへと切り替えた。