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違い、埋まらなくとも。

違い、埋まらなくとも。

作者: 佐藤朝槻

 

 大学冬休み前日、トモは実家に帰らないと言いだした。暗く沈むその目に焦燥感を覚えた。

 俺はその場で思いついた建前を早口で並べる。


「お前ん()、泊まってもいいか? 年明け締め切りのレポート、間に合いそうになくて」


 言った直後、さすがに図々しい頼み方だと思い、慌てて「一泊でいいから!」と付け足した。

 目を見張った後、トモの放った「いいよ」は、彼の暗い瞳からは想像できないほど軽かった。


「でも泊まるなら大晦日にしてくれない?」

「俺はいいけど、いいのか?」


 トモは静かに頷いた。



 ○



 そういうわけで、大晦日の今日、俺はトモの家で課題レポートを処理していた。


 トモの部屋は一人で暮らすには申し分ない広さのはずだが、ところ狭しと本が積まれている。


 その積まれた本をちらりと見ると、教科書指定された専門書から小説、エッセイ、投資本、新書、漫画まで、さまざまなジャンルの本が混ざっている。

 トモが山積みの本から一冊引っこ抜き、パラパラとページをめくる。

 よくこのカオスな状態から目当ての本を見つけられるなぁ。器用な奴。


 ラジオに耳を傾ければ、お笑い芸人が今年という一年をあらゆる切り口から面白おかしく振り返り、リスナーもそれに応えるようにSNSで盛り上がっていた。

 そのお祭り騒ぎも、俺たちのタイピング音が容赦なくぶった切ってしまうのだが。


 が、課題レポートが半分片付いたところで俺の集中力がついに途切れた。


 こたつに入り、寝そべりながらパソコンを触っていたせいだろう。腰痛と肩凝りがひどく、眠気を誤魔化すのも限界を迎えていた。


「寒いんだから隙間作らないでよね。電気代食うし」

「悪い、トモ」


 パソコンを閉じ、仮眠を取ろうともぞもぞしているとトモに軽く叱られた。

 トモはこたつのスイッチを入れ、すぐにパソコンと向き合った。

 俺は邪魔しないよう、黙って横になった。服と布団の擦れる音すら耳障りに感じた。


 この重苦しい雰囲気。嬉々として缶詰めになっていないようだ。ついでに彼の神経が立っている。缶詰めになった原因はなんだ? 最近の言動に答えらしきものは見当たらないが……。


 もう少しさかのぼってみよう。

 彼への第一印象は、世話焼きだった。

 初対面の俺が風邪をひいたときもそばにいたくらいなので、相当の世話焼きだと思っていた。


 しかし、今は第一印象とかなり異なるイメージが強い。

 入学して間もなく恋人を作って二週間で玉砕。恋愛に懲りるとサークル仲間と夜通し遊び、元カノの秘密を暴露した小説を部誌に掲載した。


 やっと悪趣味な遊びに飽きたかと思えば、アルバイトに明け暮れ、学生の起業説明会に足を運んでいるかと思えば、また恋愛の噂話も小耳にはさんでいる。

 とにかく一つの場所にとどまることを知らない。


 駄目だ。缶詰めになった理由がさっぱりわからん。

 そもそも、俺はトモについてほとんど知らない。


 顔を合わせるのは講義前後の休み時間。それもお互い合わせてとるのではなく、偶然お互いが同じ講義を受けたときだけ。


 当たり障りのない天気の話から始まり、トモの個人的な、恋愛やサークル、起業など当たり障る話に突入すると、彼は独自の見解を言いたいだけ言って、最後は誇らしげに「そういうものだ」と結んでしまう。


 とにもかくにもトモはそういうやつだ。そして、俺にとって彼は大学で唯一の友達である。

 こうして課題レポートを年内に納めるべく泊めさせてもらってるんだから感謝すべきではある。

 そうだ、俺は課題レポート処理を頑張ればいいのであって、トモの事情など知る努力をしなくていい。

 疑問を投げ捨てたとき、トモが話しかけてきた。


「仮眠?」

「ああ」

「じゃあ僕も休憩」


 トモは大きく伸びをした後、パソコンを閉じて台所に立った。香ばしい香りからしてコーヒーを淹れようとしているらしい。


 徹夜する気満々なのだろうか。

 寝返りを打って目を閉じて静かにしていると、コトンとマグカップを置く音が二回した。


「置いとくね」

「ああ……。悪いな」

「カフェインは目覚めにいいって聞いたから」

「らしいな」


 腕を伸ばしてマグカップの取っ手を探し、口元へ運んでみると、火傷を警告するかのごとく湯気がたゆたう。

 マグカップをこたつ台に置き直した。


「なぁ」

「うん?」

「課題レポートどれくらい進んだ?」


 寂しくなった口をトモに向かって動かした。彼は物思いに耽ける様子だったが、意外にも穏やかな表情で俺の声に耳を傾けてくれた。


「課題レポートはもう終わったよ。今は小説の直し」

「小説? 来年の学祭用?」

「いいや。ノリで小説大賞に作品を出したら担当編集がつくことになったんだ。受賞は無理だけど頑張ってみないかって誘われてね」

「……へぇ」


 驚きのあまり、気の利いた言葉が何も出なかった。


 集団に混じって明るく遊んでいると思ったら、こんな根暗な俺にも話しかけてくるような、とにかく社交能力がずば抜けている。そんなとらえどころのないトモが肩書きを得るとは思わなかった。


「担当がスパルタなんだよ。二十歳の集いに出たいって言ったら、じゃあ年明けまでにこれだけは直せって、締め切り短くされちゃったよ」

「それで年末年始は帰らないって言ってたのか。それなら俺が泊まって大丈夫なのか? 邪魔じゃない?」

「平気、平気。一人の時間は苦手だし」


 俺の動揺に見向きもせず、トモは照れくさそうに笑っている。

 一人が苦手なら実家に帰ったほうがよかったんじゃないか、と言おうとしたところでプシュっという音が聞こえた。


 体を起こすと、こたつ台の上にはマグカップのほかに缶ビールが置かれていた。


「コーヒーは?」

「気が変わった」


 呆れて言葉に詰まった。自由奔放なのは相変わらずだ。

 酒をあおったトモは高揚し、怖い雰囲気は消えていた。それどころかぐいぐいと詰め寄ってくる。

「それより聞いてよ」

「なんだよ」

「僕、トモは生きてないんだ」

「突然だな」


 作家になった話とは違い嘘だとわかるけれど、対処に困る。

 こちらの考えなどお構いなしで彼は言葉を繰り返した。


「僕は死んでる。アンダースタン?」


 ネイティブぶったカタカナ英語で同意を求めてきた。

 困惑こそするが、課題レポートの気晴らしに、この話に付き合ってみるのも悪くない。

 付き合う合図として、俺はこたつ台の上に置かれたもう一缶のビールを開けた。トモはにんまりと笑みを浮かべ、俺が手に持つビール缶に乾杯してきた。


「死因はなんだ?」

「これから考える」

「いや考えてないんかい!」

「死は予測できないのが常識でしょ」

「口ありの死人《お前》がそれを言うか」


 堂々と胸を張って言えるのが不思議だ。死にたいじゃなく、死んでるから始まることなんてあるか、普通? トモだからあり得てしまう。


「じゃあ訊き方を変える。きっかけは何?」

「僕は制服デートしたことある奴ら皆滅べばいいと思ってるけど滅びないから、僕が先に滅ぼうと思う」

「死人は寝てくれ」

「大真面目な話なんだけど」

「真面目な話で制服デートを持ちだすわけあるか!」

「僕だって制服デートさえしていれば、二十歳の大晦日に君と二人きりで過ごしやしないよ!」


 バツの悪そうな顔に浮かぶ彼の目が力強い。

 制服デートが気に食わないと言ったそばから、制服デートをしていればって、お前言ってることめちゃくちゃだからな? あと大晦日に二人きりで過ごす虚しさはお互い様だと思うぞ。


 トモは立ち上がり、缶ビールを高々と天井に向かって掲げている。どうやら目尻にたまった涙を流さないよう堪えているらしい。


「ああ、あのときの僕への報いか!」

「下手な芝居いらないから。作家の卵になったんだから結果オーライだろ」


 トモは俯き、押し黙った。俺の指摘が気に食わないのが伝わってきた。

 いつも俺はトモの話を聞くだけ。たとえ意見が異なっても反論はしてこなかった。自己完結してるから反論するだけ無駄だと知っているためである。


 じゃあなんで今日は反論するのか。それは自分でもよくわからない。酔っているせい、ということにしたい。


「俺ならそう思うって話だ。お前には結果オーライじゃないんだろ」

「……制服デートについて考えることと作家になること、どちらが人生で大事かなんてわざわざ口にするまでもない」

「現実的に考えれば後者だな。理想は定職を持つことか」

「君の理想は小さくてつまらないね」


 俺はいつものように耳を貸す姿勢に戻そうとしたが、トモはあぐらをかき、あからさまに拗ねた態度を取った。普段聞く耳を持たないトモが、俺の言葉に反応し、ダメージを受けている。立場が逆転していた。


 戸惑いながら、「そこまで制服デートに拘る理由を知りたいね」と話を振る。

 彼は覇気のない声で語りだした。


「僕は創作が好きだ。創作で描かれる制服デートと現実の制服デートには大きな差があることを知っている。断然に前者のほうがすばらしく多幸感に満ちてることも、現実があの理想に遠く及ばないことも理解している。けど、理屈ではわかっても、僕は目を向けないなんてできない。自分だって青春らしいことをしてみたかった。放課後、可愛い女子と手をつなぎたかった。漫画の主人公みたいなこと、してみたかった。誰もが人生の主人公は自分だと思ったはずでしょ!?」


「お、おう……」


「でも考えてよ。告白したら瞬く間に噂が広まってからかわれる。学校がそういう世界だと僕たちは知ってる。わざわざ嫌な思いをするために恋愛なんかしたくない。おまけに校則には恋愛を認めないとある。


 だから自然と現実の女子は可愛くないし、世界もそう操作してるんだと自分に言い聞かせる。だから僕のいる世界に好みの女子はいないと思い込む。そんな恥ずかしいことばかりしていた」


「その発言も恥ずかしいと思うが」


 拗ねているトモに、俺も覇気のない声でツッコミを投じた。

 彼は俺の言葉なんて聞いてなかった。おもむろに手を伸ばし、空気中で手のひらを握った。空気を掴む彼の手には何もなかった。


 何ごともなかったかのようにその手を下ろすと、「そうやって目を背けてる間に高校生活は終わった」とトモは口を開いた。


「制服デートのチャンスは生涯たったの六年。青春漫画を読んで知ってるはずなのに、僕が本当に気づいたのは大学受験が終わった後だった」

「……」

「それでわかったんだ。制服デートをする奴らはすごい。今を楽しめる。ちゃんと今と向き合うことができてる。そんな奴らが人生の勝ち組にならないわけがない! でしょ!」


 徐々に喋りが速くなり、我慢しきれなくなったトモは俺の両肩をガッツリ掴んだ。勢い任せの力に押され、俺が持つビール缶からぽちゃん、跳ねる音がする。


「この際、理屈はどうでもいい。僕はあいつらが憎い! 青春を謳歌した奴らが嫌いだ!」


 すごいと称賛したり憎んだり、めちゃくちゃだ。でも、それで制服デートしたことあるやつらに滅んでほしいとか云々の願いにつながってるわけだ。

 ……制服デートをすればいいだけじゃないだろうか。


「恋人を作ってコスプレさせるとか?」

「ばかばかしい」


 俺の軽いノリで提案したそれをトモは一蹴した。彼の拗ねた表情は真顔へと変化する。


「あれは邪道だ。惨めな大人のすることだ」

「惨めか」

「惨めだね。大人そのものが惨めなのに余計に惨めになるなんて不快でしかない」

「そんなに大人が惨めか。何があったんだよ……」

「何もないよ。あの頃も今も何もなくて怖くなるほどにね」

「何もない?」

「そう。きっと僕には青春の資格がなかったんだ」


 寂し気に吐露したトモだが、熱く語っていたせいで汗をだらだらとかいていた。こたつの電源を切ろうと俺の両肩から手を放した。

 熱で溶けそうな俺は舐めるように酒を飲む。


「問題はここからだ。僕の青春する資格がなくなったのは、誰が悪いのか。まずは僕自身の怠慢さだろう。でも僕だけじゃ説明がつかない。では誰か。わかるかい?」

「さ、さあ」


 首を捻って先へ促す。


「地球だよ。何十億もの人々が存在するなか、僕が惚れ込んで病んでしまうような女子に出会わせなかったのが諸悪の根源。おのれ、地球。いくら人間が環境破壊をしてるからって、人類に、しかも僕から制服デートという青春のビッグイベントを奪うことはないじゃないか。そんなに地球は僕を嫌うか!」


「そんな横暴な理論……」

「そういうものなんだ!」


 酒焼けと熱弁でトモの声が掠れていた。駄目だこりゃ。完全に酔いが回ってるよ。

 呆れた俺が首を横に振るとトモは肩を落とした。

「君に共感を求めるのが無駄なのはわかってる」

「なんで」

「君は女子高生と一緒に帰ったことあるでしょ」

「否定はしないけど」

「けど何」

「俺が共感できないのはそこじゃない」

「じゃあどういうことなのさ?」

「それは……」


 俺は制服デートをしたことがある。ゆえにこいつの意見に全面的に共感するのも肯定できない。トモの指摘は間違っていない。

 が、俺の共感できない部分はそこじゃないのだ。言葉にできれば話ははやいのだが、適切な言葉がわからない。

 言葉に詰まっていると、彼は低い声音で突き放す。


「キスしてたことも知ってるよ。彼女ちょっと嫌がってたじゃん。卒業後別れたのは原因はそこ?」

「あれが原因じゃないが……。なんで知ってるんだよ」

「絶対教えない。この裏切り者。地球にも君にも裏切られた気分だ。つまりは僕の敵」


 そう言ってトモはくるりと体を回し、壁と対峙する。

 トモの弁は世界を巻き込んでおきながら、その熱は制服デートがしたいだけという魂の叫び。


 地球も溜息を吐きたくなるんじゃないだろうか。地球の気持ちなど知らないが。

 あと裏切られているのは俺のほうだからな? なんでこいつ俺の高校生活を詳しく知ってるんだ? 同学年でもないのに。


 だが今は、突き放されたことが少し寂しい。

 たとえ制服デートしていなくとも、それを悔いたとしても、後悔を払拭するだけの功績を積み上げようとしているから、大学じゃ顔が広いし作家の道も切り拓けたのだろう。


 ならば、世界の中心は自分とでも言えばいいじゃないか。それこそ地球を敵に回して、堂々と胸を張っていればいい。そういうものだって論破したらいい。

 そんなトモを否定しない。だから俺を否定しないでほしい。じゃないと、苦しい。


「敵視すんなよ」


 力なく発した俺の声はとても細かった。


「なるほど君は僕に慈悲を与えようとするんだね。そうかい、そうかい。でもいいんだ。君は勝ち組、僕は負け組。君は堂々と生きてくれたまえ」


 また、トモの声が低くなる。

 しばし沈黙が流れる。その沈黙はたいへん居心地が悪い。

 ビール缶に視線を落とす。


「どう考えてもお前のほうが羨ましい状況にあると思うんだよな。友達は多いし、不貞寝野郎のくせに余裕綽々(しゃくしゃく)で単位取るし、出してみた小説で評価されて担当編集つくことになるなんてラッキーすぎるよ、お前」


 口を開くたび、他者を踏み込ませまいとする壁がポロポロと剥がれ落ちていく。自分の声が耳に届くたび胸が苦しくなる。


「それに比べて俺は、浪人して、高校卒業後は友達から嫌われ、彼女に振られ、浪人時代に人との円滑な接し方を忘れて大学で友達作りに失敗し、単位取得数は危うくていいことなし……。お前の友達として俺は惨めだ」


 制服デートの思い出一つじゃ割に合わない。

 トモは振り返るも目を伏せ、何か考えている様子だった。魚みたいに口を開いては閉じてを繰り返したのち、やっと出た言葉は短かった。


「……友達?」

「違うなら違うでいいけど」

「いや、僕らは友達」


 屈託のない笑顔を浮かべるトモ。

 いじけている相手に嬉しそうにするなんて理解しかねる。理解できないのが自分のせいなのか、トモが変人なのかわからないまま、嫉妬の混じった言葉を重ねる。


「制服デートごときで嫉妬される身にもなれ。隣の芝生に侵食される気分だよ」

「ごときってなんだよ。……うん? つまり制服デートの魅力をわかってくれたってこと?」


 どう聞こえたんだ? 制服デートたった一つで嫉妬するのやめろって言ってるんだけど?

 酒をあおって感情と言葉を濁した。


「もう俺が悪いってことでいいから、この話はやめよう」


 振り返って思い出すのは、忌々しい過去。それと今日の制服デートの話はまったく関係のない話だ。

 入学以降、浪人したことを、あの孤独な日々を、今の今まで誰にも話したことなかったのに……。今日は二人とも変だ。


 トモは立ち上がりコートを羽織った。俺が体を起こすと「コンビニ行ってくる」と言った。

 

「今から?」

「今じゃなきゃ。言っとくけど奢る気はないからな」

「何買うつもりだ?」

「教えない。ついてくるなよー」


 その冷めた発言と背中に一線を引かれた気がして何も言うことができなかった。

 俺はぬるくなったこたつに潜る。


 目蓋が痙攣した。お前が彼を不快にさせたんだよ。そうからかわれた気がした。

 否、きっと課題レポートで疲労が溜まっただけだろう。

 視界を遮断した。



 ○



 いつの間にか眠りに落ちていた。夢と現実の区別が朧気ななか、嗅覚が醤油の香りに刺激され、腹が小さく鳴った。


 体を起こして香りのもとを探す。

 こたつ台には、二つのインスタントそばがあった。すでに湯が注がれており、つゆの香りが漂っている。


「年越しそば?」

「そう」

「買ってきてくれたのか」

「年末だからね」

「……悪いな」

「いえいえ」


 トモは、インスタントそばに生卵とわさび、さらに一味を勢いよくかけた。「君はどうする?」という笑顔に俺はたじろぐ。


「わさびと一味両方はやばくないか」

「やばくていいの」

「開き直るんかい」

「うまいにやばいものなんだよ」

「そういうものか」

「そういうものだ」


 誇らしげに胸を張る友。そこまで毅然とした態度だと真似したくなる。


「俺も入れる」

 その言葉を最後に、俺たちは無言でそばを啜った。


 黄身とそばの絡み具合、そこに最初にくる一味の刺激、後から遅れてくるわさびの辛味が口の中をさっぱりしてくれる。


 ズズズと豪快に喉に流し込んでいく。喉が熱しながら、体の中心へと落ちていく。食べ終えた頃には体が温まり汗ばんでいた。


 満たされた幸福感を胸に、一枚のプリントを手にして次のレポートのテーマを確認するふりをしながら、トモの機嫌が気になったが、すぐに気にならなくなった。

 俺の胃が悲鳴を上げたからだ。

 こたつ台に突っ伏す。


「まだ眠い?」

「いや、胃が……」

「辛いの苦手?」

「お前が強すぎるだけだと思う」

「そうかな? 流し込む?」


 彼の手に握られているのはビール缶だった。


「遠慮しておく」

「じゃあ僕が飲む」


 俺は噤んだ。

 なんとかしたいのは胃痛であってこいつの暴飲じゃない。ついでにこいつも胃痛に悩まされたいいのに、と思った。 外は寒かったのだろう。鼻を赤くするトモが、酒をぐっと飲むと、頬まで紅潮した。


「どれだけ愚かになれば僕の気は済むんだろう」


 酔いの回った彼は怪しい呂律を回しながらひとりごちた。虚空を見据えるその瞳は、今目の前の景色を視界に入れることを拒むような冷ややかなものだった。


 腹痛で突っ伏す俺と目が合うと、トモはわずかに微笑んだ。その視線から逃げるように俺は逸らした。


「君が知らなければ言うけど、僕は寛容じゃなくてね。背負う後悔は制服デートの他に欲しくないんだよ」

「うん」

「そういうわけで君と卒業旅行に行くと決めた」

「えっ」


 視線を向ければトモは無言で頷く。絶句する俺に、彼は笑みを深めて補足した。


「ああ、君は単位取得に苦労してるんだったね。大丈夫。君が留年したら他人と行く。気楽に頑張って」

「……嫌な言い方するのな」

「そうやって羨ましがってくれると執筆が捗る」

「薄情者」


 にやにやと笑う笑顔が憎いが、こんなやりとりができるのも今だけかと思うと、なんとも言えない気持ちになる。


 進級すれば就職活動が始まる。三年から始める学生は多いし、俺も準備は進めるつもりだ。

 トモの作家業も本格化したら、俺がトモと接する機会は、下手したら卒業旅行くらいまでないかもしれない。卒業旅行すら実現できるかどうか約束しづらい。俺は単位を取るのがどうも得意じゃないし。

 そんなこと考えていると、視線が自然と床に吸い寄せられていく。


「他人ってなんだよ。行くなら友達と行けよ」


 将来への不安を誤魔化そうと、別の言葉を吐いた。

 トモがすぐに答えないことに違和感があった。

 間を埋めるように俺は口を開く。


「俺と違って友達多いんだからそういう言い方はよくないぞ」

「……本当にそう見える?」


 一瞥すると、眉を落とし苦い笑みを浮かべたトモの姿があった。こたつ台の上に置いた手を何度も組み直しながら、彼は言葉を紡いでいく。


「僕はね、自分の嫌なところを削ぎ落すために毎日必死なんだ。でも僕の友人は真逆らしくてね。弱さはみせないけど、削ぎ落とそうともしないんだよ。他人にも強くあることを求めない。それは強さだ。優しさだ。僕もそうなりたいけど、どうも胸の内を明かしてくれないから、どう目指せばいいかわからないんだよ。なんとか引き出してわかったのは僕にはないものを持ってるってことだけ。僕をより自己嫌悪の渦に突き落とすだけ。どうすれば僕は友人に近づけるだろう。そもそも僕とその人は友達なんだろうか。いつもそんなことばかり考えていた。友達を作る暇なんかないよ」


「……そうか」

「好きでやってることだからいいけど」

「結果オーライになるといいな」

「うん」


 トモは猫のように体を丸めてこたつの中に蹲る。

 部屋はまた静かになった。


「なぁ、お前が死んでるとしたら俺はなんだろう?」

「うん?」

「さっきの話。お前の理屈なら俺は死人と話してるわけで。お前からすれば俺は何者?」

「面白そうだね。考えてみる。…………読者第一号かなぁ」

「読者?」

「僕は死人であり、死人から吐き出される言葉は文字そのものなんだよ。文字は読む相手がいて初めて存在できる。君は僕の姿、文字の存在を証明する読者だ」


 お前の小説を読んだ覚えは一度もないぞと言いたいところだが、そういうことじゃないのは言われずともわかる。

 この空気を壊さない返答が思いつかず黙ってしまった。先に空気を壊したのはトモのほうだった。


「やっぱり違うかな」

「違うの?」

「僕は文字そのものにもなれていない。引き裂かれるような、人間らしい痛覚がまだ残っているから。……とっくの昔に死んだはずなんだけどなぁ」


 丸まった背中は、どう見ても息をしている。それでも死んでいるという。


 昔の、自分の浪人時代と似たものを感じた。


 あの頃の俺が今目の前にいるとしたら、どんなことを言えば救いになるんだろうか。

 そう思って口を開こうとしてぞっとする。


 あの頃を振り返ると苦を伴う。青春とはそういうものだ。相変わらず、そこから変化はない。

 まただ。

 また、目蓋が小さく震えた。


 俺とトモは違う。過ごした環境も見てきたものも違う。だから考え方が異なるのも当然だ。救おうとか気遣うなんて大それたことを考えたってトモに響くとは限らない。

 考えるより、今言いたいことを言うほうがいいかもしれない。


「悪かった」


 謝ると、トモが振り返った。丸くした目で俺を見ている。


「急にどうしたの?」

「お前を誤解してたかもと思って」


 ふにゃりと笑うトモの姿を見て、一人安堵した。


「僕も謝る」

「トモが?」

「嘘をついた。君と一緒の年末、嫌じゃなかったよ」

「気にしてない」

「あと君への恨みつらみを隠してたのもごめん。よっ、人生勝ち組! 羨ましいよ、このやろー!」

「俺への恨み?」


 制服デートを羨ましがっている話じゃなかった? それともそっちが本音?

 トモは体の向きを変えてしまい、小さな寝息が耳に届いた。反論する隙は与えてくれないらしい。


 家主が寝てしまったので、とりあえず課題レポートの処理も終了せざるを得なかった。

 寝返りを打ち、窓のほうに視線を向けた。

 カーテンが閉まっていて外は見えないが、きっと寒いに違いない。


 除夜の鐘が耳を打ち、今年という時間の区切りが迫っていることが知らされた。

 心には焦りと不安が浮かび、部屋には充満したそばつゆの香りと、それを上回る酒臭さが漂う。口内には香辛料と酒、胃液がじんわりと残る。

 空気を喚起しようかと悩んだけど、目蓋を下ろした。新鮮な空気を吸うにはまだ抵抗があった。


 卒業旅行か……。

 信じてもいいのだろうか。


 酔っているときの約束は当てにならない。明日になったら、ころっと意見を変えてぽろっとなかったことにされたって不思議じゃない。


 それでも、と思う。

 彼は己を死人といい、文字そのものだと例えた。そして俺を読者と言った。


 俺といる間は自分を殺さなくていいという意味だとしたら。

 この時間だけが素の自分でいられるのだと、そういう意味だとしたら。


 俺も同じだ。トモといるときは、自分らしいと思う。自分らしさの定義なんて何一つしっくりこないのに。


 これまでと変わらず耳を貸そう。そういうものだ、と言うまで待つよ。

 たとえ二人が見てきたもの、見えなかったものすべてがたがい、それが埋まらなくとも、友達でいようよ。


「な、もう一泊していい?」


 だから俺の願いも聞き入れてくれないか。

 トモに振り回されていたい。

 先のことは考えたくない。

 寝息が失笑に聞こえ、軽く小突いてみた。けれど何も返ってこなかった。

 除夜の鐘は聞こえなくなっていた。




(続)



過去編としてトモ視点の話「僕がトモと名乗った日」があります。

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