287 聖地・ルナザルート(4)
聖地の朝は早い。
修行の為に入山している僧侶達は未明と呼ぶにもまだ早い朝三時に起床して、まずは祈りの神殿の大広間で調和と現在を司るとされる神、ヴァニッシュに祈りを捧げる。
その後、僧侶達は助祭司達の差配に従って聖地の内外へと散り、本格的な修行を開始していく。
ここ聖地にいるほとんどの僧は、『序の行』と呼ばれる百十一日間の基本的な荒行を目的に訪れた新ステライト教の敬虔な神職者だ。
厳しい修行を通じて聖魔法の練度を少しでも高め、世の安寧に貢献したい、目の前の傷ついた者をもっと救えるようになりたい、と高尚な精神で荒行に臨んでいる者がほとんどだろう。
『序の行』の過程は一般的な武者修行と内容自体は似通っている。
その日に組んだ聖騎士とともに、質、量ともに手強いサン・アンゴル山脈奥地の魔物を相手にひたすら戦闘を行い、獲物を供物として神に捧げ、世の安寧を祈る。
その過程で聖騎士や僧侶が怪我をしてもその治療は聖魔法のみで行い、治療薬や補助薬の類は一切支給されないのが大きな特徴だ。
魔力溜まりである聖地で寝食する事で強制的に魔力の自然回復量を嵩上げされた状態とし、修行を管理監督する助祭司達の指示で毎日限界まで戦い、魔法を行使していく。
もちろん魔物相手にその様に無茶な戦闘を繰り返していると、大怪我に繋がるような事故が発生する事も多い。
いや、むしろ事故が起きることは半ば織り込み済みと言えるだろう。
そうして『序の行』の修行者には手に負えないほどの重傷者が出た際に、持ち回りでサポートをするのが二百二十二日間に及ぶ『次の行』に挑んでいる高僧達だ。
日中は一日に二度も三度も同じ人間が運び込まれてくるような凄惨な治療現場となる祈りの神殿で、ひたすらに聖魔法による救急治療を行う。
患者の容態も多種多様で、裂傷、擦傷、刺傷、咬傷、打撲、骨折、火傷、凍傷、被毒など、絶え間なく祈りの神殿に運び込まれてくるありとあらゆる症状の者を、寝食する時間もままならないほどひたすらに治療していく。
また、手に負えないほど手強い魔物が出た際は、彼ら高僧が直接現場に入って対処する事もある。
だが……『次の行』に挑むほどの彼らにとってこれら救急治療や危険な魔物の対処担当になる事など、何ほどの事もない。
『次の行』における本当に厳しい修行の本筋は、四日に一度巡ってくる自分自身を治験体にした聖魔法の鍛錬だ。
その道の専門家……即ち拷問の専門訓練を受けた助祭司によって、初めは軽度な裂傷、打撲などが与えられ、日を追うごとにその内容は苛烈になっていく。
そうして、自分自身への治療を通じて聖魔法への理解を深め、技量を研ぎ澄ませていく。
さらに上位にある『終の行』については、もはや狂気としか言いようがない。
朝の祈りの時間を除き、他の神殿などから隔絶された聖地中央の生誕の塔に籠もり、ありとあらゆる拷問具を使って己を虐め抜くこと四百四十四日。
途中で離脱することは許されず、常人であれば数日で精神が崩壊するほどの苦難を舐め続け、身心共に人智を超えた、まさに神に選ばれし者だけが完遂できる内容……と、されている。
いずれの荒行にしろ、時には死者が出るほどの苛烈な内容であり、しかも法の支配が実質的には及ばない宗教施設内での修行である。
当然ながら荒行の全てを差配し、さらに修行僧や聖騎士の懲罰権まで保持している助祭司の権限が大きくなるのは自明だ。
例えば同じ『序の行』の修行過程でも、助祭司に気に入られている者は優秀な聖騎士と組ませて貰え、逆に疎まれている者は能力の低い者と組まされた上で厳しい現場に派遣される、といった事が普通にある。
うっかり助祭司の差配に文句でも言おうものなら、それらは全て自分がどれだけの徳を積んだかの結果であり、『全ては神の思し召し』、などと反論不可能な理屈で片付けられ、翌日からさらに厳しい現場へと派遣される事となる。
中でも特に、助祭司達を束ねる助祭枢機卿がこの聖地内で有する権限はほとんど神に等しく、それはそれは強烈だ。
助祭司達が修行僧達に何を求めるかは、その時々の助祭枢機卿の好みによって決まると言えるだろう。
それはシンプルに聖魔法の実力や才能である事もあるし、民を思う高潔な精神を重視する事もある。
またある時は世を上手く渡る如才のなさや、出身地や出自血統といったもっと俗世臭いものであったりもする。
では当代の助祭枢機卿を務めるコルナールの求める、『普段から積むべき徳行』とは何なのか。
それはずばり金だ。
現在の聖地では寄付金の多寡、助祭司達へ握らせる袖の下をどの程度携えているか、それが文字通り生死を分ける。
ある意味では客観的かつ平等に見えなくもないが、当然ながら教義の目指す弱者の味方をする高潔な人間に、財など成せるはずも無い。
また、集めた金を教会の活動資金に回し、それが間接的に救世の役に立っているのであれば、まだ教義に沿っていると言えなくもないが、もちろんコルナール以下はそのほぼ全てを着服し、私利私欲の充足に使っている。
人は易きに流れる。運が悪ければ命を落とすような修行なら尚更だろう。
こうして、勘のいい者は金の力で苦労を可能な限り回避し、勘の悪い、もとい誠実で真面目な者ほど理不尽な苦労を囲い込むことになる。
コルナールが助祭枢機卿に着任してから、すでに十余年。
現在の聖地は、目も当てられないほどに腐敗していた。
◆
ステライト正教国を興した初代教皇が、厳しい修行の末に神託を授かったとされる聖地の中心部。
その直上に建てられた生誕の塔二階にある虚空の間は『終の行』の修行が主立って行われる広間で、夥しい数の拷問用具が設置されている。
「くっくっく。……久しぶりだな、ジュエリーよ。会いたかったぞ? 三年近くも連れ添った師と別れるというのに挨拶にも訪れんとは、いささか冷たいのではないかな? 私は悲しかったぞ?」
ドゥリトルは暗く濁った瞳でジュエを見て、下卑た笑いを浮かべた。
窓には外部から中の様子が見えないよう常時分厚いカーテンが降ろされ、魔導ランプの暗い光が揺らめいている。
そして広間の中央奥には調和と現在を司る神、ヴァニッシュの像が、どこか悲哀に満ちた顔で鎮座している。
ジュエは地肌が透ける純白の薄衣に身を包み、天井から垂れ下がる重厚な鎖に手錠で繋がれている。
ジュエの手を縛るこの錠は『魔封じの錠』と呼ばれている。貞節のチョーカーなどと同じく使用や所持を厳しく制限されている裏魔道具で、魔法士の性質変化を封じる効果がある。
ジュエが身に纏っている薄衣はオリジナル・ファイブの一つ、聖アガーテによるハイドランジ家創生の伝説に出てくる天女の羽衣がモチーフになっている。
それは天翔ける神船から誤って落下したヴァニッシュの眷属である天女が、辛く苦しい現世での旅の果てにアガーテという名の純朴な青年と恋に落ちる伝説だ。
恋に落ちた天女は天界に帰る事を諦めアガーテに降嫁する事を決心し、生涯を捧げることを誓う事で人身を得て天女から聖女となった。
ちなみに、その伝説には天女が着用していた神の眷属たる証の天界のチョーカーに自身の純潔にかけてアガーテに生涯を捧げる事を誓う件があり、その影響もあってステライト正教国では今もなお女性の婚姻前の貞操に口うるさい風習が根強い。
アガーテは大いに聖女の加護を得て、今日まで続くハイドランジ家を興したとされている。
以来、聖女の献身を得た高僧を聖者として崇め、その名に『聖』を冠するのが習わしになっている。
「……お久しぶりですね、ドゥリトル様。その節は申し訳ありませんでした。何せ――」
ジュエはだらりと脱力していた両腕に力を込めて鎖をじゃらりと鳴らし、項垂れていた顔を上げてドゥリトルに無垢な子供のような笑顔を向けた。
「――生涯、あのうじ虫の顔は見たくない……そう思うほど貴方の事が嫌いでしたので」
ドゥリトルはほんの一瞬、僅かに顔色を変えたが、すぐに『くははははっ』と楽しそうに笑い、ジュエにゆっくりと近づいた。
「……そうだろうジュエリー。私は他人の視線に敏感な性質でね。お前が私に、おぞましい物でも見るような目を向けている事にはもちろん気が付いていた。……楽しみだよ、ジュエリー」
そっと、ジュエの首元に嵌められた漆黒のチョーカーへと手を伸ばす。
ドゥリトルが魔力を貞節のチョーカーに送り込むと、埋められた魔石が僅かに発光し、ぱきりと音を立ててチョーカーは外れた。
そして次の瞬間――
ドゥリトルはジュエの横面を思いっきり張り飛ばした。
乾いた音が、静寂の広間に響く。
「くっくっくっ、実に楽しみだ。お前の心が折れて、私に心からの服従を誓うその時が。私の足元に跪き、懇願するように瞳を潤ませ、犬のように喜んで私の足を舐る、お前の姿を見るのがな」
ジュエはドゥリトルの下卑た妄想にいささかも動揺を見せずに、跳ね上げられた顔を再びドゥリトルへとゆっくりと向け、ふっと笑った。
「……怒りに任せ、魔力を込めた平手打ちでその程度ですか? せっかく聖地の荒行を経験できるチャンスだと思って参りましたのに、まるで拍子抜けです。全く何も響かない。体にも、心にも。時間の無駄です。せっかくですので助祭司の方をお呼びいただけませんか?」
「……くはっ! くははははっ! ……焦るなジュエリー。お前の『終の行』は私が責任を持って執り行う。もちろん、いきなり五寸釘を全身に打ち付けるような事はしない。ショック死されては敵わんからな」
ドゥリトルは壁に掛けられた乗馬用の短鞭へと手を伸ばした。
「……心配するな。どれほどお前を痛めつけても、そのたびに私の魔法でお前を癒してやろう」
ドゥリトルは大きく息を吸い、そして止めてから、手に持った短鞭に魔力を込めて思い切りジュエの体へと振り下ろした。
バチンッと、容赦のない音と共に鮮血が舞い、ジュエが身に纏っている純白の薄衣が赤く滲む。
「……お前は悪くない。悪くないぞ、ジュエリー。繰り返し……繰り返し繰り返し、私の聖魔法での治癒を受けておれば、その快感なくては生きていけない体に誰もがなる。人はそのようにできている。……すぐに理性とは裏腹に、本能が私を求めるようになるだろう」
「…………もう少し右を掻いていただけませんか? 近ごろ、入浴する暇もありませんでしたので……体が少々むず痒いのです。やはりあなたと私の相性は最悪です」
ジュエが感情を感じさせない冷めきった目でそう冷笑すると、ドゥリトルは再び哄笑した。
「くはっ! くははははっ! いいぞジュエリー! お前と私なら、きっとこの試練を越えられるだろう! 見えるぞジュエリー! 伝説の天女にも勝るとも劣らない、史上最高の聖女の加護を得た私が、聖ドゥリトル卿として歴史にこの名を遺す未来がな!」
ドゥリトルはそこで笑顔を吹き消し、再度短鞭に魔力を込めて三度振りぬいた。
「…………だからどうか……壊れてくれるなよ?」
懇願するようにそう言ったドゥリトルの目は、どこまでも狂気に満ちていた。
いつもありがとうございます!
そして胸糞展開申し訳ございません!
当初の計画ではもう少しお話が進んでいる予定だったのですが、最悪の所で五巻発売の報告をする事になってしまいました(ノД`)
前話でも告知させてもらいましたが、このお話の書籍5巻が昨日3月10日に発売されました!
新たにコメディタッチのお話なども収録しておりますので、書籍もぜひチェックいただけますと嬉しいです!
改めまして、いつもお読みいただいている読者様、さらにコメントやレビュー、誤字報告やいいねなどのリアクションを下さっている皆さま、本当にありがとうございます!
いつも励みにさせていただいております!
引き続き応援のほどなにとぞ宜しくお願いいたします┏︎○︎ペコッ