15.告白
ロッジに戻ってすぐに薪ストーブに火を入れる。暫くしてじんわりと部屋が暖かくなった。薪ストーブの炎をこうして間近で見るのは初めてかもしれない。
夏も終わりが見え始める時期。高原でストーブは必須だった。
「玲司さん。それ、消して寝た方がいいですよね?」
歯を磨きながら雫が尋ねてくる。同じく先に磨き終えた玲司はストーブへ薪を足しながら。
「そうだな。髪が乾いたら消して寝た方がいい」
時刻は八時を回るところ。まだ時間はあった。
ストーブにはケトルが置かれている。湯が沸いたらハーブティを淹れるつもりだ。強すぎない香りと味で、コーヒー以外を飲みたいときに愛飲している。寝る前には丁度いい。
二人ともストーブを足元に、借りた寝袋を横に並べ座っていた。
ロッジ内には簡易キッチンが設置されている。冷蔵庫もレンジもあった。他に洗面所とトイレがついている。夜、行きたくなっても外に出なくていいのがいい。
寝袋の下にはマットレスを敷いてあるため、直接床からの冷えを感じることはなかったが、もしこれが地面だと考えると、テント泊はまだ自分には無理だろうと思った。
もっと暖かい季節になればいいかもしれないが──。
そこまで考えて、はたと思い出す。次はないのだ。
「意外に冷えてびっくりです。前もって気温は見てきたんですけど、思っていたより寒く感じて。タオル、ありがとうございました」
玲司が途中で巻いたバスタオルは、今は玲司の持ってきたディバックの上に置かれている。見れば雫の髪はしっとり濡れているよう。
「髪がまだ濡れてるぞ。ちゃんと拭いたのか?」
「拭きましたよぉ。まだ濡れてます?」
「…こっちにこい。拭いてやる」
玲司は先ほどのバスタオルを手に取った。
「えー! いいんですか? すげー。嬉しー。美容院みたいです」
「いいから、ストーブの近くに座れ。そう、背をこっちに向けて──」
「こうです?」
ストーブの前でタオルを手に待つ玲司に元へ、雫はネコのように四つん這いでやってくると、くるりと背を向け座った。
その様に玲司は笑う。髪はまだ十分に湿気を含んでいた。
「かなり適当に拭いたな?」
「いつも家にいる時はこうですよ?」
「ここは寒いからな。普段はそれでいいだろうが、放っておけば冷えて風邪をひく。せっかくリラックスしに来たのに風邪をもらったんじゃな」
髪をこすらないよう、軽くぽんぽんと叩くようにして水分を取っていく。雫は気持ちいいのか目を閉じてかなりリラックスした様子。
「あー、楽ちん。毎日、玲司さんに乾かしてもらいたいくらいです。泊まった時はしてもらってもいいですか?」
「覚えて自分でやれ」
「あー、やっぱり冷たいー」
「彼女が出来れば、俺の所に来る必要もなくなる。こんな風に出かけるのもな。全部彼女とやれ。いい子なら喫茶店巡りも八百屋巡りも付き合ってくれるはずだ」
と、それを聞いた雫は突然、がばりとこちらを振り返り。
「それって──彼女が出来たら、終わりってことですか?」
驚いた様子の雫に逆に驚きながら。
「そうだろう? 俺とつるんでるのは相手がいないからだろう。でなきゃ、上司で年上の俺とつるむ理由がない。いいから彼女を早く作って、もっと充実した休日を送れ──」
と、いい終わらないうちに、雫が畳み掛けるように口を開く。
「上司とか、年上とか…関係ないです。俺、ただ玲司さんの事が知りたくて、憧れてて…。だからこうして一緒に過ごせているのが楽しくて嬉しくて。彼女とか本気で欲しいとは思わないんです。今は、玲司さんといたくて…。それって、可笑しいですか?」
雫は必死だ。玲司は眼鏡のフレームの縁に手をかけ、一度、上下させたあと。
「…普通はそういう時間を友だちか彼女と過ごすだろう? 俺にとって、お前は職場の後輩だ。友だちにはなれない。それに──勿論、彼女にもな。そんな、俺に付き合って大事な時間を潰すより、もっと大切に思える相手と有意義な時間を過ごす方がお前のためだ」
「でも…っ」
「雫が慕ってくれるのは嬉しい。けれど、こうして過ごす時間が増えるたび、考えたんだ。お前の将来にとってどういう選択が正しいか。時々会うくらいならいいが、毎週会うのは少し違う気がしてな」
ケトルが沸騰を知らせた。
それを合図に、玲司は立ち上がるとバスタオルを傍にあったイスの背もたれにかけ、そのままストーブに置いたケトルを取り上げる。
キッチンに向かい用意してあったポットへお湯を移した。既に入れてあったパック入りの茶葉がいい薫りを立てる。カップにもお湯を注ぎ温めた。
「でも、俺…」
「これを飲んで落ち着け。そうしたら寝よう。明日の朝食は俺が用意するからゆっくり寝ているといい」
雫は何かいいたそうにしたが、そのまま続けた。
朝食はトースターでパンを焼いて出すくらいだが、それで十分だと思った。サラダ用の野菜も袋入りのものを買ってきてある。それを盛りつければ終わりだ。
それを食べて、車に乗って。自宅に着いて別れれば、元の上司と部下の関係に戻れるはず。
何か言いたそうにした雫は、差し出されたカップを受け取り、しばらく黙って飲んでいた。
湯気がカップから立ち上る。
玲司はそんな雫を見るともなしに眺めながら、同じくハーブティーを飲む。爽やかな後味が口に広がった。
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パチパチとストーブの中の薪が爆ぜる。二人の間には静かな時間が流れた。
雫は飲み終えると、カップを傍らの床にそっと置いた。そうして、口を開く。玲司はただ、黙って聞いていた。
「俺…。よく、分からなくて…」
「何がだ?」
「玲司さんと、こうして過ごすのが、楽しくて。ずっと続けばいいって思えて。それって、どういうことなのかって、考えて…。玲司さんのこと、言うように確かに友だちとは違うんです。でも、上司でもない…。今までにない場所にいる人で。これで終わりとか言われると、凄く悲しくて…。これって、なんなんでしょう?」
雫は泣き出しそうな顔をして、見上げてくる。
ああ、それは──。
玲司は一つの答えに思い当たったが、それを雫に気づかせるつもりはなかった。胸の奥がチリと痛む。
「それは…単に寂しさからくるものだ」
「寂しさ…?」
「そうだ。仕事も忙しい中、彼女にもフラれて、寂しかったんだ。その穴に丁度よく、俺が嵌っただけのこと。憧れやなんやかんや、そんな相手が身近に来れば嬉しくもなる。それだけの事だ」
「そう…なんでしょうか…」
玲司は笑みを浮かべると。
「他にその穴を埋めてくれるものが現れれば、俺は必要なくなる。昔、あんなに会っていたのに、今は全く会わなくなった連中がいるだろう? それと一緒だ。大事なものが出来れば自然と離れていくもの。悲しむ必要はない。だから、早く彼女を作れ」
「…そんな──もんなんですか?」
「ああ、そんなものだ。今は寂しさを感じるだろうが一時のもの。次を見つければ大丈夫だ。ほら、もう寝ろ。眠い顔してるぞ?」
「眠くなんか…」
「カップをよこせ。俺は火が消えるのを見てから寝るから先に──」
空になったカップを受け取ろうと手を伸ばした所へ、カップの代わりに雫が飛びこんできた。
胸もとに確かな重み。ふわりと玲司と同じシャンプーの香りがした。
雫──。
「ちょっとだけ、いいですか…? 甘えたいんです…」
着ていたスウェットの胸元が握りしめられる。どこか涙声にも聞こえた。
それに気付かないふりをして。
「…わかった。しばらく、こうしていよう」
玲司は迷った末、そっと右手を雫の背に添え、軽く抱き寄せた。外国人がやるようなハグの範囲だ。
玲司の肩口に額を預けていた雫の肩がピクリと揺れたが、それ以上、動くことはなかった。
もしこの時、雫がそれ以上、キスでも求めてきたなら応えてしまったかもしれないが──そんなことは起きなかった。
暫くして、雫の重みが増した。
「雫…?」
見れば、寝息が聞こえてくる。どうやらそのまま眠ってしまったらしい。本当に安眠枕代わりのようだ。
玲司は深いため息をつく。
雫の寝顔を見つめながら思った。どうやら、玲司自身も少なからず、雫に好意を寄せていたらしい。
いや、少ないなんてもんじゃないな。
ここまで自身のプライベートに招き入れていたのだ。相当、気に入らなければそんな事にはならない。ここまで入れたのは正直、雫が初めてだった。それも、そう言った関係なしに、だ。
先に好きになっていたのは…俺の方だったんだな。
自分の事だけを思うのなら、雫にそれは恋なのだと言って、抱きしめて自分の性的志向を話せば済むことだ。
そうすれば、雫は自分のもとへ堕ちてくる。
けれど、そうはいかない。雫は人の言う、まともな道を歩く人間だ。
俺とは違う。
柴崎と同じ、ごく普通に異性との将来を作っていく人間だ。ここで選択を間違えさせてはいけない。
一生、肩身の狭い思いなどさせられない。玲司自身はそんなものなのだと理解しているが、雫はそうはいかないだろう。
雫は皆が理想とする、一般的な道を歩くべきだ。
可愛い奥さんと可愛い子供。それらに囲まれ、幸せな日々を送る。公園で見かけた、こどもと手をつなぎ歩く若い父親、そんな姿が似合っている。
雫の事を本気で思うなら、手を出してはいけない。本当の気持ちに気づかせてはいけないのだ。
「…雫。ありがとうな」
こんな俺を好いてくれて──。
眠る雫の額に、そっとキスを落とした。最初で最後のキスだった。