07.オルトマン侯爵家
床に落ちたリボンを踏み潰し、サレオスは牙を見せ口角を上げた。チラリと見える牙と人間とは違う黒い白目にもうジベルは居ないのだと否が応でも理解させられる。
消滅させられたのか、眠らされているのかは分からない。いずれにせよ、これをどうにかしない事には分からない事だ。
サレオスは少女の体で首を竦ませると、フハッと声を出した。
「そりゃあ、出るわきゃネェだろ。出たらお前らに虐められちゃうからな」
まるでこちらを知っているような口ぶり。
「あら、私達の事をご存知で?」
私はわざとらしく小首を傾げた。目も口も弧を描きながら問えば、サレオスもそれに乗る。
「ご存知ですとも〜! 悪魔じゃ知らねえヤツはいねェ!」
「そうなんですね、嬉しい」
パチンと手を叩く。自分なりの女子の反応だ。可愛いかと言われればそうではないだろう。ただ煽る為にやっているのだから。
サレオスはスッと目を細め、感情の読めない表情をした。怒った?いや違うか。そんなんじゃない。
こちらを知っているという事は私の家系を知っていると言う事。悪魔に忌み嫌われている、我が血を。
サレオスの口が大仰な程大きく開かれる。それと比例して赤い目も見開き、腕を広げた。
「裏切り者の血筋だからな、お前らは」
その目には憎しみが見える。私は口元の笑みをいっそう深め、「そうですね」と語尾を少し弾ませた。
そう、我が家は悪魔の血筋である。皆が言うよう、確かに悪魔の黒髪なのだ。
この国は悪魔を追い詰め地獄へ戻し、封印した勇者が作った。つまり王家はその子孫である。そしてオルトマン侯爵家はその勇者に力を授けた女神と恋に堕ちた悪魔との合いの子。
女神は自らの子を天界では育てられないと人間へ落とし、勇者の庇護下に置くよう願った。その子供の血が我が家系の源流である。
でも国民はこの事実を知らない。これを知るのはもう王家と我が親族のごく僅か、直系に連なる者しか知らない。
黒髪は悪魔の証拠、金の瞳は神から授けられたもの。相反し合うものが入り混じる人間、それこそがオルトマン侯爵家である。
サレオスは私の金色の瞳を見るとツバを吐いた。
「嫌な色だぜ」
「私は好きですよ」
「そういや、あいつもそう言ってたな。本当に馬鹿な野郎……いや、苛つく野郎だ」
彼は私の祖先を知っているのだろう。そんな口ぶりだ。一瞬、懐かしげな顔をしたが直ぐに歪める。私達にとっては大昔の話だが、彼らにとってはそんな前の事でもないのかもしれない。
彼らに寿命という概念はない。あるとすれば消滅だけ。
しかし、悪魔を消滅させるのは並大抵の事ではない。こちらの犠牲も多くいる。
「同胞を殺す手を教えるなんてなァ」
だけどそれは通常の場合だ。オルトマン侯爵家は悪魔を消滅させる術を持つ。いや、それに特化した力を持つと言った方が正しい。
悪魔は術を授け、女神は魔を祓う力を授けた。
「まあ、俺はそこら辺の雑魚じゃねぇ。やられる前に逃げっけど」
逃すわけがない。逃すわけにはいかない。逃すという事はジベルが死ぬという事。媒体が死ねば悪魔は地獄へ帰る事が出来る。媒体の魂を土産にして。
場に緊張が走った。だけど、それを払拭するように私は笑う。
「逃げるんですか?」
挑発にも似た嘲りの声だ。お前は弱いのね、という思いを乗せた。しかしサレオスはそこまで馬鹿ではないらしい。自分が置かれている状況を理解していた。
「別にお前らを殺しても良いんだぜ? でもお前らが卑怯なせいで万全じゃねえ」
サレオスが言う通り、今このホールは彼を追い詰める準備がされていた。ひっそりと動く家の者達。その中には私の婿となるミヒャエルもいる。
床に撒かれた聖水と等間隔で刺さった短剣、うっすらと焚かれた香、全てかの者の動きを抑制する働きがある。
彼がそう言うという事は既に効き始めているという事。喜ばしい事だ。
「暇潰しで来て殺されてたまるかよ?」
憎らしげに、でも楽しそうにサレオスは言った。細い首を自身の人差し指で撫で、長く鋭い爪が掠った首からは赤い血が流れた。速まりそうな鼓動を必死に留め、何もないように微笑む。
「暇潰し、ですか」
サレオスはジベルの細い体を大きく揺らしながら近寄ってきた。顔と顔が付きそうな程の近さでニンマリと歪に笑う。
「もうあっちは娯楽がねえんだよ、俺らは楽しい事が好きなんだぜ? なのにお前らが、ああ、お前の先祖な。お前のえら〜い先祖が俺らをあそこに封印したからそう簡単に出て来れねえ」
するりと肩に触れたサレオスの手からジュッと音がした。肉が焼けるような音に眉を顰め、サレオスは手を見る。触れた指は赤く爛れていた。
私の着ているドレスは全てに銀糸が入っている。それに触れればそうなるだろう。何たって聖水が染み込んだ糸だ。ひりひりと痛むに違いない。
火傷の手をサレオスは握り締め、「兎に角」とニヤついた顔に戻した。
「俺らにとってはこっちに来るのはゲームなんだ」
ふらふらと重心をずらしながら、だが手の動きは激しくサレオスは歩き回る。間隔の大きい足音が高いホールに響いている。高らかな声と低いヒールの音、それがとてつもなく煩く感じた。
きっと彼の事が嫌いだからだろう。そもそも悪魔など生まれて此の方好きになった事はないけど。
先祖は別として。
「俺らは封印のせいで自分達でこっちには来れねぇ。でも呼ばれれば来れる」
つまり誰かがサレオスを召喚したという事だ。ジベルか、それ以外か。まあ、それは後で聞けば良い。
「呼ばれたらラッキー! ゲームの始まりだ」
声に笑いが滲み出ている。嬉しそうな声は確かにゲームを楽しんでいる子供のようだ。
サレオスは更に歌うように言葉を続けた。
「賞品は人間の命、それも一人分じゃない。場合によっては何十人も何百人も、いや過去に戦争を起こさせたヤツもいたな。その時は何人だったか? まあ、いいや、そんくらい」
三万人だ。戦争で三万人もの人間が命を落とした。記録上その数なのだから実際はもっと多いに違いない。
七代前の当主の失敗によりその戦争は起こされた。そして当主もその戦争で伴侶を亡くした。
「過去の失敗」と言うには重すぎる犠牲はオルトマン侯爵家の教訓となっている。
細部まで気を抜くな、最初こそが肝心、初期の内に潰せ、と。
サレオスは戯けたように視線を上げ、パチリと瞬く。赤い瞳と目が合うと肩をすくめられた。
「まあ、兎に角。おもちゃを取り上げられて癇癪起こす程、俺はお子ちゃまじゃねぇ。失敗したなら帰るだけだ」
そう言ってサレオスは自身の胸に爪を当てた。
「でもこいつは面白くねェおもちゃだったな。人一倍嫉妬深い癖に臆病で小心者。あー、なんてェの?ストッパーが強い? ああ、理性がちゃんと働いてる? そんな感じでこうなるのに時間がかかったなァ。でも結果はこれなんだからよォ、本当つまんねぇヤツだぜ」
こちらの様子を伺うようにサレオスは指先を動かす。いつでも胸を抉る事が出来るのだというように。
ジベルが正常だった時を私は知らない。私が社交に興味がなかったという事もある。だけどジベルがああなり、調べた結果、彼女は本当に普通の子だった。
善良な両親に、同じような気質の友人達。趣味は読書と刺繍、悪い噂など何も無かった。大人しかった為、目立たなかったからかも知れないが。
ジベルは本当にミヒャエルが好きだった。私は調査書に記された文字を見ただけ。でも記された言葉はミヒャエルへの恋心を如実に語っていた。
廊下ですれ違う時は直視出来ず、頬を染めて俯いてしまうだとか、でもミヒャエルが通り過ぎれば振り返ってしまっていたとか。挨拶をされただけなのに一生分の奇跡を貰ったとばかりに喜んでいただとか、そして私の存在に打ちのめされた、とか。
友人、メイドの証言に過去の彼女の姿を見た気がした。
彼女はミヒャエルに噴水に落ちたハンカチを拾って貰ったらしい。そこが彼女の恋の芽生え、そして地獄の入り口だった。そう、言葉通り。
「ちょっとその理性ってやつを壊してやったら、やっと俺好みになったと思ったのに」
もっと早くやっとくべきだったなぁ、サレオスは笑った。
カリッと指が動き、ジベルの制服が一部切られる。私は瞼を閉じ、背後の気配を探った。
慣れた気配が全ての完了を声も無く教えてくれる。
「ふふ」
私は両手で顔を覆い、笑い声を漏らした。切られた制服の間から線のような血を流しながらサレオスもつられて笑う。
「俺の話は面白いだろう」
得意げな顔で宣う、何を勘違いしているのか。
確かに私は今とても面白い。
「ええ、とても」
でもそれはお前の話ではない。あまりにお前という悪魔が間抜けだから笑ったのだ。
シャンと鈴が鳴る。ピンと張り詰める空気にサレオスの表情が固まった。気づいたのだろうか。もう逃げられはしない、終焉に向かっている事に。
「お前」
シャンシャンシャン
鈴の音は高い天井によく響く。広がれば広がる程、魔を抑えるのに効果的だ。その効果にサレオスも気付いているようだ。動かしずらそうに足を一歩出そうとしている。しかし、途中でぐしゃりと潰れ、床に頬をつけた。先程、上機嫌そうに語っていた姿を忘れてしまいそうな程惨めな動き。実に滑稽ではあったが、別に笑いはしない。
私は這いつくばるそれを正面に見ながら張り詰めた空気を細く長く吸った。
――シャンシャンシャン
鈴の音は魔を抑え、私を守るもの。もうこの場は私の独壇場だ。
私は指輪に仕込んだ針というには鋭すぎる刃物を親指に突き刺す。プチリと皮膚が裂け、赤い血が指先を伝い床へと落ちた。
少量の血じわりじわりと床に円を描いていく。落とした血は少量だ。しかし、血は私の足元を覆う程大きく広がっている。だがそれに驚く者は私の周りにはいない。そういうものなのだ。理屈は知らない。だがこうでなければならない事だけは知っている。
「お前!!」
サレオスは這いつくばりながらも、場に響く声量で私の名を呼んだ。血走った目は可憐なジベルには似合わない。実に醜いので早く居なくなって欲しい。
私は返事をする代わりにニコリと微笑み、足元の血溜まりに手を伸ばした。指先が血に触れ、床を通り抜ける。本来は突き抜ける事のない床の先に私の求めている物がある。
触れたのはひやりと冷たく硬いもの。慣れ親しんだそれは私に擦り寄るように自らを差し出した。その健気さがいつも愛おしい。
私は優しく慈しむよう指先でひと撫でした。そしてその柄を掴む。
ずるりと床から抜けたもの、それは両刃の剣だ。私の体の半分もある剣はこの世のものとは思えない程美しい。刀身が銀だからだろうか。それとも柄に施された装飾がそうしているのだろうか。いや、恐らくこれを作る全てが美しい。
剣の切先が床に触れる。すると床に広がる赤が音も無く、しゅるりと剣に吸い込まれていく。全ての血を吸い込んだ銀の刃は一層美しく輝き、そして柄に巻かれていた繊細な作りの紐が赤く染まった。しゃらりと涼やかな音が鳴る。柄の先に付いている幾つもの小さなガラス玉の音だ。
「ふふ」
高揚する。目に入る銀色、響く鈴の音、愚かな悪魔の声。
私は切先を床に付け、くるりとターンする。薄らと残った赤が円を描き、床に吸い込まれるように消えていった。
「何故出てこようとするのでしょうね、悪魔と言うものは地上に」
そんな良いものでもないだろうに。本当に暇潰しだとしたら面白い。それで消滅してしまうのだから本当に愚か。それともかつてと同じように地上を手に入れようとしている?手に入っても何れは彼らの住む場所と同じになるだけだと思うのだけど。
「あなたは戻れるのでしょうか、それとも此処で消えてしまう?」
私はガラス玉を鳴らしながら本能に従って足を動かす。双刃が触れる床は仄かに青白く光っていた。目指すは始点、描くは円。その中心にはサレオスがいる。
鈴は鳴り続け、笛が不安定な音階を奏でる。音が重なり、高い天井に反響した音は幾重にもジベルの体に負荷を与えているようだ。呻く姿を視界に入れたり、入れなかったり。
「おまえぇぇぇ!!!」
潰れた体を起こそうと肩が動いた。だが笛の音がそれを制止し、ベシャリと潰れる。
「ふふ、ふふふ」
「お前!!!ザッ」
最後の足掻きでサレオスは上体を再度起こそうとしていた。首を上げ、肘を床に付ける。ぐっと腰を上げようとしていたが、それは可哀想にまたも阻止されてしまった。
サレオスは気付かなかったのだろう。背後にミヒャエルが近付いてきていた事を。ミヒャエルは無表情でサレオスの体を踏み付け、もう二度と起き上がらないように片足を背中に固定している。
「このクソがぁぁぁあ!!!」
サレオスは辛うじて動いた首でミヒャエルを見ると泡を飛ばしながら悪態をついた。
「泡飛ばさないで貰える? 汚いからさ」
ミヒャエルは前に垂れてきた三つ編みを後ろへ払い、顔を顰める。
皮はジベルだから少し不思議な気分だ。あんなにも可愛くミヒャエルにくっ付いていたのに、泡を飛ばすだなんて。死んでも見られたくない姿だろうに。
(でももう、殆どサレオスに取り込まれてしまってるからそんな事も思えないのでしょうね)
不憫だ。だがこればっかりは本当にしょうがない。何度も言うが自業自得だ。悪魔が幾ら唆してきたとしてもその手を取ってはいけない。あるのは崩壊のみ。
なおも動こうとするサレオスは辛うじて動く腕を使い、必死に喉を掻き切ろうとした。そんな事許される筈もない。サレオスの手を目掛け短剣が投げられる。
「グッ! アアアアア!!!」
短剣は床とサレオスを縫い付けるように両の手の甲に突き刺さった。黒い、悪魔の血がどくどくと流れ床を汚す。短剣が触れている傷口はじゅくじゅくと沸騰しているように体液が滲出していた。
赤くない、良かった。弱っている証拠だ。
「足もやりますか?」
描かれた円の外側からコンラートから声が掛かる。私は首を横に振り、足を動かしながらサレオスの名を呼んだ。
「ひとつ聞かせてください」
苦しみ続け、煩いサレオスの背中にミヒャエルが更に力を込める。「うっ」と声が止まり、赤い瞳がうろうろと彷徨った。
始点まであと少し、引き摺る剣の涼やかな音が止まる事なく響き続ける。
彷徨う瞳が怯えを孕んだ視線をこちらに向けた。
「サレオスを呼び出したのはジベルですか?」
赤く、黒い瞳が揺れる。だが直ぐに虚勢を張った。
「ハッ! こいつがそんな度胸あると思うか?」
サレオスの手首にあるブレスレットを見た。もう全体的にくすんでいる。サレオスは私の視線の先に気づいたのだろう、投げやりに笑い声をあげた。
「お前の考え通りだよ! あいつはこれを買っただけ! まあ、買うように唆したのは俺だがよ!」
お喋りな悪魔は扱いやすい。とても素直だ。
それにジベルが召喚していないのであれば、ジベルはきっとどうにかなる。
「そう、ありがとうございます」
私はにっこりと笑った。もう悪魔に用は無い。
笑みを深め、最後の一筋を描く。剣が始点と終点を繋げた瞬間、淡く光っていた青白い光が一層輝きを増した。神々しい光の中、絶望に染まる悪魔の顔が見えた。
「さようなら」
これで本当に最後だ。私は剣を大きく振り上げ、繋がった線の上に突き立てた。広がるのは光、描いた円の上を聖水が水流のように巡る。短剣に堰き止められた青白い光が溢れ、円の中側を満たしていく。まるで意思を持つように光は分岐し、別たれた銀色の光がサレオスを囲う紋を描いた。
「やめろ!! やめてくれ!!!」
自分の消滅という絶望が彼に襲いかかっているのだろう。
彼が楽しそうに話し始めた時から全て此処に行き着くと決まっていたのに。
「愚か、とても愚かで面白いですね」
柄に付いているガラス玉がしゃらりと鳴った。
瞬間、光がホールを覆い尽くす。目が眩む程の光の中、黒い影がしゅるりと上がった。だがそれは瞬く間にポンと軽い音を出して消える。
悪魔が消滅した音だ。
光が収束した後、その場にはジベルが倒れていた。手の甲の傷はもう無い。爪も短い彼女が小さく息をしていた。
本日あと1話、エピローグを投稿致します。
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