284 聖地・ルナザルート(1)
聖地・ルナザルートは新ステライト教の開祖が修行し神託を授かったとされる場所で、幽玄なサン・アンゴル山脈の深部にある。
ステライト正教国とユグリア王国の友好な関係、中でもレベランス家がステライト正教国の歴代教皇と親密な関係にあるのは、この聖地を尊重し庇護してきた事が大きく関わっている。
ルナザルート山自体はさして特徴のない小山だが、そこで行われている荒行は苛烈を極める事で有名だ。
この荒行では死者が出る事も珍しくはないが、たとえ死に至ったとしてもそれは自らの意思で傷ついた者を救おうとして神に召されたと解釈され、称賛されこそすれ非難される事などない。
ましてや誰かが殺人の罪に問われる事もない。
新ステライト教で弟子をとるほどの高僧は、最低一度はその山で修行をするのが習わしとなっている。
特に、二回の荒行を終えた者だけが挑戦できる人生で都合三回目の荒行『終の行』は四百四十四日間にも及び、生きて帰った者は即ち神に選別されたと見做されるほどだ。
これに挑み完遂した者は聖魔法の奥伝を調和と現在を司る神ヴァニッシュより授けられるとされ、教会内で絶対的な信任を得る。
当然ながら、この地へ侵入して内部の修行の様子を探ったり、ましてや聖地を守護する聖騎士に攻撃を仕掛けようものなら、大陸中にいる新ステライト教徒への冒涜と見做される。
まさにアンタッチャブルな、宗教上の聖地だ。
◆
「……なるほど。筋書きは大体読めたな」
宗教に全く無関心だったのでそんな場所があるのは初耳だったが、ココの説明を聞いて大体相手の狙いは見えた。
どちらから近づいたのかは分からないが、おそらく騎士団の捜査線上にも上がっていた大司教のドゥリトルとやらがレッド達と手を組んだのだろう。
そしてレッド達がジュエを攫い、ドゥリトルとやらの手引きでその聖地とやらに秘密裏に監禁する。
そうして外部からの干渉を完全に絶った上で精神的にじっくりと追い込んで洗脳し、さらに貞節のチョーカーで誓いを立てさせステライト正教国に伴侶として連れて帰るつもりだろう。
もちろん、表向きジュエは諸国を巡礼し、最後にたどり着いた聖地でかつての師であるドゥリトルと運命的な再会を果たした、とでも説明するはずだ。
そしてその外界と隔絶された聖地に証拠もないのにのこのこと俺が忍び込み、捕らえられたら騎士団すらも助けには入れない。
殺されても文句すら言えないだろう。
レッド達は如何様にも俺を料理し放題、という訳だ。
「……ここからルナザルートの最寄の村までは馬車で三日から四日。そこからは整備されてない険しい参道を自分の足で向かうのが掟だったはず。ルナザルートまでどれくらいの距離か分からないから断言はできないけど……向こうにはリーナちゃんがいるから、今から馬で追いかければまだぎりぎり間に合うかも知れない」
酒場のマスターの話によると、どうやらジュエたちはすぐにここを出発したようだ。
となると、りんご箱の運び屋の話から逆算するとジュエたちがここを出たのは四日前の午後だろう。
「……すぐに追いかけよう。その聖地とやらに入られると助け出すのに骨が折れそうだ」
◆
「……ドゥリトルや。あれほどその才に溺れるなと……自分が施される側であった頃の心を決して忘れるなと、お主には伝えたはずじゃが?」
教皇の間に帰還報告に訪れたドゥリトルに、教皇であるカーネリウス・ハイドランジ6世は透き通った、だが厳しい目を向けた。
「な、何の事で御座いましょうか? 私は才に溺れたつもりも、あの頃の気持ちを忘れた事も御座いませんが……」
ドゥリトルがそう弁明すると、教皇は深々とため息をついた。
「わしが何も知らんとでも思うたか? お主が王国でどのように過ごしておったかは全て耳に入っておる」
ドゥリトルは心の中で舌打ちをした。
この目の前の老人は国外に派遣した人材を細かく監視するような人間ではない。とすると、人の足を引っ張るだけの無能共がわざわざ余計な事を吹き込んだのだろう。
だが、ここでそれを否定するのはこの老人には逆効果だ。
「……確かに、私はユグリア王国での数年間、世俗に塗れておりました。しかしそれは、教会育ちの自分はもっと世間を知る必要があると考えていたからです。カーネリウス様も私を送り出す際に、見聞を広めるようご助言くださったと記憶しております」
教皇カーネリウスはふむと頷いた。だがその目は厳しいままだ。
「確かに、この機会に世間を知り見聞を広めよ、とは言った。だが、欲に塗れ怠惰な生活を送れ、とは言っておらん。常に傷ついた者に寄り添う気持ちを忘れるなと、そうしてあるべき自己の姿を見定めよと、そう伝えたはずじゃ」
ドゥリトルは頭を下げたまま、絞り出すように声を震わせた。
「私は……知りたかったのです。人の弱さ、醜さの根源を。ですので敢えて教義から遠い行いもしました。……勇気を以て酒を飲み、性を知り、そうして多くの人間とその欲望の狭間に埋もれてみても……虚しさが募るばかりで……」
カーネリウスは大いに頷いた。
「そうじゃろうの。己を律し、他者に寄り添い、必要とされる。それが人が生きる喜びの本質という事じゃ。それを忘れた瞬間、お主は自分自身が生きている意味を見失ったはずじゃ。そのような者に民を導く資格は無い」
何を綺麗事をと内心では毒突きつつも、ドゥリトルは殊勝に何度も頷いた。
「私が、未熟で御座いました。あの場所で……聖地で世俗の垢を落とし、己を見つめ直しとう御座います……。どうかお許しを」
この意外な提案に、カーネリウスはほう? と眉を上げた。
「お主は、確か三回目じゃの。終の行に挑むと申すか……。怠惰な生活を送っておったお主が完遂できるとはとても思えんが……」
少々予定外はあったが、想定通りの展開にドゥリトルは内心でほくそ笑みつつ顔を上げた。
「カーネリウス様の仰る通り、私は道を誤ったのやもしれません。だからこそ、ヴァニッシュの審判を受ける必要があるのです。どうか……お許しを」
教皇カーネリウスはじっとドゥリトルの目を見つめ、やがて苦し気に頷いた。
「生きて戻れ、ドゥリトル。才に溺れず、初めて正教会に来たあの頃の気持ちを思い出せば、お主ならばきっとやり遂げられる。もう一度だけ、お主を信じるぞ」
ドゥリトルは心から感謝した。育ての親であるこの老人の、信じがたいほどの甘さに――
そもそも、溺れるわけがない。あの小娘に、本物の才能とはどういうものかを嫌と言うほど見せつけられたのだ。
そして勿論、忘れるわけもない。あの頃の、惨めで卑しかった時の気持ちを。
◆
「……その腰の剣を貸しなさい。早くっ!」
ジュエが切迫感のある声でそう言うと、レッドは一瞬どうすべきか逡巡したが、要求通り腰にあったショートソードをジュエに渡した。
剣を受け取ったジュエは空を睨みながらタイミングを測り、古代ラヴァンドラ語で祈りを捧げる。すると、頭上で不快な音を撒き散らしながら8の字を描き執拗に飛び回っていた蝿の魔物の速度が急に上がり、大きく弧を膨らませる。
「はあっ!!」
ジュエはレッドから受け取ったショートソードで、大きく弧を描いて地上付近まで降りてきた大きな蝿の魔物の右翅をすれ違いざまに切り飛ばした。
バランスを崩し、蝿の魔物が地に激突するのを確認したジュエが、ショートソードをレッドへと返しながら淡々とした口調で告げる。
「……この蝿は、サン・アンゴル山脈のどこかに生息するとされる蝿の王の働き蝿です。それはまだ亜成体ですが、成体は獰猛で肉食です。殺さずに放置していると、気がついた時には信じられないほどの仲間に取り囲まれて肉団子にされますよ?」
ジュエの説明を聞いて、レッドとトーモラがぎょっとする。
片翅を失った働き蝿を確認すると、尚もよろよろとどこかへ飛び去ろうと翅を蠢かせ、ずりずりと移動している。
それを見たトーモラが、血走った目で何度も何度も執拗に働き蝿を踏みつけ絶命させた。
「……はぁ、はぁ。いやぁ~流石ですねぇ。まだ亜成体とはいえ、飛んでいる蝿の王の眷属をこうもあっさり叩き落とすとは。ひゃっひゃっひゃっ、どんな気分ですか? 自分を攫った相手を守る気分というのは」
ジュエは冷めきった目をトーモラに向けた。
「別に、あなた方を守った訳ではありません。これを放置することは私の『誓い』に抵触すると思いましたので、やむを得ず手を貸したまでです。それにしても、ルナザルートへの参道を歩くための基礎的な知識すら無いようですね。その程度の戦闘技能で、少々準備不足では?」
「ひゃっ、ひゃっ、少々忙しかったのは認めますよ。まぁ貴女に案内していただけるので、何の問題もありませんがね」
トーモラの下卑た笑いを見てジュエは肩を竦めた。
「……いいでしょう。私としても、あなた方の自殺行為の道連れになるつもりはありませんので。それよりも――」
そう言って、リーナの頭を優しく撫でる。
「彼女はもう限界です。少し休息させてあげてください」
まだ発展途上とはいえリーナは一応魔力器官が発現しているし、普段からりんごの家の家計を少しでも支えるために働いている関係でこの歳にしては健脚な方だろう。
だが、魔物が出る碌に整備されていない慣れぬ山道を歩き詰めで、すでに足が痛んでまともに歩けていない。
「……お前の狙いは分かっているよ、聖女。少しでも時を稼いで、助けが追いついて来るのを待とうというのだろう? そうはいきません。その子供はまだ使い道があるから連れているが、到着前に追い付かれるリスクを冒すくらいならここに捨てていきます」
レッドが疑念の目を浮かべてはっきりと首を横に振る。
「この子を見捨てると言うのなら私は――」
「貴女が死んだらこの子はここで死にますよ? 私たちと違い、確実にね」
レッドとジュエが暫し睨み合い、やがてジュエがため息をついた。
「……意図的に助けが来るように時を稼げば、目的地へあなた達と共に移動するために協力するという誓いに抵触するでしょう。そんな事も分からないのですか? まぁいいです。リーナさんは私がおぶって進み、あなた方が目的地へと到着できるよう導く。それならば問題ないですね?」
「……ふん。まぁ、貴方が我々に協力してそのガキも連れて行ってくれるというのであれば、我々としては願ったりですがね……」
レッドがそう言うと、ジュエはリーナの前で膝を折りその背におぶさるように促した。
「……大、丈夫だよ、お姉ちゃん。私きっと……酷い臭いだし。さっきみたいに……魔法で治してもらったら、まだ歩けるから……」
ジュエは優しく笑って首を振った。
「いいえ、リーナさんはもう限界です。魔法で足の痛みは一時的に和らいでも、体力や魔力の疲労は抜けません。あなたを背負っても、私にとっては大した負担ではありませんので」
リーナは一瞬逡巡したが、ジュエに『さぁ』と再度促されると、素直にその背におぶさった。
ジュエが指摘した通り、すでに体力は限界を超えていたのだろう。
ジュエはリーナを背負ってから、全身を聖魔法で癒してやった。
心地良い、金色の光が優しくリーナを包む。
暖かな光に包まれる感触に、リーナの瞼があっという間に重くなる。
「……ありがとう……お姉ちゃん。あ……ほっぺから……血が……」
ジュエも気が付いていなかったが、先ほど働き蝿と戦闘した際に頬を傷つけられていたようだ。
リーナが半ば閉じかけたトロンとした目で、そっとジュエの頬を指でなぞる。
すると傷口はシュゥッと小さな音を立て、頬から流れている血が止まった。
と同時に、ジュエの背にしがみ付いていたいたリーナの身体からがくりと力が抜けた。
ジュエは一瞬驚きをその顔に浮かべたが、小さくくすりと笑った。
「……ふふっ。少し、眠りなさい。貴方は必ず――」
ジュエの小さなつぶやきは、誰にも聞かれることなく森へと溶けた。
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