275 クラウビアの森
「彼がウィーバーです、ロヴェーヌ子爵」
到着したウィーバーを子爵邸へと伴ってロヴェーヌ家の面々へと紹介したのは、王国官吏のシザーだ。
王家の情報部門に所属していたシザーは、一年前に謎の家庭教師『ゾルド・バインフォース』の人物判定とスカウトを学園副理事長のムジカより命じられ、誰よりも先んじてロヴェーヌ領へと至り、情報収集を開始した。
誰も手をつけてないありのままのロヴェーヌ領に唯一触れ、その後もなんやかんやと調査に訪れて地元民との人脈を広げ、図らずも王国随一のロヴェーヌ領の専門家になった男だ。
その実績を買われ、情報部から異動して今回保護区の事務官に任命された。
因みに、彼がこの一年でもたらしたレポートはゾルドに関する物以外にも数多くあり、堅実な領地経営や領民の朴訥とした人柄などを正確に王都へと伝え、これが密かにロヴェーヌ家への援護射撃になっている部分もあったりする。
「王命にて馳せ参じました、ウィーバー・ガスドールと申します。以後お見知り置きを」
ウィーバーの訪問をロヴェーヌ子爵邸の客間にて受けているのは、ベルウッド・フォン・ロヴェーヌ子爵と世継ぎのグリム、そしてセシリアだ。
「お力添えに感謝します、ウィーバー殿。こちらこそ宜しく頼みます」
二人は形式的な挨拶をいくつか交換してから、握手を交わした。
無論、ウィーバーは何かと話題のこの目の前の男の事をさりげなく観察している。
「ところで、シザー殿に聞いたところによるとウィーバー殿は食べ歩きが趣味だとか? わしはパンに目がありませんでなぁ……。心に残っておるパンはありますかな」
「…………そうですな。任務で随分と色々な地を訪れましたが、最近で言うとヴァルカンドール侯爵家の領都、イェットカムで食べたブールパンが――」
当たり障りのない言葉を返しながら、ウィーバーはやや戸惑っていた。
確かに、貴族と王国騎士団員には王に直接仕えるという意味で立場の上下はない。
だが王国中の有才の士から選びに選び抜かれ、有事の際には貴族の私設軍を指揮し貴族の逮捕権すら有する騎士団員と、その辺の田舎子爵では実質的な権限で大きな差がある。
望むと望まざるとに関わらず、謙った態度を取られることも少なくない。
だがベルウッドからそうした距離感は覚えない。
では、これまたたまにいる、王国騎士団何するものぞという山っけのある田舎貴族かというと、そんな印象もない。
ベルウッドの握手には邪気が全くなかった。
普通は精神的に上位に立とうとすると、己の力を少しでも誇示しようと無意識に力が籠る。
あるいは多少腕に覚えがある者なら、先程自分が門番のジョニーにやったように、力を読まれないよう巧妙に気配を抑える事もある。
だがベルウッドのそれは、ともすればまだ魔力器官が発現していない子供のような、無邪気な握手だった。
まるで目の前の自分ではなく、全く別の何かを見ているような――
……いずれにしろ貴族家の当主としては失格の握手であり、これは大方の評判通りのバカなのか、あるいは途轍もない大器なのか。
「なるほどブールですかっ! これは気が合いそうで嬉しいですなぁ。わしもブールパンには目がなく――」
ウィーバーが適当に打った相槌に反応し、目の色を変えてパンの蘊蓄を語り出す当主。
だがウィーバーの意識は、その後ろで静かに控えているロヴェーヌ夫人へと向かっていた。
敵意は感じない。顔も温和に微笑んでいる。
だが、一騎当千揃いの騎士団で揉まれてきたはずのウィーバーは、なぜか虎口に座らせられている自分を幻視した。
背には冷たい汗が這っている。
あるいは、あのランディ・フォン・ドスペリオル近衛軍団長をして『私には理解不能な天才』とまで言わしめたという事前情報が、必要以上に相手を大きく見せているのだろうか。
「――中をくり抜いてグラタンを入れた物がこれまた絶品で――」
冷静に自身の心の動きを観察しているウィーバーを他所に、ベルウッドは唾を飛ばす勢いでパンの蘊蓄を語っている。
どうやら語り始めたら止まらなくなる質らしい。
すると、ベルウッドの横に控えていたグリムがこれに見かねて割り込んだ。
「こほん。父上、そのように出会い頭にパンの話を熱弁されては客人が困惑しますよ。初めまして、ウィーバー様。私はベルウッドの長男で、グリム・ロヴェーヌと申します。王国騎士団の方にこのような辺鄙な場所までわざわざご足労頂き恐縮です。何か不便がごさいましたら何なりとお申し付けください」
当たり障りのない挨拶を述べ、にこやかに右手を差し出すグリムの手をウィーバーはやや警戒しながら握ったが、その握手はごく平凡なものだった。
「……これはこれはご丁寧な挨拶、痛み入ります。王国騎士団員とは言っても、私は万年ヒラ隊員の身。任務にてこの地を訪れておりますので、どうぞ客人扱いはせず共に仕事をする同僚として扱ってください」
ベルウッドにややペースを乱されたウィーバーだったが、なかなか見どころのありそうな、ごく普通の好青年の長男の存在に安堵し、密かに息を吐いた。
◆
翌日。
ウィーバーは、ベルウッドとセシリアの案内でクラウビアの森へと視察に入った。
王家の庇護下へと入り抑止力は強化されたとはいえ、この広大な山林を保護していくためにはロヴェーヌ家の力だけでは足りないものが多すぎる。
これまで通り山の恵みを享受しつつ、少なくとも森と共生していくために必要なルール作りと、実効性があり、かつ持続可能な抑止力の整備は不可欠だろう。
その為には守るべき対象を知らねばどうしようもない。
「確かに、素晴らしく豊かな森ですなぁ。まるでここだけ別世界のようだ」
ウィーバーはきょろきょろと興味深そうに周囲を見渡しながら、素直な感想を述べた。
まず目につくのは植物の多様さだ。
低木で構成される下の森に覆い被さるように、高木で構成される上の森が複層的に配置され、足元には苔や雑草などの下草もバランスよく配置されている。
王国全土で見てもこれほど広大な原生林は珍しいだろう。
しかも王国全土の森を歩いてきたウィーバーですら、見た事のない種が多い。
まるで異国の地に来たかのような、不思議な感覚を覚える。
「この森は不思議な事に魔力が溜まりやすいようでしてなぁ。恐らくその影響もあって、独自の生態系が形成されたのでしょうな」
「魔力溜まり……ですと? この広大な山林、全てがですか……?」
ウィーバーは耳を疑った。
確かに地形や地物など様々な要因が重なって、不思議と大気中の魔素濃度が高い場所というのはある。
魔力の回復効率がよい反面、魔物などを引き寄せやすく、武の求道者などが修行に利用したりする一般には危険な場所だ。
だがこれだけ広大な山林全てが魔力溜まり、などという例は聞いたこともない。
「……森全体が魔力溜まり、というと少々大袈裟かもしれませんね。ですがこの森が一年を通して魔素が濃いのは間違いありません。実際、体が動かしやすくはありませんか?」
セシリアにそう水を向けられて、ウィーバーは慎重に身体強化魔法を発動し、自身の体内で練り上げた魔力の感覚に耳を澄ませた。
「言われてみれば……確かに体調が良い時の感覚があるような……」
自信なさげにそう返答したウィーバーに、セシリアは頷いた。
「もう少し森の深部へ行くとより明瞭に感じられるようになりますよ。ベル? あそこに連れて行けば話が早いのでは?」
セシリアがベルウッドにそう問うと、ベルウッドは悩ましげに腕を組んだ後、珍しく真剣な顔で首を横に振った。
「ふぅむ。……今日のところは止めておこう。森が一段と騒がしい。まだこの地に身体が馴染んでおらんウィーバー殿をあの地へ連れて行くと、森をより刺激してしまうだろう。……嫌な予感が消えんわい」
「分かりました」
セシリアはベルウッドの顔を見て、すぐさま頷いた。
「あの……あの地、というのは?」
昨日は挨拶もそこそこに唾を飛ばしながらパンの話を熱弁し、その後歓待の宴であっけなく酔い潰れていたベルウッドの余りに真剣な目に、ウィーバーは気圧されつつも問い返した。
「この森の深部には、お墓池と呼んでいる小さな池がありましてのう。その池のほとりに先祖代々の墓がありまして、年に一度そこへ参るのが我々ロヴェーヌ家の習わしになっております。その地はセシリア曰く正真正銘の魔力溜まりなのですが、魔物はおろか野生動物すら近寄らない、少々変わった場所でして」
魔力溜まりに、魔物が近づかない?
……他に事例が皆無という訳ではないが、かなり特異な地であることは間違いない。
ウィーバーは驚きとも困惑とも取れる顔をセシリアへと向けた。
「行けばおそらく分かると思います。ベルやグリムはあまり感じないようですが、言葉にし難い威圧感を覚える地です。おそらくそれが、彼の地から生き物を遠ざけている理由でしょう。ローザやアレン……特にアレンは、小さな頃から気味悪がって近寄りたくないようでしたね」
「あやつの墓参り嫌いは筋金入りだったの……バチ当たりにも、墓石も気持ち悪いなどと言って」
ベルウッドはそう言って苦笑を漏らし、気を取り直したように顔を上げた。
「さて、それではネーネ山の採石場へと案内します。あまり気は進みませんが、これだけ人が増えたからには城壁を広げて街を拡張する必要がありますからな」
踵を返したベルウッドに、ウィーバーはなぜ気が進まないのかを聞いてみた。
「我が領地はたびたび、魔物暴走によって民の暮らしが脅かされてきました。特に森の逆鱗に触れたとされるいくつかの事例では、魔物が津波のように押し寄せたと伝わっております。先ほどより申している通り、今は森の様子がどこかおかしくて、あまり刺激したくないのです。……が、野宿者が増え好き勝手に森に入り始めれば、却って取り返しがつかない事になりそうでしてな。まぁ苦肉の策です」
「ま、魔物が津波のように……そ、それはまさか大海嘯が差し迫っているという意味ですか?」
ウィーバーが狼狽したように問うと、ベルウッドは『さぁ……』と首を傾げた。
大海嘯とは、読んで字のごとく魔物が津波のように押し寄せる、いわばスタンピードの上位版だ。
近年ではそこまで大規模なスタンピードが発生することは稀だと考えられているが、古い時代にはそうした大規模な魔物災害が定期的に起こっていた記録が各地に残されている。
「な、何を悠長な……。その可能性があるのなら、例えば他領から建材を取り寄せて有事に備えるなどはしないのですか? その為の王家の保護であり支援でしょう」
この指摘にベルウッドは首を振った。
「他領から持ち込んだ建材で城壁の拡充を行うと、まず間違いなく余計に森を刺激することになりますな。少々危険な賭けですが、この森にある素材を使う必要があります。何、民の命さえあれば、最悪城壁外の田畑などはいくら潰されても皆で復興すればいいのです」
「し、しかし例えば騎士団に正式に調査依頼を出すなど、できる事はあるはずです。民の大切な財産を護るのは領主として最低限の――」
なおも抗弁するウィーバーの主張を全てうんうんと聞いてから、ベルウッドは再度首を振った。
「まず守るべきは森。それがこの森と共に生きるという事です。この地に住む者が、自分たちの本当の財産が何かを忘れ、森と争おうとした時――」
ベルウッドはゆっくりと森を振り返り、覚悟を決めたように、静かに断言した。
「――必ずやこの地は手痛いしっぺ返しに見舞われ、取り返しのつかない惨事を被る事になりましょう」
その確信に満ちたベルウッドの眼光を見たウィーバーは、これから先、自分が取り組まなくてはならない仕事の重みを想像して息を呑んだ。