第三話「桜の木の下で」
コハクが帰宅すると、既に母親が夕ご飯の支度を終わらせていた。コハクのただいまという声を合図に、母親は玄関へ小走りで向かう。
「おかえり」
「うん、ただいま」
「ご飯できてるわよ」
「ありがとう」
いつもの日常を切り取ったかのような親子の会話。そのあとで母親は少し顔を曇らせた。
「今日きてた赤族の子、気の毒よね」
「え、どうして?」
「コハクには言ってなかったんだけど」
「その話、事件のことならマリちゃんに聞いたよ」
もう聞きたくないと言わんばかりに、コハクは母親の会話を遮った。だがそうとも知らずに、会話を続ける。
「あら、そうだったのね。私も鮮明に覚えてる。ひどい事件だったわ…」
「…。なんでみんなそんなこというの…あの子は悪くないじゃん…!」
「あ、コハク!」
脇目も振らず玄関の扉を開け、走り出す。誰も分かってくれないという苦しみを感じて、今すぐ逃げ出したくなったのだ。普段は鬼ごっこくらいでしか走らないコハクだが、今ばかりは息が切れても切れても走り続ける。
(ずっとおかしいと思ってた。赤い髪をみるなり、口々に悪いことを言うみんな。
彼が何かしたの?
彼には関係ないことでしょ!
彼のこと、まだ何も知らないのに!
自分だけが彼の髪を綺麗と感じ、美しいと思ったのだろうか。私だけが。)
名称では表せない、抱え切れないほどの大きな気持ちを感じ今はただ走り続ける。
目的地を定めていたわけではないが、そのうち桜の木のある丘の下へ辿り着いた。両手を膝につき、浅い口呼吸を繰り返して汗を拭う。ふぅっと一息ついたあと、ゆっくりと丘の上に向かって歩いた。
大きな桜の木が、春の風に揺れている。ひらひらと花びらが舞い、風に乗ってコハクのもとへと飛んでくる。丘の上までまだ少し距離があるのだが、舞ってきた花びらたちを頬に感じたコハクは、桜の木が自分を温かく迎えてくれているような気がしていた。
木の下まで向かい、振り返る。そこには、それぞれの家の光や街頭がぼんやりと輝いていて、ステンドグラスのように綺麗な景色があった。陽が落ちて夜になる。コハクはここから眺める街の姿が好きだった。
「綺麗…」
意識もしないうちに、その言葉が漏れる。
暗いキャンバスに何色もの光が描かれているような夜の街並みは、コハクの暗い心にも温かな光を灯していた。
だが、温かくなった心とは反対に、四月上旬の夜はまだまだ肌寒い。夜には帰宅する予定だったため、カーディガンなどの羽織るものを持ち合わせておらず、突然大きなクシャミをした。
「はっっくしょん」
寒い寒いと両腕を抱えているコハクに、桜の木の後ろから誰かが声をかける。
「大丈夫か?」
少し驚いたものの、木の後ろ側に先客がいたのだろうとすぐに察した。口調は少し尖っているが、柔らかく、とても優しい声だ。
「あ、ありがとう。でもだいじょ……はっくしょん!!!」
二度目の盛大なクシャミをしたコハクは、恥ずかしさで顔を赤らめる。すると、木の後ろから枝が生えたように、手だけが伸び、その手には柔らかなマフラーがある。
「これしかない。使え」
「え、いいの?」
差し出されたマフラーは、毛糸で丁寧に編まれたもので、その人の体温がまだ少し残っている。首に巻くと、手で触れた温かさより、もっと身体の奥、心の奥が温まるような人の温もりを感じた。
「ありがとう」
そう言ってコハクは木の後ろへ顔を覗かせたが、そこにはもう誰もいなかった。幻かと一瞬疑ったが、マフラーに残る温もりは確かである。
そういえば、さっきも同じようなことがあったなと、式が始まる前の、赤髪の少年を初めて見た時のことを思い出す。
(もしかして…)
「やっぱりここにいたのね」
振り向くと、コハクの母親が丘の下から向かってきていた。突然飛び出してきてしまったことを思い出し、コハクも我に返る。
「コハク、私も悪かったわ。あんな風に言ってごめんなさい」
なんて口にしたらいいか分からなかったコハクは、母親のその言葉にハッとした。誰にもわかってもらえない、そう思っていただけに、意外にもあっさり母親が理解を示してくれたことに心はさらに温かくなる。
「ううん、私も突然飛び出しちゃって…ごめんなさい」
「おうち、帰ろっか」
差し出された母親の手が、先程マフラーを渡してくれた腕と重なる。ぎゅっと握りしめると母親の温もりを感じ、マフラーにも同じような人の温もりを感じていた。
「優しい声だったな…」
「ん?なあに?」
「ううん、なんでもない」
受け取った柔らかなマフラーと、心配してくれた優しい声だけが手掛かりだった。
その次の日から毎日、コハクはマフラーを片手に桜の木の下へ向かった。いつか来るかもしれないその人を待っていたが、その人が現れることはなかった。
桜の花びらが舞う出会いの季節は終わりを告げ、徐々に緑が生い茂っていく。肌と肌がペタペタと張り付くような、梅雨の季節が始まる。