288 聖地・ルナザルート(5)
裏参道を全力で駆け登った俺は、ココとおやっさんの二人が追いついてくるのを待たず、門番が見せた隙を突いて単独で聖地内部へと侵入した。
もちろん罠の可能性も頭にはあったが、いずれにしても内部に侵入しなくてはジュエとリーナの奪還は不可能なのだ。
すぐに僧侶たちが起居する宿舎と思しき建物へと身を潜め、内側から聖地を囲む土塀を確認する。
できれば救出した後の脱出路を確保したかったからだ。
だが外から見れば何の変哲もなかった土塀は、内側から見ると武者返し的に鋭角に反り返っていた。
さらに内壁には不気味な紋様が延々と描かれており、何とも言えない嫌な気配を発している。
俺は小石を拾い、紋様に向かって投げてみた。
すると案の定仕掛けが施されており、小石が接触した瞬間、槍の穂先のように尖った鉄串が鋭く土塀から突き出してきた。
もし、何も考えずにあの壁を越えようとしていたら串刺しにされていただろう。
……まるで監獄だな。
来るものは拒まないが一度入ったものは逃さない、という事か。
リーナはもちろん、俺やジュエでもあの壁を内側から突破するのは厳しいだろう。
……助けた後のことは後で考えるとして、とりあえず今は前に進むしかない。
幸いにして時間は夜で、ほとんどの僧侶達はすでに自室で休んでおり、さらに風魔法で俺には人の所在や動き、内部の構造が概ね見えている。
そのまま風魔法をフル稼働して慎重に二人を捜索していく。
たまに予想外の動きをする者もいて肝を冷やしたが、その時は研究を重ねて調合した特製睡眠薬を吸わせて何とかやり過ごした。
隠し部屋などが無いかを慎重に確認しながら数時間ほどを掛けて一般宿舎を探索したが、ジュエとリーナはここには居なかった。
……この宿舎に起居している人たちは、おそらく一時的にここで修行をしているだけの真面目な人間だ。
日課なのか、中には必死に眠気を堪えながら就寝前に世の安寧を祈っている者もいた。
この人たちがロサリオの酒場の『上客』であるとは思えないし、部外者を連れ込めるとも思えない。
やはりこの聖地には光と闇があり、腐っているのは常駐の神官、という事だろう。
とすると、二人がいるのはこの粗末な宿舎と不釣り合いなほど荘厳なあの三つの古めかしい神殿か、その中央にある塔のどこかか。
「さて……どうやって侵入したものか」
ゆるゆるだった宿舎とは違い、神殿の出入り口にはきちんと警備の騎士が二人立っている。
俺が宿舎と神殿を繋ぐ渡り廊下の脇の草陰に身を潜めながら強行突破すべきか悩んでいると、宿舎の方から一人の男が周りを気にしながらこそこそと歩いてきた。
手には何やら菓子折りでも入ってそうな四角い箱を持っているが、箱の底からはちゃりちゃりと金貨でも詰まっていそうな音が聞こえる。
俺は風による視覚拡張を一旦止めて、耳に全神経を集中した。
「……誰だ貴様? もうすぐ朝の祈りの時間だぞ? 苦難の神殿に何の用だ」
名を問われたまだ若そうな修行僧は、嘘くさい笑顔を顔に貼り付けた。
「これはこれはガノフ様。私は第七班所属のチャロと申します。深夜の警備、誠にご苦労様でございます」
警備の騎士が胡乱な目をチャロとやらに向ける。
「……なぜ私の名を知っている?」
「それはもちろん存じておりますとも。ガノフ様といえば弱冠二十歳でステライト正教国の近衛聖騎士に抜擢された、聖騎士の中でも生粋のエリートですからなぁ」
にこにこと笑いながら地元の先輩聖職者から聞いたという歯の浮くような御追従を並べるチャロに、ガノフは満更でもなさそうに唇の端を上げにやりと笑った。
「……ふん、まあよかろう。で、こんな時間に神殿に何の用だ?」
「いえね、用というほどではないのですが、ちょうど昨日郷里から名産の菓子などが届きましてね。先日親しくご指導いただいた神殿長様をはじめ、助祭司の皆様にご挨拶もかねてお裾分けをと思いまして。宜しければガノフ様も、お一つ如何ですかな?」
そう言って、チャロは如才なく笑いながら手元の箱から素早く中身を取り出して、ガノフと、その隣の見張りに一つずつ握らせる。
ガノフはにやりと笑った。
「ふむ。確かにそなたらが修行に励めるのは皆のサポートがあってこそだ。挨拶回りも否定はせんが、本分の修行の方も疎かにせんようにな。…………付いてこい」
「お手数をお掛けします」
チャロと呼ばれた僧はガノフとやらに先導されて神殿内へと消えていった。
残された見張りは一人。恨みはないが、この千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかないだろう。
周囲に他の気配がない事を確認し、俺はすぐに仕掛けた。
「……誰だっ!」
俺が投げた石が神殿の壁に当たる音に反応して残された見張りが槍を構え、壁に沿ってそろそろと移動し始める。
そのまま風で小石を操作して気配で誘導しつつ背後から近づいて睡眠薬を送り込んだが、緊張状態にある聖騎士は体内で魔力を練っているのか、眠りに落ちる気配はない。
仕方なく俺はもう一つの瓶……林間学校で使用して、あのゴドルフェンが裸足で逃げ出した危険すぎる麻痺薬に多少のマイルド補正を加えたものが入った瓶を開け、見張りの聖騎士に嗅がせた。
さすがにこれは効果覿面で、見張りは呆気なくその場に倒れた。
「しばらくそこにいて下さい」
少しでも発見が遅れるように見張りを茂みの奥へと移動させ、そのまま苦難の神殿とやらの内部へと侵入する。
そして――
俺はその先で目撃した。
聖地が聞いて呆れる、その内部の腐りきった実態を。
人間という生き物の悍ましさを。
出来れば、このまま隠密に二人を奪還して脱出する方法がないかと模索していた。
だが、ここはそんな悠長な事を言っていられる場所ではなかった。
どんな手を使ってでも直ちに二人を奪還する必要がある。
俺は大きく深呼吸をして、はっきりと『自分の意思』を見定めた。
未練がましく次々に浮かんでくる家族やクラスメイト達の顔を頭から追い出し、心を殺して覚悟を決める。
……結果としてこの国にいられなくなっても。
二度とあいつらと会えなくなろうとも――
◆
「ムーラン司教を殺めた賊はまだ捕まらんのか!!」
捜査の経過報告に来た守備隊長の一人であるエリアルに険のある高圧的な声音でそう問い掛けたのは、飢餓の神殿での荒行を取り仕切る神殿長ピルカだ。
この聖地には祈りの神殿、苦難の神殿、飢餓の神殿の三つの神殿があり、それぞれに神殿長が置かれている。
「はっ! 守備隊を三倍に増員して捜索しておりますが、未だ犯人の捕縛には至っておりません! 神殿内の罠もことごとくすり抜けられ、まるで内通者でもいるかのように抜け道も隠し扉も縦横無尽に…………あの、その方達は?」
ピルカの向かいのソファーには聖地に似つかわしくない、どう見ても堅気には見えない人相の悪い二人組が腰掛けている。
一人はこの状況でもへらへらと笑顔を湛え、もう一人は緊張した面持ちでいるが、両者ともにその目には後ろ暗い光を宿している。
「……この二人は祭祀に必要な物資の搬送を依頼したコルナール様の客人達だ。昨夜からずっと私と一緒におったので此度の事件とは関係ない。余計な詮索はせぬように」
ピルカがぴしゃりとそう言うと、エリアルは狼狽した。
「な、なんと。コルナール様の……。た、確かに物資搬入の届け出が一件出ておりましたな……」
「今はそんな事はどうでもよい。それよりも、たった一人の賊に一体いつまで時をかけるつもりだ!」
ピルカがドンっとテーブルを叩くと、エリアルは恐れ入った。
「も、申し訳ございません! ですが先ほど苦難の神殿から祈りの神殿へと続く静寂の丘に追い詰めたとの報告がありました! すでに二個小隊で包囲しており、現在さらに増援を呼んでおります! 捕らえるのは時間の問題かと――」
と、そこに一人の血相を変えた騎士が伝令にきた。
「エリアル隊長! 申し訳ございません、賊に包囲を突破されました!」
「な、なにぃ?! あの状況から、なぜ突破を許した!」
「はっ! な、なぜか突如として凄まじい砂嵐が巻き起こり、取り逃がしたと! その際に割れた神殿のガラス片が突き刺さり、重軽傷者が多数出ております!」
「お、おのれ……! さては土属性の魔法士か! このエリアルが槍のサビにしてくれる!」
そう息巻いて出て行こうとするエリアルを、ピルカはぎりと奥歯を噛んで止めた。
賊は『生け捕り』にせよとコルナールより厳命されている。
「お、落ち着かんかエリアル。たった一人で、何の後ろ盾もなくこの聖地に喧嘩を売るはずがない。背後関係を吐かせる必要がある。……必ず生きたまま捕え、私の前に連れてこい!」
「そ、それは確かに……! 承知いたしました!」
「僧は全て自室にて控えさせておるな? 被害の拡大を防ぐためにも、犯人が捕らえられるまで自室から出ぬよう厳命せよ! また犯人が逃走せぬよう、門の警備を強化せよ!」
「りょ、了解しました!」
と、そんな会話をしている間にも、慌てふためいた聖騎士が次々に飛び込んでくる。
「い、一大事です! 祈りの神殿の副殿から火の手があがりました!」
「な……なに~!!!! 消せ! 何としても主殿への延焼を――」
「エリアル隊長! 毒溜め槽が破壊され、中身が流出しました! 周囲に猛毒の霧が立ち込めて北区画は地獄絵図に――」
次々に為される信じ難い報告に、エリアルは思わず膝を突いた。
「……ば、馬鹿な。この聖地を壊滅させるつもりか。世界を敵に回すのが、怖くはないのか……」