313 アルの修行(3)
降り注ぐ水が滝壺を勢いよく叩く音でルルーシュは目を覚ました。
簡易テントのシートの隙間からわずかに除く暗闇から、どうやらまだ夜が明けていないことが分かる。
それほど疲れていたのか、こんな森の中で随分深く寝入った感覚があったルルーシュは、ほっと息を吐いた。
同伴のあの水色の髪の少年――アルは、『気にせず休んでください。もともと俺は、一人で来て夜通しタキギョウをするつもりだったので。見張っておきますよ』と言ってくれていたが、流石に二人でいて寝ずの番を少しも交代しない訳にはいかないだろう。
気配を立てないようにそっと小さなテントから体を出すと、アルは雲の切れ目から差し込む月明かりに照らされながら、自分が眠る前に見たのと同じ場所、同じ姿勢で、まるで時が止まっているかのように座禅を組んでいる。
ただ一つ違うのは、滝の水量が随分と増している事だ。
あるいは上流側で、纏まった雨が降ったのかもしれない。
なだらかな階段状の岩壁に静々と水を湛えていた滝は、中々迫力のある音を響かしながら、少年に水を打ち付けている。
その余りにもシュールな光景を苦笑しながら眺めていたルルーシュは、ふと首を捻った。
アルは眠る前からその姿勢を微動だにさせていない。にも関わらず、どこか違和感がある。
別に体内で魔力を練り上げている訳でもなければ、魔法を構築するそぶりもない。
自分が眠る前に興味本位で眺めていた時と同じように、うっすらと目を開けて、ただただ静かに滝で打たれている。
だが……なぜか別の人物を、あるいは数年後の彼を眺めているような、不思議な印象が拭えない。
まさか自分は、何年もここに寝ていたんじゃ……そんな突拍子もない事を心配したくなるほど。
違和感の正体がわからずそうしてしばらく眺めていると、アルはふと顔を上げた。
そのままジャングルの奥へと静かに視線を向ける。
ルルーシュは少年の視線を追って、ジャングルに視線を移した。
何の気配も感じないな、などと思いながらしばらくアルの視線の先を探していると、はっと気が付いた。
真っ暗な密林の木の樹冠部分に、黄金に輝く大きな二つの目が浮かんでいることに。
その瞬間、ルルーシュの全身から汗が吹き出し、瞬時に迎撃できる体勢を取った。
その動きに呼応するように、目玉の方から『グルルルッ』と唸り声が響き、ルルーシュの脳裏に最悪の予想が掠める。
暗闇によってその正体はよく見えないが、その両目の形やサイズ感、そして唸り声からして猫科の大型魔獣である可能性が高い。
……もしあれが西ルーン山脈で『孤高のハンター』と呼ばれる有名な魔物種だった場合、すでに魔法士としては接近を許しすぎている。
仮にあれが予想通りハンターなら、あの位置からでも二秒かからずに自分の喉元へと喰らいつくだろう。
そして一度喰いつかれたら、猫科の魔獣の中でも随一と言われるその咬合力から逃れられる筈もない。
ここまで近づかれてしまっては、ルルーシュといえども前衛職なしで凌ぐのはかなり厳しい。
出来れば先手を取りたいが、魔力を練ったり、杖を差し向けたり、ましてや後退したりすれば、それが戦闘開始の合図になる可能性が高い。
……動きたい。が、動けない。
そんな風に考えながら、永遠とも思える数秒が経過した時、ルルーシュの背に別の悪寒が走る。
森に浮かぶ黄金の両目から目を離す訳にはいかないので、そちらを見る事はできない。
だが、左後方にある滝の方……あの少年が座禅を組んでいたあたりから、途轍もない密度の魔力が無造作に練り上げられる気配を感じたからだ。
あっ……と思った時には、目を疑うほどの速度と威力の水弾が、躊躇う事なく射出された。
メキィッ!
そして奴が身を潜めていたと思われる木を、中程からいともたやすくへし折った。
……来る。着地と同時に――
いきなり仕掛けたその思い切りの良さにルルーシュは閉口したが、ある意味助かった。
瞬時に気持ちを切り替えて杖を構え、魔法の構築を始め――
そして驚愕した。
先ほどの途轍もない威力の水弾と同程度の魔力が込められた魔法が、二発三発と奴が落下した辺りへと着弾したからだ。
「う、嘘でしょアル君……?」
その桁違いの魔法構築速度に、ルルーシュは思わず唇の端を上げた。
自分はまだ、一発目の魔法を構築する途中だったのだ。
アルが射出する水弾は、驚異的な連射性能を維持したまま尚も続き、少しずつ森の奥へと敵を追い返していく。
最後に森の奥から『ギャウッ』と小さな唸り声が聞こえたのを最後に、魔獣の気配は遠のいていった。
ルルーシュが杖を下ろし、ゆっくりと振り返る。
するとアルは僅かに笑顔を浮かべてサムズアップし、そして何事も無かったかのようにその場で座禅を再開しようとした。
それを見たルルーシュは、笑顔でおいでおいでとアルを手招きした。
◆
「つまり、人間の魔力器官からは失われたとされる環境同化能力は、眠っているだけで実はまだ残されている。そしてその古来の力を呼び覚ます鍵がタキギョウ……そういう理解であってるかな、アル君?」
先ほどアルがへし折った木の近くで拾った魔獣の毛を眺めながら、ルルーシュはジト目でアルへと問いかけた。
持ち帰って専門家に見てもらわなければ確定は出来ないが、これがもし西ルーン山脈の深部に生息するとされるハンターのものなら、王国騎士団に討伐依頼が出されるほどの緊急事態だ。
目の前の少年は、軽く威嚇して追っ払ってしまったが……。
話を戻すと、環境同化とは周辺環境に同化するように性質変化の能力に偏りが出るとされる事象だ。
例えば海の魔物は水の性質変化を保有する例が多いし、火山に住まう魔物には火の性質変化を持つものが多い。
多くの魔物はその住まう環境に沿うように、性質変化の才能に偏りがあり、種として先天的に固定されている事例も多々ある。
だが人間にその理論は当てはまらないとの考えが、現在の常識だ。
人類は長い歴史の中で、環境と同化するのではなく、環境に対抗する道を選んだ。
例えば現代では、寒冷地には炎の性質変化を持った人々が多く暮らし、砂漠には水の性質変化を持った人間が多く住まう。
それらは居住に適さない過酷な環境下にまで分布を急激に広げていくための選択だったと思われるが、その為に失ったとされる能力もある。
それが環境に同化しその力を利用する能力だ。
時に魔物達が、人間には考えられないほどの魔力を発揮するのは、周辺環境から魔素を効率的に取り込む能力があるためと予想されている。
ルルーシュに詰め寄られ、アルは首を傾げた。
「うーん、それは分かりません。滝と同化するイメージといったのは、あくまで感覚的なものです。確かなのは、今の俺は滝行をしていると魔力の圧縮率が高まる……つまり魔法の威力を出したり、魔力量の最大値を引き上げたりするための修行がしやすくなる事ですね」
アルの説明を聞いて、ルルーシュはふむと顎に手をやった。
「……滝から離れても、その滝行で得た能力は変わらないの?」
アルは笑顔で頷いた。
「ええ、一度滝行で引き上げた魔法の威力や魔力量の最大値は、普通の魔力圧縮でため戻した場合でも落ちる事は無さそうです」
「……ず、随分あっさりと、衝撃的な事を言うね」
「そうですか? 俺も結構驚きましたが、まぁアレンが言い出した事なので……。あ、言われてみれば最近雨の日は街中でも調子がいいし、魔物の環境同化能力に近いと言えばそうかも」
なるほど~などと言いながら、うんうんと頷くアルの能天気な顔を見て、ルルーシュは目眩がした。
「……それは水の魔法士なら誰にでも再現性があるの? もしそうだとしたら、これまであまり戦闘向きじゃないとされてきた水の魔法士の価値が一気に跳ね上がるよ?」
アルはうーんと首を捻った。
「それは、正直言って分かりませんね。俺自身は効果があると感じていますが、もしかしたら精神面の充実など別の要因が大きい可能性もあります。まさか滝行を試した奴は他にいないだろうし……。どこまで伸びしろがあるのか、効果に個人差や向き不向きがあるのかも分からないです。ただし……」
アルは難しい顔をして顎に手をやった。
「滝ならどこでも同じ、って訳では無いと、俺は考えています。もっと王都に近い滝とかもいくつか試しましたが、何だかしっくり来なくて。逆に、地元のユーハラド山脈、リョクの谷っていう所にある滝で春休みに滝行をした時は、感覚的にはここ以上に強い効果を感じました。それは土地の問題なのか、それとも俺にとって特別な意味のある場所だからなのか……多分その両方かな」
アルは今考えているのはそんなところですと、話を締め括った。
「まだまだ分からないことだらけだね。……アレン・ロヴェーヌはこの滝行を『精神の鍛錬』と位置付けて『理屈なんて考えなくても打たれることに意味がある』と言ってたんだよね? 打たれることそのものに意味がある修行が、なぜ精神鍛錬なんだろう? 安定的な魔法の発動と精神の安定には不可分な関係があるのは周知の事実だけど、その事を言ってるのかな? いや、アル君のあれはそれだけじゃ説明できない……。きっと魔法と精神の間にはさらに深い何かが――」
ぶつぶつと呟きながら思考を始めるルルーシュを見て、アルは苦笑を漏らした。
「あいつが何を考えているのかを推測するのは無駄ですよ、ルルーシュさん。考えれば考えるほど、何も考えていないとしか思えないので。ただ……振り返った時に、きっと嫌と言うほど分からせられる。だから俺は、余計な事は考えずに走り抜けます」
確信に満ちた顔でそう告げるアルを見て、ルルーシュは息を呑んだ。
「……きちんと記録を取って、論文にして発表する気はないの? せっかく研究者として歴史に名を残せるかもしれないのに、もったいないよ。必要ならうちの塾生達も実験に協力するし」
ルルーシュに問われ、アルはあっさりと首を振った。
「残念ですが、俺には時間がない。もう随分回り道をした。ここから先は、世界一の魔法士へ続く最短距離を行く。そう決めています。もしルルーシュさんが研究テーマに使いたいなら、むしろ歓迎しますのでご自由にどうぞ。ただし結果は保証できませんけど」
研究者としての成功をあっさり放棄するアルに、ルルーシュは何かを言いたげにしたが、結局言葉を呑んで明るい声を出した。
「……君は強いね。分かった、じゃあせめてこっから先は見張りを代わるね? その方が滝行に集中できるでしょ?」
ルルーシュが明るい声でそのように打診すると、アルはこれにも笑顔で首を横に振った。
「いえ、ルルーシュさんはゆっくりしててください。滝行をしてると不思議と索敵範囲が広がる気がするんです。滝から舞い上がる水飛沫が自分と繋がってる感覚というか、アレン風に言うと水の大精霊ウンディーネが教えてくれるというか。ま、滝から離れたら消えるので、何の意味もないかもですけど、これも何となく修行になってる気が――って、ルルーシュさん?!」
アルがそのように言いながら、いい笑顔で親指を立てようとしたところで、ルルーシュは額に青筋を立てた微笑みでローブやら何やらをその場に脱ぎ始めた。
そして薄手のシャツとショートパンツ一枚というあられも無い格好でアルと肩を組んだ。
「全く、次から次に面白い話を開陳した挙句、そんなに焦らして。私を誘ってるんだよね、アルきゅん? 分かったよ、全面協力するから一緒に滝行しよ? 全部さらけ出してもらうからね!」
「いやいや、そんな格好で滝になんて入ったら服が透けて――」
「気にしなくていいよ、それも修行だよ」
「……何の修行?!」
◆
「……今週だけでイッサ男爵領にラウマ子爵領、ウローム男爵領からも新たに魔物の討伐依頼が出ています。各探索者協会支部からの調査依頼も増える一方です。今の所人的被害は有りませんが、西ルーン山脈東部で何かが起きているのは間違いないかと」
広大な西ルーン山脈の東側の地図を広げ、作戦室で調査結果を報告しているのは、王国騎士団の第六軍団に所属するロジータだ。
騎士団の元に集まってくる様々な情報を統合して、客観的事実を分かりやすく地図の上に落とし込んでいる。
「ふむ。さすがはロジータだ、この短期間でよくここまで絞り込めたな。討伐依頼のあった領地には、ダイヤルマック侯爵軍に支援依頼を出しておけ」
「了解しました」
報告を受けて、上司であるスズナミがロジータに指示を出す。
「だが……やはり日を追うごとに東へ東へと圧が高まっているな。分かってはいると思うが、軍による魔物の討伐支援はあくまで対症療法だ。ここまで魔物の圧が高まっている以上、おそらく明確な原因がある」
スズナミが刺し棒でぐりぐりと自分の肩のツボを刺しながらそう言うと、ロジータも頷いた。
「ええ、間違いないでしょう。その原因を突き止めて対処しない限り、事態がさらに悪化する可能性もあります。……動きますか?」
スズナミはふむ、と悩ましげな顔をした。
「……悩ましいな。知っての通り、西ルーン山脈は立入禁止区域も多い危険地帯だ。下手に刺激をして逆に魔物災害を誘引した例も多い。加えて今は人手に余裕がない。自然に沈静化するのを待つというのも手ではあるが……」
スズナミとロジータが難しい顔で地図を睨んでいると、作戦室の扉がノックされ、新人女性騎士が入室してきた。
「ナタリア入ります! 地方都市ロブレスより騎士団に緊急討伐依頼が入りました。都市近郊のニャップの森に、あの『孤高のハンター』ジャルガーが現れた模様です」
「……なっ! ……何だと?」
スズナミとロジータは思わず顔を見合わせ、地図の端へと素早く目を走らせた。
地方都市ロブレス。
それは西ルーン山脈の東端で、多くの探索者を抱える探索者の街。
……背後に多くの大都市を抱える、人間社会への入り口だ。





