言ノ樹
「言葉」
それは真っ白で、穢れのない球だった。
素材がわからない。ガラスのようにも、プラスチックのようにも、木材に色を加えたようにも見える。
持ち上げるのははばかられた。だから、そっと触れた。それはツルツルとしていた。時々ざらついた。冷たかった。自分の体温を感じた。
傍に添えられたカードには、タイトルと製作者の名前が書いてある。
「山村紅葉」
それを見て、ドキリとした。周囲を見た。誰もいない。当然だ。文化祭とかいうハレの日に、こんな陰鬱なだしものを見にくる人はいない。それこそ僕のような根暗と──それを小馬鹿にする、陽葉くらいだ。それでも最低一人は教室にいなくてはならない。展示物をぞんざいに扱われないよう監視するのと、万が一の部員勧誘のため。
僕が留守番をして早一時間。一般客はおろか、生徒すら一人もきやしない。こんな田舎の高校生が作った芸術品なんて、誰の目にもとまらない。
美術部の一人として、それが残念だ。とは思わない。要は自己満足だ。僕たちは、自分の曖昧模糊とした心を、額縁や紙、石などで形に出来ることに──そしてそれを視認することに束の間の安らぎを感じているのだ。無理に自慰行為を見せつけられ、気持ちの良くなる者などいまい。それをわかってなおこのような展示を行うのは、それでもどこか僕たちは願っているのかもしれない。誰かが僕たちの心の凹凸に触れ、誰かが僕たちの凹凸を平らかにしてくれることを。それはまるで片思いのようで、やはり自慰行為のようで。それを思うと少し悲しい。でも今はそうでない。そうなるのは哀しき作品たちを片付け終えた後、がらんどうの教室に僕たちの残り香を感じる時だ。
風が吹いてきた。カーテンの揺れに歓声が混じる。教室に面した中庭には特設のステージが設けられ、学生のバンドが流行りの歌を歌っている。彼らの熱狂のおこぼれにあずかるべく観衆は円を成し、声援を送る。その端の方に山村先輩がいた。ボーカルに合わせ手を振り身体を揺らす友人の、そちらに方に合わせるように、身体を揺らしている。木々が風に葉を揺らすように、彼女の長い髪が揺れる。正確には遠くて見えないから、その様を想像する。心にさざ波が立つ。窓を閉めた。
風が入らなくなると部屋は蒸し暑い。夏は未練がましくも暑さを残していったようだ。皮膚の3ミリ下から汗が湧く感覚がする。さらにその下で血が熱く巡っている。
落ち葉が部屋に入り込んでいた。それはちょうど、「山村紅葉」の「紅葉」に重なるように落ちていた。赤茶色に、秋色に染まった桜の葉。僕はそれを持ち上げた。乾ききって、軽い。
ふっと、一年と半年前の記憶が蘇った。
美術室のドアを開け一番に目に入ったのは満開の桜だった。窓が開け放たれた景色は、そのまま絵画のように見えた。だから、そこに人がいるのに気が付かなかった。彼女も絵の中の人物だった。小川の清さと夜空の深さを思わせる黒髪。儚くも凛々しい背中。美術部文芸担当の僕としては、いつかこの光景を言葉にしたいと願う。しかし幾度の試みも陳腐の内に終わった。確実にある「何か」を言葉で象る度、その確実性が失われてしまうように思えるのだった。
異物たる僕の入室に、彼女は振り向いた。それが僕と山村先輩の出会いだった。いや、出会いというには大袈裟だ。ただ彼女はそこにいて、中庭の桜を描いていた。僕はそこに行って、桜を書きたいと思った。
その日僕は、自分の心に種を植えた。
それは、茫洋たる想いだ。形容出来ぬ、言葉にならぬ想いだ。
それは、しばらくして芽生えた。「好き」という言の葉だ。
それは、季節が巡るにつれ、彼女と時を共にするにつれ、成長し、葉を茂らせていった。
「好き」
「先輩が好き」
「先輩の髪が好き」
「先輩のにおいが好き」
「先輩の目が好き」
「先輩の笑顔が好き」
「先輩の優しさが好き」
「先輩の強さが好き」
「先輩の弱さが好き」
「先輩の言葉が好き」
時の経過は僕に言葉を与えた。それを心の内で唱える度、より一層好きだと思った。
それは、夏には一本の木になろうとしていた。僕はいつも、深緑の木陰で涼んでいた。彼女をひっそりと見つめながら、時々吹く風の心地良さに甘んじていた。
それでも。
と、今僕は思う。
先輩は三年生。今日の文化祭を終えれば部活も引退し、受験に専念する。半年後には顔を合わせることもなくなるだろう。
僕は安住の地を離れる決心を持った。「今日こそ」が「明日こそ」を経てまた「今日こそ」になる度、僕は自分の意思がマトリョーシカみたいに小さくなっていくのを感じていた。だから、米粒みたいにちっちゃくなってしまう前に、伝えなくてはならない。僕の想いを。
その先の事など何も考えてはいない。
十中八九振られてしまうだろう。たった一年半の関係、それも放課後の二時間教室の隅でせっせと文章を書き連ねている男などに好意を持つはずがない。僕の作品が、誰かの琴線に触れ大合奏を引き起こすような名文であれば別だが──今日も僕の苦心作は、人の手の温もりを知らずにいる。
改めて、先輩の作品を観る。
それは、やはり球である。それ以上でもそれ以下でもない。ただ、完全な球ではなく、やや歪な形をしていた。カーテンの隙間から漏れた光を反射し、暖かくも、冷たくも見える。
先輩は何故、この球体を「言葉」と題したのだろう。いや、そもそも先輩は何故このような作品を最後の展示のひとつに選んだのだろう。
先輩は多才だ。初対面の時のように、絵もよく描いている。その絵は大抵が風景画だ。最もよく描くモチーフは中庭の桜で、今日も真っ赤に紅葉した桜の絵が美術室の一番目立つところにかけられている。彫刻を作っているのも見たことがあるし、一度だけ短編小説を持ってきたのを覚えている。その描写は桜のように儚く美しく、文筆一本の僕などより断然素晴らしい文章だった。
この「言葉」は、彫刻或いは現代アートにはいるのだろうか。
現代アートには詳しくないが、唯一デュシャンの「泉」だけは知っている。小便器にサインを施し「泉」と題したのみの作品は、観衆にある問いを投げかけた。
「これが泉?」「どこが?」「何が?」
それは「何故?」に、そして、芸術を芸術たらしめる芸術性への懐疑へと繋がった。即ち、彼は何でもないものを芸術作品として展示することで、当たり前に思える概念に疑問を投げかけたのだ。
仮に先輩が同じことを試みたとすれば、この「球」は何が「言葉」なのか、何故「言葉」なのか、そもそも言葉とは何か──そのような問いを先輩は発しているのでは無いだろうか。
真っ白だから、穢れがないから言葉?
確かに言葉に穢れはない。特定の意味に縛られないという意味では色がない、真っ白なものといえる。それは何色にも染まる。
素材は──言葉の素材。強いて言うならば、発言者だろうか。あらゆる素材に捉えうることは、発言者の多面性と解釈出来るだろうか。言葉は誰にも縛られない。
触感、温度──言葉は厳しくも、柔らかくもなる。冷たくも、暖かくも聞こえる。
なるほど、「言葉」という題、その言葉はただの球に意味をもたらしてくれる。題が失われれば、それは確かに何物でもない。しかし、今その球は間違いなく「言葉」を表している。
先輩の発想に驚かされるばかりだ。僕にはとても、出来そうにない。いつか──
足音がしたから振り向いた。意識だけは高い美術愛好家が来たのかもしれない。或いは、金券を使い果たし暇を持て余した学生が冷やかしにきたのか。
果たして、そこにいたのは我が美術部の部長だった。
「やあ、当番代わろうか」
彼女の頬でラメが光る。どうやら、部長はすっかり文化祭を楽しんできたらしい。青春の残り香のような、甘いにおいがする。
「まだ、交代まで三十分ありますよ」
「私ら今日で引退じゃん?ちょっとくらい悲しみに浸らせてよ」
部長はそう言って、部員勧誘用ブースの席に腰掛けた。
「いやはや、三年ってあっという間だよね」
展示された作品をぐるりと見回し、部長はしみじみ言った。自分の作品に目をとめ、ため息をついた。
「正確には二年半か。全く、上達しないね」
「いや──」
そんなことありませんよ。そう、言おうとした。本心からだ。部長の作品には、確かに迫力といった名画にあるそれは感じない。しかし、しみじみと感じ入らせるような、そして観る者の感情を引き出すような、穏やかに響く魅力がある。そこには部長の人柄が、言葉で表すよりもっとハッキリと、表れている。
「祭短しはよ行け少年」
僕がそれを言葉にするより先に、部長は唄うように言った。
出口の近くに、一枚の絵が掛かっている。それが部長の作品。大きな窓の前に椅子がひとつ。その傍にも空っぽの椅子が、机が。部屋の中から窓を描いた絵。窓の外には何もない。ただ淡い光が差し込んでいる。それが何を描いているのか。何故描いたのか。何を思って描かれたのか。手に取るようにわかる。ただ、形容しがたい。言葉に出来ない。してはいけない。そう思った。
教室から外に出ると、より一層暑さを感じた。狭い廊下に人がごったと溢れ、それぞれ熱気を発している。それは金魚すくいの、水槽の中を思わせた。金や赤の魚たちが自由に泳ぐ中、ただ一人黒い僕だけがフラフラと孤立している。誰か、すくい上げてはくれないものかと辺りを見回すも、誰もいない。というよりは、そこに「誰か」がいすぎて、僕には誰が誰だかわからない。
タピオカミルクティーの文字が目に入った。ポケットをまさぐると、昨日の余った金券が見つかった。受付の男子生徒に金券を渡す。代わりに受け取る札を、彼がうっかり落としてしまった。しゃがんで、拾う。立ち上がる最中、彼のシャツに目がとまった。クラスで制作する、オリジナル・Tシャツだ。クラスメートと思われる名前が散りばめられている。その言葉の羅列こそが、彼の帰属を──広くいえば、彼そのものを、表すのだ。
それは僕とて例外でない。しかし、どこか自身にその感覚は希薄だ。タピオカの群衆のひとつとなることを、潔しとしないのだ。軽薄で、捉えどころなく、クニクニと無味な一粒になりたくない。その名がなければ、木の実ともデンプンの塊ともつかないような、曖昧な存在になりたくはない。そんなことはない。
例え言葉ひとつで繋がるようなものでも、ないよりは幾分いい。それは安心をもたらす。現に僕は、一人でフラフラとする僕に途方もない不安を感じている。
市販のミルクティーに徳用のタピオカをあわせただけのタピオカミルクティーは、それぞれが主張しあって、味にまとまりを感じない。甘いのと無味なのとが交互にやってくるだけだ。初めて飲んだが失敗した。
まだ先輩は中庭にいるだろうか。ふと頭をもたげた思考のままに足を動かす。すれ違い、追い越す人々は皆笑顔、笑顔、笑顔。笑ってみる。安心だ。
中庭は既に閑散としていた。ステージは喧騒に疲れたカップルの腰掛けと化し、彼ら彼女らを熱源として新たな空気に包まれていた。先輩の姿はない。
先刻先輩がいた辺りへと進む。同じ場所で、同じ空気を吸えば、同じ想いを共に出来るのではないか──などという幻想を抱いていたわけでない。一陣の風が吹き、さわさわと木の葉が揺れる。木陰も相まって涼しい。爽涼な音のもたらす平静は無音のそれにも勝る。
あと数刻後に僕は、先輩に、僕の想いを伝える所存だ。胸の上辺りにたまった不快感は、言葉にされぬ想いの欲求不満である。それを僕は、丁寧に言葉に置き換え、伝えなければならない。なのに欲求は反作用してそれを押しとどめようとする。緊張という言葉では足りない。それに甘美さとスプーン一杯の背徳感を加えた想い。考える度煮詰まり、濃縮され、硬くなる。それでもまだ熟れぬ、結実した想いをもぎ取るのは酷く痛い。その果実の内に秘めた種子が、芽吹かぬことを思うと哀しい。
この桜の樹は、幾らほどの想いの輪廻を見てきたのだろう。創立の日に植えられた苗木は百と余年の時を経て今、大樹となり僕の前にそびえ立つ。花を咲かせ葉を落とし冬を越す、その間に人は現れ消えてゆく。この生命の縮図と言える循環の中に移ろう人の情。その果てに僕がいるならば、この樹は何を語るのだろう。その熱く涼しい紅は、僕に何を伝えるのだろう。例え、その恋が実ることはなくとも──桜が実をつけることなく葉を落とすように、そして翌年にはまた花をさかせるように──無常の情。恋、それは想いが真っ赤に染まった、ただそれだけのこと。それだけのことに僕は突き動かされ、今最高に生きている。
木肌の凹凸は硬く、柔らかい。木の葉のざわめきは騒々しい静寂。紅葉のもたらす真っ赤な影は暑苦しい清涼。全てが曖昧さの内に溶けだす感覚がする。様々な想いが現れてはその存在を見失う。しかし、どこかにそれは「ある」。
気がつけば、中庭のカップルたちは消えていた。僕という異分子の乱入に不承不承退散したのだろう。校舎の人混みは一層密度を増しているように見える。文化祭の終わりに向け最後の行脚といったところか。
背を押すように風が吹いた。それに抗うように振り向いた。そこに先輩がいた。そこだけがやけにはっきりとしていた。枯葉が地面を擦る音がやけに近く感じられる。靴の石畳を叩く音が心音の如く感じられる。なのに、先輩の香りにだけはすっと安心させられる。
「なんで」
と、間抜けな声が出た。なんでもかんでもないだろうに。ここは学校で、今日は文化祭で、だから先輩がどこにいたって自然で。涼しい顔をしてなびく髪を押さえるその立ち姿は、先輩が秋の概念をかたどって現れたのかとすら思わせた。
「春花が、君が話があるって」
木漏れ日が目をやいた。わざとらしく顔をしかめたのは動揺を隠すためだ。確かに部長と話はしたが、言伝などは頼んでいない。部長のイタズラか、或いは気遣いか。いずれにせよ、迷惑極まりない。
「話なんて」
ない。そう言おうとして、思い留まった。あるじゃないか。ただ、計画通りではないというだけだ。幸いにして僕たち以外に人はいない。桜の樹が遮って廊下から見えることもない。今、行動に移さないのは怠慢ではないのか?朝三暮四、臭いものに蓋、上手く言葉が出てこない。いずれにせよ、臆病この上ない。
「そっか」と、踵を返す先輩の姿は儚い。逃すまいとして、手を伸ばす。
「まって」
空をかいた手が落ちてゆく。
「…下さい」
先輩が足を止め振り返る。
「なあに」
その顔をみた瞬間、思う。恋をするとはなんと幸福なことだろうか。閉塞感のもたらす苦しみ、その下に存在する多幸感。蓋を開ければ噎せかえりそうなる程の甘さが詰まっている。一年半ぐつぐつと煮込んだそれは、希望なのか叶わぬ夢なのか。この矛盾に満ちた幸福は恋愛の妙としか言い表せない。少なくとも、僕は今この瞬間が愛おしい。例え、数分後苦味に顔をしかめることになろうとも──いつだって、焦がしたことを後悔するのは未来だ。
「あの、」
違和感に気づいたのはやっとその時になってからだった。それは、きっと、ずっと前からあった疑念。それでも目を背けてきた懐疑。それはもはや自然。
先輩の唇がきゅっと締まった。深く黒い瞳が一点に僕を見つめた。けれど何も言わなかった。
『好きです』
そう、言おうとした。でも言えなかった。言葉が出てこなかった。
『好きです』
確かにそうだ。僕は先輩が好きだ。
『ずっと前から好きです』
そうだ。僕はずっと先輩が好きだ。
『先輩のにおいが』
『先輩の笑顔が』
『先輩の優しさが』
『先輩の強さが』
『先輩の弱さが』
『先輩の言葉が』
『先輩の全てが』
僕は好きだ。それを遍く伝えたい。けれど、言葉が足りない。
『好き』
その単純な一言では、僕の想いが取りこぼされているように思えてならない。かと言って、数多の言葉も『好き』の枝葉末節を切り取った集積でしかない。例えどれほどの言の葉を茂らせた所で、その樹の根も、またそれが生きる地そのものも表し難い。樹を見れば地を忘れ、地を見れば樹は霞む。
先輩を好きな僕は確かに存在する。だが、それは僕の想いという大地に芽生えた、一対の双葉でしかない。いくら程の成長も、所詮は『好き』の理由付けに過ぎない。その延長でしかない。
僕は先輩を好きになったことも、そんな僕の想いも全て先輩に知って欲しい。それが想いを伝えるということだ。『好き』の一言ではあまりに足らない。
言葉の限界に僕は打ちのめされた。言葉の不可能性に僕は立ちすくんだ。言葉とは、なんと不便なものだろう。それは、茫漠たる想いに輪郭を与え思いとし、伝えるためのものなのに、完璧にそれを成す事は叶わない。その目的はあくまで宿願でしかない。つまり、言葉とはその存在を全うすることなく果てる宿命を持つものだ。まるで片思いのように。
先輩の展示が脳裏に浮かんだ。かの球体は確かに「言葉」であった。言葉は想いに──かの球体に輪郭を与えた。色は、素材は、触感は──「言葉」は茫漠たる球を切り取り、表象する。しかし、僕が先に言葉にした意味など枝葉に過ぎなかったのだ。そして、それは言葉にしてもし尽くせない。それは、その思考のプロセスにこそ真意が宿っていたのだ。鑑賞者の思考を経て完成する、いや、それでもなお未完の作品。まだ足りない。言葉を表す言葉すら、足りない。
先輩は凄い。その凄さたるや、筆舌に尽くし難い。そして好きだ。尊敬するし、嫉妬もする。安心もするし、緊張する。もう僕は何も言葉に出来ない。ましてや告白など。無力感ばかりがしんしんと募る。それは現れては散った言葉の残骸だ。雪原に一人立つような孤独感すら覚えた。寒い。
気がつけば、僕は先輩に背を向け、走り出していた。それは、紛うことない逃避行だ。僕は自分の勇気を直視することから逃げた。僕は、言葉を信用することから逃げた。僕は、想いを伝えることから逃げた。
廊下の人混みをかき分けて進んだ。ぶつかる人の肩や背が、僕を非難するように感じた。
廊下には音が充満していた。言葉ですらない笑い声、言葉にする意味の無い言葉、それらのもっと深くには、どんな想いがあるのだろう。ふと思う。心から楽しそうにする彼らたちは、本当に心から楽しんでいるのだろうか。
美術室に置いてあった荷物を奪うように取り、部屋を出た。部長が何やら言葉を発していたが、聞こえなかった。
家までの道中考えた。言葉が、それ自体が不可能性を孕むのであれば、僕たちはどのように自分たちの想いを伝えれば良いのだろう。想いの上澄みを思いとして、その断片を伝える他ないのだろうか。僕にはわからなかった。答えから逃げ出してここにいる。風が背を押すように吹いた。抗うことなく進んだ。
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翌年の春、中庭の桜が花をつけた。
満開の桜は、そのひとつひとつの花こそ小さいが、言葉に表せる以上の感慨を残して散った。
その年の夏、中庭の桜は豊かに葉を茂らせた。
豊かな緑は、取り立てて説明するものはないが、生命の躍動を余すことなく表現していた。
中庭の桜はこの秋も紅く色付いた。
ほの染まる紅は、生命の残り香を表しつつ移りゆく時を憂うようである。
あれから一年が経った。一年間、色んなことを考えた。
「言ノ葉」
そう題された作品、そこには何もない。何も作らなかった。ただタイトルと、自分の名前を書いたカードを置いただけだ。
この「何も無い」作品を文化祭の展示に選ぶ際、当然顧問の先生から詰問された。しかし、去年の先輩との連作だと言い張り、また別に短編を展示することでなんとか事なきを得た。去年の先輩と同じ場所に展示した。カードを置いただけではあるが。
冷たい風が吹いた。一緒に一枚の落ち葉が舞い込んで、丁度何もなかった空間に、滑るように着地した。
僕は敢えてそれを取り除くことはしなかった。もし、僕のひねくれた展示を見に来る者がいるならば、このただの落ち葉がなぜ「言ノ葉」なのかを存分に考えてくれれば良い。答えは無数にあり、それが「言葉」なのだから。
この一年、「言葉」について考え続けた。答えは出なかった、というよりは足りないように感じた。それがひとつ純然たる答えなのかもしれない。
言葉は──とても無力だ。何故なら、それは誰かしらの想いを一部切り取って現れるものだから。どこまでいっても枝葉末節に過ぎない。それは抗いがたい真実だ。単純な言葉では想いの大枠しか表せない。しかし、豊かな語彙を用いれば用いるだけ、それは鮮明にはなるものの、言葉の対象は先細り、その他が見落とされてしまう。いくつも言葉を重ねれば、モザイクが薄れてゆくように、いずれ想いの全てを表せるようになるのかもしれない。しかし、それは色の違う砂粒で巨大な絵を描くようなもので、つまり凡そ不可能だ。
では、僕たちは言葉で百パーセントの想いを伝えることは叶わないのだろうか。悲しいことだがそう言わざるを得ない。そもそも、自分の想いを全て把握することすら僕たちは出来ない。何故なら、自分の想いを言語化し把握し思いとする、その手段にすら言葉が使われる。僕たちが何かを考える時、つまり思う時、その思考は日本語という言葉を媒介として現れる。
しかし、全て伝わらないからと、伝えようとすること自体を放棄するのは怠慢である。かつての僕のように。ひとつひとつは小さくとも、言葉を積み重ねればそれだけ、完全でなくとも伝わるものは必ずある。花は小さくとも満開の桜は美しい。言葉は無力だ。僕たちはそれを見つめなければならない。そして、折り合いをつけなければならない。
そして、僕は思う。言葉の不可能性に打ち勝つために芸術はあるのではないだろうか。向日葵を表すに、数千の言葉もゴッホの一枚には敵わない。洒落た愛の言葉も心尽くしの歌の前に陳腐だ。芸術は、言葉では表せぬ想いを何とか形にし、伝えるための努力が結実したものだ。作品を見ればみるほど、その作者がありありとわかるような、そんな作品が素晴らしい芸術品だと僕は思う。
だが、僕は未だ言葉にしがみついて、言葉を書き連ねている。言葉の不可能を知り、打ちのめされた経験を持ってなお、だ。それは、無力な言葉と折り合いを付けなければならないという、ある種諦観ゆえのものでもある。しかし、それ以上に僕は信じている。不可能性に囚われた言葉を用い、無限大の可能性を生み出す文学というものを。想いにより織られた言葉という糸。それは細く脆いながら、それを用いて編まれた布は強く、美しく、そして自由だ。無力な言葉の小さな可能性を、物語という装置により押し広げる文学。それが僕の後悔と一年の思考の末辿り着いた希望だ。
それでも、僕の稚拙としか言いようのない冗文駄文では大したものは伝えられやしないだろう。この三年間で連ねた言葉は数万。それでも想いの地平はその数万分の一も結実していない。それでも、僕は書き続けている。無力な言葉を用いて、無力な僕は──たとえ大地を描けずとも、せめて、一本の、言ノ樹と言うべき物語を。
ぺらりと、紙をめくる音が聞こえたから、振り向いた。
思いを馳せている内に、どうやら客が来たようだ。喧騒に疲れた生徒が避難所代わりにやってきたのか、或いは僕たちの努力を労いに来たのか。
果たして、そこにいたのは我が美術部を昨年引退した山村先輩だった。
山村先輩は、その瞳を一心に紙束に向け、文字から文字へ移ろわせている。
今年の展示に小説はひとつ。僕の短編だけ。
先輩は涼し気な様子でページをめくる。その手は細く白く、その唇は僅かな笑みをたたえている。
まるで心を愛撫されるかのような、快感とも羞恥とも言えぬ想いがした。それは多分、想いを受け取って貰えた、ただそれだけのことへの悦びだ。不可能性に満ち、無力な言葉。それでも絶えることなくヒトを人たらしめる言葉。それは、誰もが持つ意思伝達、それに伴う愉悦への飽くなき追求の所産なのだ。
ただ、今、言葉は要らない。
僕は、先輩の手が止まるのを待った。そしてその時は、全てを読み終わった後であって欲しいと思った。
閑静な時が流れた。紙をめくる音と文化祭の喧騒が相まって微妙な音の歪みが出来た。そこに僕たちはいる。
先輩の手が止まった。
表紙に目を落とす先輩は思案げに目を細めた。
「桜介君」
先輩が口を開いた。
僕は内心身構えた。
しかし、肝心の次の言葉はなかなか姿を見せなかった。先輩の小さな唇が小さく開き、そのままになっている。時々何かを言いたそうにして、口をつむいでいる。
それでも、やがて、観念したかのようにため息をついた。
その様子は諦めたようにも、意を決したようにもみえる。
「私」
そして、言った。
「好き」
その手には僕の物語。その瞳には僕。その想いは──わからない。しかし、願う。この「好き」が僕そのものへの好意でなくとも──それ以上の、言葉にならぬ想いを何とか言語化しようとする、懸命の努力の末現れた言葉であることを。そうであれば嬉しい。暖かい。恵まれている。感無量だ。幸せだ。言葉にしきれない。だから、今度、物語にしよう。