初めての鬼退治
あまり人の手の入らぬらしいその地の木々は、常緑樹が無秩序に鬱蒼と生い茂り、窮屈そうに重なり合う枝と葉が、陽の光をまだらに遮っていた。不規則に並んだ木々の隙間は狭く、陽の光が十分に届かぬせいで湿った山肌には、枯れ葉や落ちた枝が厚く降り積もって、人の侵入を拒む。
所々に積雪も残る春まだ浅い三月の山の中、肌に触れる空気は張り詰めて、微かな風さえも痛いほどに冷たい。音だけでも冷たい風に時折、高く澄んだ鳥の声が重なって聞こえる。
その、人の生活の営みの場からは遠い、見通しの悪い山の上の方、木々の隙間には、古い様式の小さな神社があった。
山頂へと昇る登山道の終着点を示すように建てられた小振りな鳥居と、その先へと続く人の足で幾度も踏みしめられてすり減った参道の敷石に、色褪せているはいるものの大切に手入れされ続けてきたことを物語る、小さな祠と。そして祠の後ろに雄大な存在感をたたえてそそり立つ、太い幹に注連縄を回された巨木が、そこには在った。
「神社っつーのはどんなに小さくても、基本的に神域だ。邪霊、邪なる異形の類いは一切、立ち入ることができない。ここは古くて小さいが、ちゃんと手入れされてる。周囲と比べると格段に空気が清涼なのは、わかるだろう?」
鳥居の前できっちり二礼二拍一礼してから境内に足を踏み入れた、山の上にはそぐわぬ派手な格好をした長身の女性が、背後を振り返る。赤みの強い色をした眼が、同じように鳥居の前で一礼した青年を見やった。
青年、渡海冬夜は、参道の先、小さな祠の後ろに聳え立つ、注連縄を張られた巨木に視線を向けて頷く。
「うん。山の中だからってことを差し引いても、気配が違うよね」
「これがもし放棄された神社だったら、邪霊の巣になってるけどな」
「……上げて即落とすの、止めようよ、ばーちゃん」
「事実だからな。ほら、時間がないぞ、とっとと支度しな」
「……40秒で支度しな! って言われないだけましだと思う事にする」
二十歳そこそこに見える青年が、成熟しているが熟女と呼ぶにはまだ随分と早い年頃の女性に「ばーちゃん」と呼びかけるのは問題ないのか、ただ急かすように鼻を鳴らす女性に、冬夜は肩を落とした。その流れのまま、担いできた鞄を下ろし、荷物を取り出してゆく。黒い縄に、白い和紙を折りたたんだものに、赤黒い液体を満たしたビンに、と怪しげなものが次々と足下に並んだ。
と、不意に、女性は腕を組んで立ったまま、冬夜は荷物を取り出しながら、同時に山道の下へと視線を向ける。
いつの間にか、先ほどまで聞こえていた、鳥や小動物の声や気配が途絶えていた。
二人の見下ろす先で山道の一部が、ぞわり、と蠢く。
「……もしかしなくても、結構近付いてる、よね」
「近付いてるね」
生い茂る木々の落とす影よりも暗く見える”それ”は、ぞろりぞろりと蠢きながら山道を這い上がってきている。遠目にはただの影のように見えた”それ”は、近付くにつれて歪な、人に似た形をしたものが獣のように這っている姿を顕わにする。人のものと言うには歪んだその顔の、小さな眼は山道の先に立つ二人を見据え、引き裂けた口には人には大き過ぎる歯が乱杭歯に並ぶ。
「うわ、気持ち悪っ!」
蠢いて輪郭が定まらないながらも人に似た姿だけは視認できる”それ”に、素直な感想を吐いて冬夜は山道の上でビンを傾けた。見た目よりさらさらと滴り落ちる液体が、地面に複雑な図面を描く。
「ええと……この図形があれに対応してて、こっちがブーストで……」
ぶつぶつと確認しながら描いた図面を前に、更に鞄から取り出した古めかしい和綴じの本を開いて、地面と本を何度も見比べる冬夜の後頭部を、女性は容赦ない力で叩いた。
「来るよ」
真剣な声に冬夜は即座に本を鞄に突っ込むと、山道に視線を向ける。
人ならざる影はその鈍重そうな見てくれに反して、油断できない速度で山道を這い上がり、鳥居の外で待ち構える青年目掛けて近付いて来ていた。
歪な顔部分の、小さな眼が狂気にも似た感情を宿して真っ直ぐに見上げてくるのを、冬夜は息を呑んで受け止める。
「……鬼よ、人を喰らう鬼よ、人が居るぞ、人が居るぞ」
屈み込み足下に描いた陣の端に触れて、謡うように言葉を紡ぐ。
「人の気配がせぬか、人の匂いがせぬか。人を喰らう鬼よ、喰らいたくはならぬか」
視線は這い上がってくる”それ”に向けたまま、折り目の付いた白い和紙を陣の中央に置き、ゆっくりと腰を上げ後じさりして鳥居の内側へと戻る。
「……あれは神社の敷地には入れないんだよね?」
「何事にも、絶対ってのはないんだよ。やってみなきゃわからんね。試してみるかい?」
「しません。シュレディンガーの化け物は遠慮させてください」
「まぁ、それがいいだろうね」
「おれも二十二歳で死にたくはないです」
山道を這い上がってくる”それ”は近付いてくるにつれて速度を上げ、鳥居の内側に立った二人を見て引き裂けた口を大きく開けてぬらりとした舌を蠢かせると、口の端から涎を垂らし、嗤った。歪んだ、小さな眼には見紛う事のない狂喜と、飢餓が宿る。
◇ ◇ ◇
古くからこの山を縄張りとしてきた”それ”は、人々が”鬼”と呼んだ、人喰いの化け物だった。
いつから存在していたのか、何故人喰らうのか、それは”それ”自身にさえわからない。
わかるのは、いつからか”それ”自身も覚えていないほどの昔から、この山で見付けた人間を屠り、喰らって生きていた、ということ。人を喰らいたいという、渇望。あるのはそれだけだった。ただただ、人が喰いたかった。
―その山に入れば生きて帰ることはない。
人々は、山には人を喰らう化け物がいる、人喰いの鬼が出る、と山に入るのを恐れた。
山には古くから山を護る山の神の祠が在り、鬼を恐れた人々は熱心に祠に祈ったが、人食いの鬼は去らず。山に入った者が消えることも絶えず。いつしか山に入ることそのものが禁忌となり、人々は山に足を踏み入れなくなった。
それでも稀に、祠の手入れをする者などは定期的に現れたが、彼等は一様に”それ”に気配を悟られない術を用いていたり、あるいは”それ”の忌避する気配を纏っていたりと、喰われぬための手段を心得ていた。
人を喰えなくなり”それ”は飢えた。
けれど、どんなに飢えようとも、縄張りの外に出ることはできなかった。縄張りから出れば”それ”自身が狩られ屠られる立場になると、死にたくなければ決して縄張りから出てはならないと。理由は”それ”にもわからない。ただ、本能がそう、告げていた。
人を喰らう事が出来ぬまま、ただ山の中に閉じ込められて。
そして時代は流れ、言い伝えも祠の存在理由も忘れ去られて、周囲の開発も進み。また、人々が山に入りだして。長く人を喰らうことができずにいた”それ”は、久しく嗅いでいなかった人の匂いと気配に、狂喜した。
人の気配、人の匂い。
―ヒト ヲ クエル
山道の上、この山の内でありながら唯一”それ”の立ち入ることができぬ、忌々しい祠のある場所から、人の気配はしている。しかし、度々そこを訪れる者のような不快な気配は纏っておらず、美味そうな人の血肉の匂いばかりが漂っていた。
”それ”を強烈な不快感で拒絶するあの気配さえなければ、人など捕えるは容易い。もしあの忌々しい場所に閉じ籠られても、ならば出てくるのを待てば良いだけ。これまで人を喰えずにいた時間に比べれば、出てくるのを待つ時間など一瞬のようなもの。
久方振りの人の正気を失うほどに甘い匂いに、口の中を満たした涎が地面に滴り落ちた。
◇ ◇ ◇
明らかに鳥居の内側に立つ二人を認識して、這い上がる速度を上げた”それ”に冬夜は表情を引き締めて黒い細縄を握り締めた。
「可愛くないっ、欠片もミジンコほども可愛くないっ!」
「人喰いの化け物に可愛さを求めるんじゃないよ」
「性質が可愛くないのに、外見まで可愛くないなんてっ」
「阿呆か、外見が可愛かったらオマエなんて討伐できなくなりそうじゃないか」
「あ、そっか。一理ある。流石ばーちゃん」
「安心しな。そんなことになったら、きっちりぎっちり、鍛え直してやるから」
「……今でも十分、厳しいと思うんですが」
軽口をたたき合いながらも、二人とも”それ”からは視線を外さない。
人には有り得ない動きで、大きく裂けた口の端からは絶えず涎を滴らせ、度を越えた飢餓に小さな眼を光らせる”それ”は確かに、人でも動物でもない”なにか”だった。
二人に近付くほどに這う速度を上げた”それ”が、鳥居の前の山道に描かれた陣の上に乗る。
途端。
―ギャァアアアア!!
陣から雷のような光が陣の中を縦横無尽に走り、光に撃たれた”それ”は聞くに堪えない叫び声を上げて硬直した。昏く澱んだ体表を光が容赦なく切り裂き、体内のその奥にまで切っ先を叩き込む。
跳ね上がった体には更に、冬夜の手から飛んだ黒い細縄が絡みつき、ぎりぎりと締め上げる。
光に焼かれた体を細縄で捕縛され、その両方に締め上げられて、耳をつんざく叫び声は割れて甲高く響き渡った。何処かから、鳥の飛び立つ音が聞こえる。
細縄の端を握った冬夜が、”それ”を見据えて口を開いた。
「その陣は其方の生まれし地よりもたらされしもの、その縄は其方に縁繋がる者の欠片連なるもの。其方の生きる場所は此方に非ず。この地に非ず。この現世に非ず」
朗々と唱えられる言葉に合わせて、光は更に強く激しく跳ね回り、のたうつ”それ”を締め上げる力を強くする。
「生まれ落ちし界より零れ落ちし哀れなるものよ、人を喰らい此方にて罪を重ねし罪人よ、縁繋がれる彼方にて永遠なる眠りにつくが良い!」
呪文のような言葉に合わせて”それ”を包み込んだ光は、言葉と共に輝きを増し、密度を増し。眩しいほどに輝きを増して、天高く渦を巻き。
そして、陣に置かれていた和紙に一気に流れ込むように、吸い込まれて、消えた。
開いていた和紙がひとりでに折り畳まれ、はたり、と地面に落ちる。
陣に置かれた時は白かったはずの和紙には、地面に描かれていた陣と同じ陣が描かれ、山道に描かれていた陣は、そのようなものなどなかったかのように、綺麗に消えていた。
鳥居から足を踏み出した冬夜が、綺麗に折り畳まれた和紙をそっと、拾い上げた。
遠くで、鳥の声がした。