1.後輩
・樺玲司…三十才。雫の上司。ゲイ。カミングアウトはしていない。
・高梁雫…二十四才。玲司の部下。今どきの若者。
・長谷川豪…四十一才。玲司の勤める会社の取引先の社員。課長。
「雫。お前今日の仕事は終わったのか?」
給湯室で若手女子社員と楽しく語らう後輩部下、高梁雫に、玲司は盛大なため息をついてからひと声かけた。腕を組み戸口に立つ。かけている眼鏡のレンズが光る勢いだ。
その声に女子社員共々、戦々恐々とした表情を浮かべる。
「すみませんっ! 樺主任。あとちょっとなんですけど…」
「雫。お前のあとちょっとは、昼過ぎからずっと聞いてるぞ。今は終業十五分前だ。あと十五分で終わるのか? それとも、残業していくつもりか? 申請はでていなかったと思ったが」
玲司が小言を言っている間に、話し相手だった女子社員は小さくなって給湯室を出て行く。
このフロアではかなり人気のある女子社員だ。今は総務課所属のはず。
今どきのアイメイクにチークにリップ。綺麗に整えられキラキラ輝くネイル。通り過ぎるとフワリと甘い香りがした。局アナばりに気合が入っている。
もっとも女性に食指の動かない玲司とってはどうでもいい事だったが、まだ二十代そこそこの男子には、垂涎ものなのだろう。理想の女子だ。さぞキラキラ輝いて見えるに違いない。
綺麗なのは華やぐし、いい事だとは思う。だが、こんな時は鼻に付く。
「あっと、その…今日はこのあと、若手の飲み会があって…」
まるで叱られて耳を伏せている犬のよう。
大手T銀行入社二年目。名前呼びなのは、同じフロアに『たかはし』が三人いるからだ。間違いを防ぐため、皆、下の名前で呼ばれている。
雫は玲司の下に配属され、はや数ヶ月。
見た目だけだと、浮ついた軽い印象を受けるのは否めない。
髪はカラーリングしているのか、やや茶色く色が抜けどこか柴犬を思わせた。くせ毛らしく、セットしているだろうに、いつもどこか一部が勝手にふわふわ跳ねている。
仕事内容には営業もある。そこまで派手では無いが、身だしなみは今どきの若者らしく、流行りを外していなかった。
しかし、見た目に反して仕事振りは堅実だった。今回の様に、仕事を途中で放り出すような事はしてこなかったはずだが。とうとう化けの皮がはがれた、と言う事か。
「…分かった。もういい。良く分かった」
組んでいた腕を解き、雫に背を向ける。
「主任…?」
「好きに飲んでこい」
期待した俺が馬鹿だった。
遠くで樺主任! と呼ぶ声がしたが、立ち止まるつもりはなかった。
主任になって、何人も新人を鍛えてきた。皆、相応の学歴と頭の良さを持っていて。叩けばそれなりに響いたが、大抵はごく普通の社員だった。
会社としてはそれで良いのだと思う。卒なくこなす事が出来る。それで十分だった。
が、今回、玲司の下についた雫は、初めこそもたついたものの、教えた事はきちんと飲み込み、自分の中で咀嚼し仕事のノウハウを自分のものにしていった。それを展開し、ほかの仕事へ生かすことができたのだ。
叩けば響く。きっともっと。
確かに今はまだまだ。だが、沢山の新人を見てきた玲司には、他とは違うのがわかる。
上手く育てれば、自身の片腕にもなるくらい出来る人間に育つはず──そう思って、気合を入れて鍛えて来たのだが、それに反比例するように徐々に雫はやる気を失くしていった。
はじめこそ、意気揚々とこなしていた仕事も、他の社員と同じく卒なくこなす程度になり。途中で何処かへやる気を捨てた。
「やってられないな」
玲司は片手で目に落ちかかった前髪をかきあげる。どっと疲れが増した気がした。
+++
「なんだ? イライラしてんな?」
高級ホテルの一室。ベッドの上、玲司より年重の男が、煙草に火を点け紫煙を吐き出す。煙草を挟む指先は骨ばって無骨だが長く綺麗だ。
顎に伸びる無精髭に、普段はかき上げている前髪が額に垂れ野性味が増している。
その傍らで、横になったままの玲司はそれらを見つめつつ、大きなため息をついた。
久しぶりに激しく求めた。男の言う通り、鬱憤をそこで晴らしたに過ぎない。
白い肌に紅い痕が点々と散る。普段なら許さないが、今日はやけになっていた。もう、どうにでもなれと言わんばかりだ。
男は笑う。
「お前がそんな状態なのは珍しいな? まるで出会った頃を思い出す…」
煙草をくわえたまま、こちらに腕を伸ばして来た。無骨な指が伸びて胸元を辿る。まだ敏感な身体はそれだけで、ひくと反応を示したが。
「まだするか…? 俺はどっちでもいい…」
「そう言う投げやりなのもそそるな」
男はまだ半分以上残る煙草を灰皿に押し付け、玲司の腰に腕を回してきた。ぎしりとベッドのスプリングが音を立てる。力強い腕は玲司が好むものだ。雫など及ばない。
だいたい、あんな奴、タイプでもなんでもない。尻の軽い女ばかり追っかけて。俺の一番、苦手とするタイプだ。
しかもノンケ。ここで比べること事体、間違ってる。
「豪。俺はいいが、そんなに調子に乗って、明日仕事になるのか?」
「大丈夫だ。こんなノリノリのお前を放って置くことはできないだろ?」
豪と呼ばれた男は玲司に覆いかぶさると、顔の横に手をつきキスを仕掛けて来る。
この男、長谷川豪は仕事上、付き合いのある商社の社員だ。役職は自分よりやや上になる。海外への出張も多く、こうしてゆっくり過ごす事は稀で。
付き合いは三年ほどになるか。大きな仕事が一段落した後、接待の飲み会で何となくそんな流れになって、今に至る。
豪は男相手は初めてだったらしいが、玲司なら行けると関係を持ったのだと言う。
気持ちいいな。
行為も勿論だが、抱きしめられるのが好きなのだ。しかも、力強く逞しい腕なら尚更。
雫の腕なんて、比べるべくもない──って、また比べた。なんだって奴がでてくる?
「なんだ? なに考えてる?」
「なにも…」
豪は何か気に食わなかったのか、急に玲司の両手首を掴みスプリングの効いたベッドに押し付けた。
「…余計な事、考えられない様にしてやる」
そう言って不敵に笑んで見せた。玲司はそれに挑戦的な視線を送ると。
「望むところだ…」
こんな事の最中に、世話のやける後輩など、思い出したくもなかった。
「…分かった」
そう言って、覆いかぶさってくる豪の熱に、玲司は翻弄され、望み通り最中に雫を思い出す事はなかった。
+++
次の日。
結局、朝方まで事は及び、寝付いた頃には起きなければならない時刻だった。
豪は午前中を休暇にしたが、玲司はそうはいかない。気に食わないと言っても、後輩の手前、こんな事情で急な休みは取りたくなかった。存外、真面目なのだ。
「少しはなまけて隙を見せた方が、後輩も楽なんじゃないのか?」
ベッドに横になったままの豪は、さっさとシャワーを浴び、着替えを済ませた玲司に呆れた様に声をかける。
「断る。俺の主義じゃない。だいたい隙なんて見せる柄じゃない。せいぜい、後輩のケツを叩く嫌な先輩を演じてやるさ」
「おいおい。変なプレイすんなよ?」
「俺は、そっちの趣味はない。またな。──豪」
去り際、サッと近寄りその唇の端にキスを落とす。元々あった無精ひげが口元にあたってチクチクした。けれど、それも男臭く好みだ。野性味があるのは嫌いじゃない。
次に会えるのはいつになるのか。
「また、連絡する…」
豪はくいと玲司を引き寄せ、さよならの挨拶にしては濃いキスを交わしてそう口にする。
「ああ」
玲司は名残り惜しさも感じつつ、そこを後にした。