22 朝のルーティーンとソーラの朝食
登校初日。
アレンはいつも通り、朝の5時前に起きた。
充てがわれた3階の、10畳ほどの広さの部屋には、前の住人が残してあったものと思われる、ギシギシと軋むベッドと、古めかしいデスクと、椅子がおかれている。
ワンルームから玄関へ続く廊下部分には、トイレと簡単なキッチン、クローゼットがある。
日当たりはいまいちだがバルコニーも付いている。
貴族が住む部屋、としては、シンプルこの上ないが、日本人的価値観を持つアレンにしてみれば、十分満足である。
洗濯は、大浴場横にある洗浄魔道具が無料で使えるし、クリーニング業者が入っているので、洗濯が面倒な人や、魔物の革製品などの特殊な素材の装備を洗いたい場合は、外注可能だ。
こちらも、大浴場横の専用スペースに出しておけば、朝夕に回収され、1日で返却される。
料金は普通の洋服であれば、30リットルほどの袋に詰め放題で10リアル。
特殊素材は物によるが、いずれにしろこの王都の物価を考えれば破格の価格設定である。
アレンは人気のない寮から外に出ると、まだひんやりと冷たい朝の空気を心地よく感じながら、寮の前庭で軽くストレッチを行った。
そして学園の内部を突っ切って、正門までの8kmほどの道程を、ゆったりとしたペースで25分ほどかけて走る。
一般寮のすぐ近くの裏門から出て、外周を走ってもいいのだが、アレンはコースは極力変えたくなかった。
自分の成長の進度が計れなくなるからだ。
南側にある正門から外に出ると、いつも通り学園の外周を、時計回りに走り出した。
途中で坂道ダッシュをきっかり10本行い、正門から中に入ると、また学園内部をゆったりとしたペースで寮まで戻る。
木刀を部屋から出してきて、中庭で振る。
思い浮かべるのは、王都への道中で世話になった槍使いディオとの稽古だ。
身体強化の準備をしながら、槍の間合いを意識する。
必要最小限の魔力で、コントロール可能な最大限の加速を生み、振り、戻し、魔力の余韻を消す。
きっかり30分、剣を振ったアレンは、今度は入念にストレッチを行った。
体をほぐす運動前のストレッチと、体の柔軟性を高める運動後のストレッチは似て非なるものだ。
可動域を広げることを意識し、息を吐きながら伸ばし、静止する。それを淡々と繰り返す。
新生活初日。
朝のルーティーンを滞りなくスタートできた事に、アレンは満足した。
◆
素早く汗を拭き、制服へと着替える。
特殊な糸で織られた王立学園の制服は、頼んでもいない、どころか採寸すらしていないのに、ぴったりサイズのものが、昨夜部屋に届いた。
動きやすく、耐久性に優れたブレザータイプで、サイズアウトした際は、申請するとまた新しい物が無料で貰えるらしい。
ちなみに私服で登校するのも自由だ。
着替え後、食堂に到着したのは朝の8時を回ったところだった。
別に携帯非常固形食を食べてもよかったのだが、母上に、朝食はきちんと摂るよう諭され、実際食べてみると、効果が感じられた。
ということで、せっかく無料で付いている寮の食堂を利用してみるつもりだ。
「遅いじゃないか坊や!
お前さん授業は9時からだろ?
初日から遅刻するつもりかい?!」
食堂に着くと、寮母のソーラが話しかけてきた。
「遅くはない。想定通りだ。
ゆっくり飯を食って、8時半に寮を出ても走っていけば余裕だろう」
朝飯に20分もかけるほど暇なつもりはないが、初日なので余裕を取っている。
ソーラが出してきたトレイを見ると、湯気のたった大ぶりなハンバーガーが2つ。それにミルク。
中々のボリュームだが、食えない量じゃない。
完食まで5分とすると、明日からは朝風呂に入れるな…
そんな事を考えながら、ハンバーガーに齧り付いた俺は仰天した。
とてつもない油っこさだった…
角煮の油部分をオイル漬けにしたような味とでも言おうか…
とても朝から食えたものではない。
夜でも食えないけど。
食堂に俺以外に人がいない理由がはっきりわかった。
やはり朝は携帯非常固形食に限るな…
だが1度出されたものを残すのは前世で食品・飲料メーカーに勤めていた俺のポリシーに反する…
俺は涙目になりながら何とか出されたハンバーガーを食べ進めた。
と、正面に座って様子を見ていたソーラが話しかけてきた。
「ひゃっひゃっひゃっ。
根性あるじゃないか。
…先程の素振りを見るに、坊やは身体強化特化だろう?」
見られていたらしい。
俺は涙目のままこくこくと頷いた。
口を開くとえずきそうだ。
「今日のハンバーガーは、魔法士向けの体外魔力循環と性質変化を補助するためのメニューさ。
明日からも食べる根性があるなら、身体強化に効果のあるメニューを用意してやろう。
もっとも、効果は微々たるものだがね」
想定外の話が出てきて、俺は口からハンバーガーを吹き出した。
正面に座っていたソーラの顔は、油でギトギトになった。
「そんなメニューがあるなんて初耳だぞ?!」
「…その前に、何か言う事は無いのかい?
とんでもない坊やだよ、まったく。
…まぁ、そりゃそうさね。
一般に流通している食材や技術じゃない。
あたしゃこう見えても、一応この王立学園に籍を置く、魔物食材の食味と効果の研究が専門の研究者でねえ。
ここの寮に入ってきている生徒たちは丁度いい実験道具なんだが…
近頃の若いもんは舌が肥えてて、ちっとも寮で飯を食わない。
このままじゃ実験に差し障る」
ソーラは前掛けで顔を拭うと、血走った研究者の目で俺をじっと見てきた。
聞きたい事は沢山あるが、俺は突っ込まずにいられない事をまず聞いた。
「食味研究だと?
味付けを忘れているとしか思えないほど、塩気を感じないぞ?」
「旨味じゃなくて、食味さね。
わたしゃコックじゃないからね。
その素材がもつ本来の味と効果を確かめるのが仕事さ。
そのためには、塩分は邪魔になる。
朝食として必要な最低限の塩は、パンに含まれている。
美味いものが食いたければ、外で食うか、学舎のラウンジにでも行きな。
破格の値段で豪勢なご飯が出てくるよ」
…ダメだ、このばあさん。
人生の楽しみである食事を、実験の場としか捉えていない。
姉上と同類の研究者とみて、まず間違いないだろう。
だが、憧れの魔法士になるために、藁にもすがる思いの俺にとって、魔物食材という専門性の高い分野からのアプローチ、しかも専門家が未公開の技術を使って、タダで毎日協力してくれる、というのは、非常に魅力的だ。
とりあえず俺は、もう少し詳しく話を聞く事にした。
「俺には、体外魔法の性質変化を行う才能がからっきしない。
だが俺は、何としてでも、体外魔法を習得したいと考えている。
後天的に、性質変化を習得するような食材に心当たりはあるか?」
ソーラは意外な事を聞いたという顔で答えた。
「…残念ながら、ないね。
後天的に性質変化を取得する研究は、長い王国の研究史の中でも、あらゆる分野の研究者が取り組んできたテーマさ。
それを成せば世界が一変する事は、誰が見ても明らかだからね。
だがそれは、数々の優秀な研究者たちが頓挫してきた苦難の歴史でもある。
私も全ての分野の研究を網羅しているわけではないが、成功例を聞いたことはないね」
ソーラは俺の目を覗きこみながら続けた。
「そもそも、なんで体外魔法にこだわるんだい?
坊やは実技試験で首席を取ったんだろう。
この学園の試験官たちが、あんたにそれだけの評価をつけたという事は、坊やには間違いなく身体強化魔法の才能がある。
例外はいるにはいるが、騎士としては、身体強化を極めていく方が王道だろうさ。
むしろ、なまじ身体強化と体外魔法の両方に才能があったばっかりに、どっちつかずの器用貧乏になった魔法騎士は、いくらでもいる」
ソーラの顔を見ればわかる。
『悪い事は言わないから、やめておきな』と言いたいのだろう。
「それでも俺は、体外魔法を使う夢を捨てる気はない。
それが、俺のやりたい事だからだ。
騎士として大成する事などには、なんの興味もない」
ソーラは、『ふ〜む』と言って腕を組んだ。
「…徒労に終わる可能性が高いよ?
それだけならまだしも、むしろ坊やの才能を潰してしまう可能性も高い」
「覚悟の上だ」
「…ひゃっひゃっひゃっ!
面白いじゃないか。
明日からあたしが協力してやろう。
徹底的にね。
ひゃっひゃっひゃっ!ひゃっひゃっひゃっひゃっ!」
とりあえず、とんでもない悪魔と契約を結んでしまった気がするから、その笑い方をやめてほしい…
ちょっと質問するだけのつもりが、いきなりご成約とはな。まぁ仕方がない。
「ほら、さっさと今朝の分を詰め込んで学舎へ向かいな。
ホントに遅刻するよ」
これから毎朝このレベルのゲテモノを食べる事を考えると、就寝と起床の時間を調整してでも、朝の食事時間を30分は確保する必要があるだろう。
せっかくスタートを切ったルーティーンを、1日目で修正することになるとはな…
アレンはそんな事を考えながら、学舎に向けて走り出した。
その背中は、非常に楽しげだった。