清し潔し
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
みんなは手洗いうがいはちゃんとやっているかな?
このご時世だ、いまややらない人の方が少ないだろう。以前は、口をすっぱくして言われても、こっそり無視していた人もいたんじゃないかな?
清潔にすることは衛生のひとつ。そして衛生とは「生を衛る」と書く。この有無が生死の境を分けるのは珍しいことではないんだ。
病院だって道具や設備はもちろん、清潔さを保てるかどうかが重要な課題となっている。ほこりひとつから、重篤な症状を引き起こす恐れのある患者さんだっているからね。
だが、本当はもっと怖い事態に陥る恐れだってあるみたいなんだ。
先生が昔に体験した話なんだが、聞いてみないかい?
具体的な名前は伏せさせてもらうが、先生は小さいころに長い入院を余儀なくされる、大病を患ったことがある。
命にかかわることはあまりないらしいが、発作的に症状が悪化する可能性があり、お医者さんの目の届くところにいないと、危ないと聞いたんだ。
ときどきお腹が痛くなるとはいえ、入院中の大半の時間はなんともないだけに、先生は暇を持て余していた。
病室には当初、先生を含めて6人の患者がいた。先生を最年少として、みな成人している人たちだった。そして入院してから2週間程度して、一番年配の患者さんが部屋をいなくなったよ。
でも、その瞬間を見届けたわけじゃない。朝、目が覚めてみると、昨晩まで寝ていたはずのその人のベッドがもぬけの殻。名前のプレートも外されている。
――こんな早朝に、退院ってできるものなのか? もしかしたら……。
あまり考えたくない、事態なのかもしれない。
お医者さんたちに尋ねる気にはなれなかった。わざわざ他人の事情を探るなんて、失礼極まりない気がしたんだ。
けれど5日ほどして。
2人目の患者さんも同じように、僕が起きた時には姿を消していた。今回いなくなったのは、先生の次に若いお兄さんだ。
これまでで一番コミュニケーションを取っていた人でもあったが、結局別れのあいさつも交わせないまま、またネームプレートを外されている。
しかし、かすかに妙なんだ。
窓際の、一番離れたベッドだった最初の人とは違い、お兄さんのベッドは先生の真向かいで、少し遮光カーテンを開ければ、のぞくこともできる。
お兄さんの使っていたベッドの、やや枕よりにかけて、シーツが少し黒くなっていた。
水が垂れたときの色合いに思えたが、もしおねしょをしてしまったにしても、いささか位置が高い。よっぽど背中に汗をかいたのか……。
そう思っているうちに、お見舞いの家族がやってくる。
今日来てくれたのは、先生の祖母だった。足が衰えていて、入院当日を含めて二回目のお見舞いだった。
二、三、話をしたところで、ふと祖母はあのお兄さんのベッドを見やる。
はじめて先生が見てから、すでに時間が経っているというのに、シーツの濡れたところは乾いておらず、そのまま残っていた。
水や汗じゃないのか?
そう先生が思った矢先、祖母が手持ちのバッグから取り出したものがある。
香水を入れる霧吹きだ。それを僕の身体へまんべんなく降りかけたあと、そのまま僕に渡してくる。
初めは握らせようとしてきたのをいったん止めた祖母は、改めて入院着のふところへねじ込んできた。
「病院から、どのような指示をされているか分からない。けれど、寝る前になったらこの中身をしっかり吹きかけておきな。次にばあちゃんがいつ来られるか分からないから、大事に使いなね」
そう告げて、祖母はゆったりと病室を出ていく。
妙なことになったなと、先生はねじ込まれた霧吹きを取り出してみる。
噴出口の下についた、かぼちゃのような形の「溜まり」を明かりに透かすと、黒い液体の影が映る。容量は8分目ほど入っていた。
試しに一回、噴き出してみる。先ほどかけられたのと同じ、ややフローラルな香りが漂ってきた。
それから一週間が経つ間に、3人目の患者さんも、見送る暇がないうちにいなくなってしまう。
先生は祖母の言いつけ通りに、寝る前の霧吹きを心がけていたんだが、10日目あたりになって。
夕飯後で、妙に強烈な眠気に襲われちゃってね。いつ眠ったか分からないタイミングで、意識を失ってしまったらしいのさ。
ふと目が覚ましたとき、周囲は真っ暗だった。
「あれ、まだ夜なのか?」と思って、枕もとへ手を伸ばしてみる。
ところが、いつもなら半分曲げた状態で届く、ベッド横に置かれた引き出しに、いくら手を伸ばしても当たらない。
臭いもおかしい。どこか肉を腐らせたようなスメルに息を止めたい衝動に駆られてしまう。そのうえ、ベッドの背中の感触も、汗の割にはぬめりけが絶えないんだ。
次の瞬間、大きなげっぷの音が響く。先生の中からじゃない。足元からだ。
どっと液体が押し寄せ、先生の足裏に届くや、瞬く間にしびれと痛みを感じさせる。
勢いで流されてきたのか、先生の顔のすぐ横まで滑ってきたのは、先生が着ているのと同じ、この病院の入院着じゃないか……。
先生はすぐ危険を悟ったよ。
この日も香水は懐に入れてある。すぐさま取り出して、身体といわず周りといわず、吹いて吹いて吹きまくった。
今度は大きな腹の虫のような音とともに、先生は自分の身体が背後へ流れていくのをm感じる。
一瞬離れたかと思うと、すぐに新しく背中を打つものがあった。
病院のベッド。その上に先生は横たわっていた。けれど足のすぐ先には、明かりを消した病室内でもはっきりわかるほど、大きく口を開けた管らしき影が見えたんだ。
先生の見ている前で、管はひとりでにうねりながら、病室の外へと逃げていったんだよ。
それから先生が退院するまでの間、あの管に再び出会うことはなかった。
ただ、もしあの霧吹きを持っていなかったら。懐というすぐに取り出せるところに入れておかなかったら。
先生が4人目になっていたのは、ほぼ間違いないと思っている。