プロローグ 後
私は死を確信した。
しかし、その瞬間はいつまでも訪れなかった。
(……なにこれ、なにこれ、なにこれ)
私の眼前に現れた獣は、まるで動画を一時停止したみたいに空中でピタリと停止している。そう思った直後、獣がほんの微かに動いたような気がした。
(……違う、止まってない、ゆっくりなだけだ)
危機的状況に陥った時、それを回避するため脳の処理能力が向上するという話を聞いたことがある。その状態では、あらゆる出来事がスローに感じられるらしい。
(……こんなの、どうしようもないじゃん)
手足を動かすどころか、目を背けることすらできない。極限まで引き延ばされた時間の中、私は「見ること」しか許されていない。
大きく口を開けた獣は微かに回転している。きっと狙いは私の喉元だ。あの鋭い牙に触れた瞬間、人間の皮膚や骨などバターのように引き裂かれてしまうだろう。
(……どうしよう、どうしよう、どうしよう)
パニックだった。
いつものように仕事を終え、ちょっとした気まぐれで一駅前から歩いて帰る途中、突如として現れた猛獣に噛み殺される。これまで多くの理不尽を経験した自負があるけれど、これは、比較にならない。
怖い。これまでの人生で感じた恐怖を一点に凝縮しても足りないくらいに怖い。
逃げたい。でも動けない。失神することもできない。私の目は、意識は、無意味に死の瞬間を引き延ばし続けている。
(……なんで、なんで、なんでこんな、急に、やだ、まだ死にたくない!)
──スキルの獲得条件を満たしました。
──これより、個体名『深山小春』に適したスキルの検索を開始します。
その声は、怖いくらいにハッキリと聞こえた。
──エラー。個体名『深山小春』の読込が完了していません。
──このままスキル獲得処理を実行した場合、予期せぬエラーが発生する恐れがあります。スキル獲得処理を実行しますか?
──ノー、中断。
──エラー。スキル獲得処理を実行しない場合、個体名『深山小春』は確実に死亡します。これより代替案の検索を開始します。
私の意思とは無関係に、謎の声が頭の中で鳴り響く。
そのゲームのような音声を聞きながら、ふと思った。
(……もしかして、夢なのかな?)
現実をクソゲーと表現することはあるけれど、こんなゲームみたいなこと、起きるわけがない。夢を見ていると考える方が自然だ。
──読込処理の即時完了を提案。
──採用。実現可能性の検討を開始。
──エラー。ステータス【特殊耐性】が閾値を下回っています。
──称号の確認。称号【精神負荷耐性・超級】を確認。
──エラー。処理実行後のステータス【精神】が閾値を下回ります。
──重要記憶Aの読込を進行中。完了後、称号【精神負荷耐性】が【ユニーク】に至る可能性有り。即時完了を提案。
──採用。即時完了プロセスを開始。
私はふわふわとした気持ちで、その声を聞いていた。直前までの恐怖は噓みたいに引っ込んだ。あまりにも現実感の無い出来事を前に、思考が麻痺していた。
(……あれ?)
次の瞬間、私は薄暗い場所に居た。いや、居るという表現は不適切かもしれない。私の視点は、まるで宙に浮いているかのように高い。
(……この場所、知ってる)
古い記憶が蘇る。
幼い頃、私はこの場所を毎日見ていた。
「えへへ、そっかー、おうじさまは、ねぼすけさんなんだねー」
「うん、そうだよ。だからねー? おひめさまは、ずっとまってるのー」
声が聞こえた。
私は反射的に目を動かした。
「いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい、いたい……」
「なかないで。だいじょうぶ。ふーってすれば、すぐ、へいきだよ」
小さな女の子が座っていた。
薄暗い部屋の隅、独りで、座っていた。
「もー! なんでいつもおなじごはんなの?」
「がまんしなさい。くちにはいれば、みーんな、いっしょ!」
その女の子は、ぶつぶつと、独りで会話していた。話題は支離滅裂。全く異なる内容の会話を次々と口にしている。
突然、部屋が明るくなった。
そして野太い声と共に、背の高い男性が現れた。
「よォ小春、今日も楽しそうだなァ?」
「わっ、パパだ! おはよう! こんにちは! こんばんは?」
女の子はにっこり笑って立ち上がった。
男性は女の子の傍らで膝をついて、楽し気な表情で言った。
「小春の目は大きいなァ?」
「そうなの? そうかな? わからない。でもおおきいの? いいこと?」
私は思い出した。
これから何が起きるのかハッキリと理解した。
(……やだ、見たくない)
──エラー。目を背けることは許可されていません。
(……は?)
また謎の声が聞こえた。
そして声が言った通り、私は目を背けることができなかった。
「なァ小春? 目の奥に何があるか、気にならねぇか?」
男性が大きな手を女の子の頬に──私の頬に当てる。
それから親指で目の周りを撫でて、一気に突き刺した。
悲鳴が聞こえた。
鮮血が噴き出した。
真っ赤な液体が宙に浮かぶ私を通り抜けて、そのまま真下に落ちる。それを一身に浴びた男性は、不思議そうな声で言った。
「……あァ? へェ、こうなってんだ」
女の子は手足を振り回して暴れている。
しかし相手は大人。そんな抵抗は、何の意味も無い。
男性は泣き叫ぶ女の子の首を摑み、右眼が有った場所を覗き込む。そして、気色の悪い笑みを浮かべて言った。
「おもしれェなァ」
寒気がした。
忘れたはずの憎悪が、熱が、一気に蘇った。
「……なんで?」
女の子が声を震わせながら問いかける。
「なんで、こんな、いたいこと、するの?」
「くだらねェ質問だなァ? そんなの、楽しそうだったからに決まってんだろォ?」
ああ、そうだ、覚えてる。
これはまだあいつが生きてた頃の記憶。
私が、右眼を失った日の記憶だ。
──重要記憶Aの読込が完了しました。
──称号【透明な心】を獲得しました。
その声を聞いて思わず笑ってしまった。
あまりにも皮肉で、的確な称号だと思った。
あの日、私は透明になった。
何をしても、何をされても、何も感じなくなった。
だから努力した。
長い時間をかけて、死の恐怖を感じられる程度に感情を取り戻した。
だけど全部、台無しだ。
何年もかけて薄めた記憶が、ぜーんぶ蘇った。
──称号を【透明な心】に変更。
──成功。
──読込処理の即時完了を再検討。
──成功。リスクが許容値を下回りました。
──読込処理の即時完了を実行。
──成功。複数の称号を獲得しました。
──スキル獲得処理を開始。
──個体名【深山小春】の願望を検索。
「願望? 何それ? バカにしてるのかな?」
──未定義のエラーが発生しました。
「夢か現実か知らないけどさ……いいよ、教えてあげるよ」
──深刻なエラーが発生しました。
──修復プロセスを実行します。
「私はただ普通に生きたいだけ。特別なんていらない。五体満足で、他の人と一緒に笑ったり泣いたりできればそれでいい……」
──エラーを修復できません。
──管理領域への介入を確認しました。
「何が管理領域だ。ふざけるな。さっきからゲームみたいなことばっかり……管理者が居るってこと? このバグだらけのクソゲー作った誰かが、そこで見てるのかな? ……何様だよ。神様か? 誰も上手いこと言えなんて言ってねぇよ。誰だよ下らないことばっかり言ってるの。私だよ。あは。ああ、もう、あは、ダメ、ダメだ、止まらない。ふふ、はは、あは……願望、お願い、管理者……なーんにも分からない。でも良い。良いの。世の中、分からないことの方が多い。怖くない。無理に知る必要は無い。欲張りさんは、あいつみたいに溶けちゃうよ。それは嫌でしょ。やだよ。だよねー。だからシンプルに。私は目先のことだけ考えればいいの。そうそう。目先のこと。なんだっけ? 願望だよ。私が教えてあげればいいの。私の願い事。私は普通になりたい。でも無理。どうして? 足りないから。何が? 眼だよ。眼。眼。眼。眼が無い。無いの。右眼が、ずっと、足りない。欲しい。だから、だからね、聞いてる? 聞いてるよね管理者さん?」
気が付けば、私は真っ暗な世界に居た。
何も見えない。何も感じない。自分の存在すら認識できない。
ただ、予感がした。
そいつが、このクソゲーを作った神様が、私を見ている。
だから私は、そいつを睨み付けて言った。
「お前の右眼を、私にくれ」
──成功。
──スキル【創造主の右眼】を獲得しました。
次の瞬間、右眼があるはずの場所に焼けるような熱が生まれた。そして、真っ暗だった視界に微かな光が差し込んだ。
(……ああ、そっか、そうだった)
一言で表現するなら、元に戻った。
(……こいつ、いつまで口を開けてるのかな?)
あの記憶を見せられる前、あれだけ恐ろしかった獣が、今はただの犬にしか思えない。
(……スキル、だっけ?)
説明を受けたわけではない。
だけど私は感覚的に理解した。
このスキルを使えば、これからも生きることができる。
方法は簡単だ。
対象を見て、ただ一言、呟くだけでいい。
「溶けちゃえ」
その言葉を口にした瞬間、スローだった世界がコマ送りになった。
ずっと空中で静止していた獣が目に見えて動き始める。獣は最初に想像した通り、私の喉元に食らい付くため回転を始めた。
やがて獣の目が見えた。
その目に映る自分の姿が見えた。
見慣れた顔が、見たことない笑みを浮かべていた。
次の瞬間、何か液体の飛び散る音が聞こえた。
視界が暗転する。
私の意識は深い闇の中へと沈んでいった。
──スキルの発動に成功しました。
──スキル獲得処理の事後プロセスを開始します。
薄れゆく意識の中、またあの声が聞こえた。
──成功。
──個体名【深山小春】が持つスキル獲得前後の記憶を消去します。
(……ああ、それは、ありがたいかも)
嫌な記憶と感情を思い出した。
これが消えてくれるなら、とてもありがたい。
「──これは、一体、何が?」
別の声が聞こえたような気がした。
だけど私は、その声について考えることはできなかった。