黎明のマドンナ
時折、風が吹くと、古びた障子がざらりと音をたて、廃墟の中にかすかな響きを奏でる。
昔の日本家屋の面影は、今や静寂の中に漂い、壁には昔の日々の足跡が薄く残っている。
庭には忘れられた庭石が寂しげに横たわり、季節の変化に耐えてきた木々が、影絵のような美しさを奏でている。
その廃墟は、過去と現在が交錯する場所となり、一筋の陽光が破れた屋根の隙間から差し込み、幻想的な光景を作り上げていた。
その僅かな陽の光を浴びて、少しでも冷えた体を暖めようと少女は身を縮める。
「ぅ……っ」
小さく呻き声を上げる。
細い糸のような切り傷が身体中にあり、ヒリヒリと痛むのだ。
彼女は、光のない瞳で壁面に絡まる蔦をぼうっと眺める。
遠くからの風のささやきが、静かな寂寥感を運んでいた。
(早く、逃げないと……)
そう思うのに、身体は恐怖に支配されて動かない。
あの化け物に捕まって、おそらく5日以上経っている。このままだといずれ殺される。
無論、何度も脱出を図った。
しかし、どれも失敗に終わり、仕舞いには全裸にされて寒空の下へ放置された。
暖かくなってきたといえど、日が落ちればまだまだ寒い。
彼女は心細さと恐怖と寒さで身を震わせながら、ポロポロと涙を流した。
「あラあらァ〜また泣イてるノ?」
「やっ……」
目の前に影が落ちて暗くなった。
見上げるとそこには、自分を拉致した元凶が見下ろしている。
女郎蜘蛛の足元には、腐敗した死体が転がっていた。
「そ……それは……」
「あア、コレぇ? ワタシのお人形サンが壊レちゃっタのよォ。この前、新しク補充シようトしたラ、逃ゲらレちゃッてェ」
この化け物は殺した人間をマリオネットのように操り、また新たな肉塊にして操っているのだ。
犠牲者は主に男で、若い女は生き餌として連れて来られる。彼女もその対象だった。
「死体ッてすグ腐っちゃウから、面倒ダわ〜」
どさり、と死体は地面に掘られた深い穴に落とされた。
その穴には蓋が閉められ、僅かな隙間からぷぅんと腐敗臭が漂う。
(酷い……なんてことを……!)
なんの罪もない人々が、遊び感覚で蹂躙されている。
無力な少女はその光景に憤り、同時に恐怖を感じていた。
そして自分の無力さに悔しさを覚えた。
「そんなに怖ガラナクテも大丈夫よ、アナタは死ヌまでワタシノお人形サンでいられルんだからッ♪」
影がぬるりと近づいた。
少女は血の気が引いたように真っ青になる。もうじき、またあの時間が始まる。
「ジャあ〜今日もがんばっテねェ?」
それはまるで子供が遊び相手を無理やり連れていくような気軽さと、底知れない恐怖が宿っているような声だった。
「やっ!やめてっーー!!いやぁッ!!」
少女の叫び声も虚しく、剥き出しの肩に牙を立てられた。
学生街は、陽気なざわめきに包まれていた。
賑やかな声や笑い声が街を埋め尽くし、路地ごとにさまざまな活気が漂っている。
カフェのテラスでは、友達同士がお茶を楽しみながら談笑し、通りには流行の音楽が心地よく響いていた。
学生たちは書店や古着屋を訪れて情熱的な議論を繰り広げており、カラフルな看板が店先を飾る新しいトレンドの服やアクセサリーが並ぶ店舗には、若者たちが興味津々で足を運んでいた。
路上では、アートや音楽のパフォーマンスが行われ、通行人はその場で立ち止まり、その芸術に魅了されていた。
まるで街全体が一つの大きな物語で織りなされているかのように感じられた。
「失踪者、ねぇ……」
賑やかな学生街とは裏腹に、優心は物騒なことを呟いた。
名門校である黎明学院のマドンナが行方不明になったと幼なじみの雨望から聞かされた。
黎明学院は、優心の家から5分圏内にある有名な進学校だ。
ちなみにだが、優心はその学校には通っていない。理由は単純に学力の問題である。
(俺を襲った奴と同じか……? 探ってみる価値はあるか)
少しでも犯人に繋がるのなら、行動してみる価値はあるだろう。
そうと決まれば、黎明学院の生徒から話を聞く必要がある。マドンナとやらの情報を少しでも手に入れるためだ。
「……ん?」
学生街の裏道に、二人組の男を見つけた。
制服からして、黎明学院の男子生徒だ。
仲良く話している二人、気前よく声を掛けてみる。
「なぁ」
「……あ?」
茶髪の方が鬱陶しげに振り向いた。
めんどくさそうに睨んでいるが、別段それに怖じける優心ではない。
「お前、黎明の生徒だな」
「……だったらなんだよ」
「黎明のマドンナ?って奴のこと聞きてぇんだけど……」
「は?何?可愛川さん狙い?やめとけって!お前なんか見向きもされねーよ!あっはははははは!!」
「は?」
優心は首を傾げた。
可愛川、とは誰のことだろうか。もしかしたら人違いをされているのかもしれない。
茶髪が友人と思われる金髪の肩を叩いて爆笑している。彼も笑いを堪えながら頷いていた。
「いや、ちげーけど……」
「じゃあ何?可愛川さん見つけ出して一躍有名になろうって魂胆?」
「やめとけやめとけ!その制服、翔星高校だろ?馬鹿で底辺の奴なんか誰も相手にしねーよ!」
どうやら失踪したマドンナというのが、可愛川という女子生徒らしい。
優心は黎明学院のことはよくわからないが、この二人の話を聞いているうちに苛々としていくのが分かった。
人を見掛けだけで判断する軽薄さと、人を見下して勝手に作り上げたレッテルを本人に貼り付ける軽薄さがとてつもなく苛々したのだ。
(クソみてぇないけ好かねぇ野郎だ……)
確かに彼ら名門校の生徒からすれば、優心のような普通の高校に通う生徒は底辺なのかもしれない。
そして彼らのような秀才面したプライドだけが無駄に高いお利口さんみたいな人間達も世の中には存在するのも事実だった。
正直言って、関わらなければ良いだけの話だし、わざわざ自分が面倒事に突っ込んでいく義理は無い。
だが……馬鹿にされたままなのは癇に障る。
「勉強できるだけが取り柄の人間性終わってる奴より、だいぶマシだろうがよ」
「はあ!?やんのか馬鹿のくせに!!」
一瞬呆けた表情を見せた彼らだが、すぐにこちらを挑発する態度を取り戻した。
優心の中に、カチッと火が付くような感覚があった。
ああ、久々にこんな感情になった。
自分より下の人間を見て、優越感に浸る彼らの姿が実に不快だ。自分のリソースを他人に割くことさえも馬鹿らしいのに、労力をかけてまで煽りあう意味がわからない。
優心は不敵な笑みで二人に告げる。
「だったら相手してやろうか。喧嘩なら負けねぇぞ?言っとくが俺、暴れ出すと止まらなくなるタイプだから」
そう言った途端、金髪の方が顔面を殴りつけてきた。
優心は躱すこともせずに正面から受け止めると、彼の拳を左手で掴む。
そのまま腕を強く引き込み、思い切り脇腹に右拳をねじ込んだ。
「ガハッ!?」と声が漏れ、金髪は吹き飛ぶように地面に倒れ込む。
そのままうつ伏せで倒れ込んだまま、ピクリとも動かなかった。
「クソッ……!てめ……っ!?」
相方をやられた茶髪が激昂した様子で拳を振り上げた。
そして優心へと突進してくるが、タイミングを合わせた優心は手前に踏み込み、膝を彼の顔面に向かって突き上げる。
避けられず綺麗にカウンターを決めたところで、トドメにつま先でみぞおちに蹴り込んだ。
「あぐッッ!うぁ……!」
呻く声が漏れると、茶髪の身体は後ろへ倒れ込んだきり動かなくなった。
彼の足元にゲロが広がり出す。どうやら完全に気絶してしまったようだ。
「あーあ、ったく!結局何もわかんねーままじゃねーか!」
わかったことと言えば、苗字くらいだ。
こんな奴らの話じゃなんの収穫にもならない。だが先に手を出したのは向こうである以上、これでチャラにしてもらわないと割りに合わない。
「しゃーねぇ……帰るか」
学生街の裏道をまっすぐ進んで行くと、踏切がある。その踏切は少し薄暗く、おまけにひどく幅が狭い。ちょっと大きめの車が鉢合わせしたら、すれ違えないぐらいだ。
もっとも、この道をそんなに大きな車が通るところを、優心は見たことはなかったが。
「うっ……!」
踏切に近づいた時、ザーーと耳鳴りとひどい頭痛に襲われた。
あの時と同じだ。車に撥ねられて自殺しようとした女性に会った時と。
(頭が割れそうだ……!)
まるで大きな釘で頭を打ちつけられているかのようだ。
人気が少ない踏切の手前には女が一人立っているだけだった。優心は痛む頭を手で押さえて、ノイズを発する耳に耐えながら女の斜め後ろに立って、踏切が開くのを待った。
カンカンと踏切の鐘の音が鳴り響く中、優心は女を見る。
長い黒髪に、黒いワンピースを着た女性だ。まっすぐ前を見つめている。
ようやく電車の近づいてくる気配がした。
光が迫ってくるのがわかる。
女が一歩だけ前に進んだ。
この時、優心の中に一つの予感が生まれた。
電車のライトがすぐそこまで来た時、女はふいに腰をかがめた。遮断機の下をくぐったのだ。
ほぼ同時に、優心もくぐっていた。無意識の行動だった。立ち上がった時、光の束が襲いかかってきた。
誰かが悲鳴を上げたような気がしたが、何かを考える余裕などなかった。
優心は頭の中が真っ白なまま、女の身体を抱えて光の束を横切っていた。
気づいた時、優心はベッドで寝ていた。
薬品と芳香剤の混ざったような匂いが部屋中にたちこめていた。
「やあ、また会ったね」
「……………おう」
彼の顔を見下ろしていた男が言った。
優心が刺されて入院した時に、お世話になった医者だ。
どうやらまた病院に連れて来られたらしいと察しがついた。
「こんな短期間で二度も病院に運ばれるなんて、よっぽど前世の行いが悪かったんだろうね」
「うっせー!あの女はどうしたんだよ?」
「彼女なら、かすり傷程度で済んだよ。車に轢かれそうなところを間一髪助けたんだそうだね。なかなか出来ることじゃない」
「……車?」
車じゃない、電車だ。しかもあれは自殺だった。
だが優心は黙ってることにした。彼女がそう言っているのなら、それでいい。
「彼女はつい先程帰ったよ。きみにお礼を言ってくれということだった」
「礼、ね……」
本当に感謝しているのだろうか。この間の女性みたいに、何故邪魔をしたんだと憤っていないだろうか。
「う……なんか頭がふわふわするな……」
「軽い脳震盪だよ。じきに良くなる」
医者はそれだけ伝えると「もう無理はしないように。お大事に」とだけ言って、病室から出て行った。
残された優心は、何故彼女たちの自殺を予知できたのか考えてみた。
(耳鳴りと頭痛がひどくなる時って……)
そう、自殺しようとした時だ。
おそらく自殺を決意した人物に近づくと、その人の自殺願望が優心の脳内に流れ込むのだろう。
それが耳鳴りや頭痛を引き起こすのだと推測した。
しかし頭痛がするのも耳鳴りがするのも嫌だ。出来るのなら、近づきたくないものである。
それでも放っておけない。
たった一人で自殺を試みようとする人間を放っておくことは、見殺しにするようなものだ。
その人間が自ら飛び込もうとするのを知っていて、だ。
「ふー……」
息を吐くと、眠気がやってくる。逆らわずに目を瞑り、睡眠を取ることを選んだ。
もう少しだけ平穏無事に過ごしていたいだけなのにどうして上手く行かないのだろうか、なんて考える頃には深い眠りの中に陥っていた。
「…………」
窓の外から自分を見つめている人物には、最後まで気づくことはなかった。




