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マユは、昔からちょっと不思議な子だった。
良いことをしたら、それなりの。悪いことをしたら、そのような……報いが訪れるということを、信じて疑わなかったから。
子どもなら、だいたいそんな理屈で動いていることはある。でも、マユは少しばかり常軌を逸していた。
周りも違和感を覚えるのか、ろくに人が寄り付かなかったように思う。だからといって、いじめられるわけでもない。
いや、正確には違う。マユがいじめの対象にされかけたことは、あった。
教科書を隠され、上履きに枯葉を詰められて、ふうん、といったマユの顔。今でも、よく覚えている。
「こんな悪いことをするなんて、逆に勇敢だよね?」
隣で見ていたわたしは、当時はまだマユの親友どころか、友人ですらなかった……はず。クラスは同じだったけど。
たまたまタイミングがあって、嫌なものを見てしまったな、かかわりたくないな、という感じだった。
マユは泣くわけでも怒るわけでもなく、ほんとうに不思議そうだった。
「だって、人に悪いことをしたら、自分にも悪いことが起きるんだから。かわいそうにね」
小学生ならともかく、当時わたしたちは高校生だ。
けっこう名を知られた、幼稚舎から大学まである私立の学校の、わたしは外部生、マユはもちろん内部生。高校は外部から入って来る生徒がかなりいるせいか、人間関係が荒ぶっていた。お上品な見た目に隠された本性のしょうもなさを目の当たりにしたわたしの感想は、くだらないのひとことに尽きた。
かかわりたくはなかったから、すべて見ないことにしていたけれど、このときばかりは間が悪くてどうしようもなかったのだ。
だから、わたしはマユに声をかけた。
「体育館履きの予備があるから、よかったら履いて帰る?」
「え、ダメだよ。体育館履きは体育館で使うものだし」
「非常事態なんだし、ふつうの決まりをまともに適用しなくていいっしょ」
雑にいって、取り出した体育館履きをマユの前の床に落とした。すると、マユはなにか不思議なものを見るような顔で、わたしを見上げていた――今もそうだけど、当時からマユはわたしよりずっと背が低かった。
「非常事態なのかな?」
「これを通常って呼ばなくていいでしょ。常じゃないから非常だよ」
「そっか……」
これでわたしまでターゲットにされたら困るなぁと思ったのを、よく覚えている。
でも、そうはならなかったし、マユへのいじめもじきに止まった。
なんで止まったかは簡単で――予言通りになったからだ。いじめにかかわった者には、次々と不幸な事件がふりかかった。
はじめは、自分がいじめられないために加担している感じの、気の弱い子。校門の前で、交通事故にあった。けがは足首の捻挫だけで済んだからと、遅刻してきたときに理由を述べた彼女に、マユがいったのだ。
「下駄箱にひどいことしたの、やっぱり、あなただったのね。悪いことするから、そんな風になるんだよ」
授業の最中だったのに、なにも気にせず、大きな声でいってのけた。
ほとんどのクラスメイトは、なんの話って顔してたけど、わたしにはわかった。マユは、彼女が悪行の報いを受けたと指摘したのだ。
いじめを指示しているグループは、その時点では、まだピンと来ていないような顔をしていたと思う。
でも、たしか次の時間。
音楽室への移動中、グループのナンバー・ツーが階段から落ちた。落ちた場面をわたしは見ていないけれど、なんだかすごい音と悲鳴が聞こえて、ふり返ったら踊り場に人が倒れていた。
足が変な向きに曲がっていて、一瞬、我が目を疑った。皮膚から突き出しているものが骨だと理解するのには、さらに時間がかかった――数秒間のことだったかもしれないけど、ああいうときって、主観的な時間の経過がおかしくなるものだ。
わたしはまじまじと惨状を眺め、そして見たものを理解できず、ただ立ち尽くしていた。周りの子たちも、だいたいそうだったと思う。
マユがわたしより下から階段を上がって来て、倒れている子に駆け寄ったのを覚えている。
事故が起きたとき、マユがその子を突き飛ばしたりできない位置にいたことは、だから、明白だったのたけれど。
「ほらね、悪いことをしたらダメ。必ずこうなるから」
いかにも心配しているような顔で、マユが口にしたのはそんな台詞だった。
その声で我に返ったらしいリーダーが、食ってかかった。
「……あんた、なにいってんの!?」
「当たり前のことをいってるだけ。悪いことをしたら、必ずそれは自分に返って来る。このひとで、これだから。仕切ってるあなたは、もっと凄いよ。覚悟した方がいいと思う」
いやいやいや、怖過ぎでしょ! と思いながら、わたしは全力でその場を離れた。保険の先生を呼んでくる、と宣言して。
……こんなことがあれば、そりゃ、いじめも止まる。
外部生のわたしたちは知らなかったけど、内部生のあいだでは、マユはアンタッチャブルな存在として有名だったらしい。あの子にちょっかいをかけると、あとが怖いよっていう……しかも本人に直接なにかしなくても、マユが認識する悪事、というだけでヤバいという噂だった。
なんてヤバい子なんだ。
良い子のマユは、同時に、ヤバい子のマユでもあったのだ。
理屈はわからないけれど、マユが認識する限り、因果応報はきちんとはたらいている。
わたしはマユに逆らえなくなった。
それだけじゃない。マユが「悪いこと」と認識するような言動も、できなくなってしまった。
だって、実例を目の前で見ている。いじめの手先として動いた子は交通事故で捻挫、グループのナンバー・ツーが開放骨折。リーダーは後日、学校で倒れて原因不明のまま入院、そのまま休学。どうなったかは、知らない。
マユの伝説は完成した。あいつはガチでヤバい、と。
そして、わたしはマユの友人になった。
そんなつもりはなかったけど、なってしまった。距離を置こうとしても、無理。なんでか、マユがわたしを気に入ってしまったのだ。
たぶん、昇降口での一件がマユの心に響いてしまったんだろう――マユをいじめた子は報いを受けるけど、だからといって、靴に詰まっていた枯葉が消えるわけじゃない。教科書が、ゴミ箱に捨てられなかったことになるわけでもない。
悪行は相応の災難を呼び、それをなした者を懲らしめるけど、悪行自体が消えるわけではなく、結果はマユの前に横たわったままだ。
靴の中の枯葉を捨てるために焼却炉に行くために履く靴がない。たぶん、あのときマユが考えていたのは、そんなこと。
その問題に、わたしは解決策を持ち込んでしまったのだ。
非常事態だから、ルールを破っても大丈夫、と。土足しても、体育館履きを体育館ではない場所で履いても、なんでもありだ、と。
やらかしちゃったんだなぁ、としみじみ思ったのは、何年も経ってからだ。
一回だけ、マユへのイライラが抑えきれなかったときに、尋ねてみた。
「マユ、高校のときいじめられてたの覚えてる?」
「いじめ……?」
「ほら、靴に枯葉が詰まってたりとかさ」
「あったねぇ」
「あれさ、マユの理屈だと、マユがなにか悪いことをしたからいじめられた、みたいになるの?」
わたしとマユの力関係は、まったく均衡がとれていない。この程度のことを訊くのさえ、機嫌が悪いのでなければ無理だった。
まさに蛮勇をふるった形になったその問いに、マユは笑って答えた。
「そうだよ。わたし、悪い子だから」
ぽかんとしてしまったと思う。良い子のマユが、悪い子?
「え、どこが?」
「これ、内緒だけどね……わたし、ほんとはこの世にいてはいけない子なんだ」
マユは、壮絶な不妊治療の果てにようやく生まれた一人娘で、マユという名前も「繭にくるまれたように、すべての困難から守られていますように」という親心からつけられたと聞いたときには、この子のなんかボケた感じの原因がわかったなと思ったものだったが。
またそういう話なんだな、とわたしは合点した。たまに、マユは自分の存在にネガティヴな感情を抱くらしい。
「だから、いるだけで罪なんだよ。悪い子なの」
「この世にいてはいけない命なんて、ないでしょ」
「そうかな」
「そもそもさ、いてもオッケー! とか、やっぱダメ〜、とかを誰が決めるの」
「うーん……世界、かな」
「生まれちゃった責任もとってよって感じしない? 世界が否定してきたとしてもさ、今ここにいる俺様も含めて世界だろうよ、って思わない?」
イライラしていたはずの相手を励ましてしまって、だからダメなんだよな〜、と思う。
世界がどう思おうと、わたしはわたしをダメだと思うよ。いろんな意味で。
「みっつんって、凄いね」
「愚かなんだよね」
「なんで。みっつんて、頭いいと思う」
「中途半端なんだよ」
「あー。それは、なんかわかる」
「わかんなし!」
無駄に励ましたりしなければ、どうなるのだろう。
マユは、わたしのいうことを簡単に信じる。長年のつきあいで、すっかりそういう関係ができあがっているのだ。
そのわたしがマユを説得したら? そうだよ、マユはこの世にいてはいけないんだよ、と肯定してあげたなら? いてはいけないのにいるなんて最悪だね、なんて悪い子なんだろう、と囁きつづけたら?
マユの思い込みは、彼女自身をも滅ぼすのだろうか。